弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 東本願寺

京都駅から烏丸通りを北へ五分ほど歩くと、巨大な東本願寺の御影堂門が現れる。その甍を見上げるたびに、都の大寺だけに威風堂々と吹く風に私は圧倒される。ところが、門の奥の広い境内からは、真宗寺院独特の庶民的な匂いが漂ってきて、同時に何だか懐かしい。何故であろうか。京都には、早朝からお参りできる寺がいくつかある。西本願寺清水寺南禅寺法然院など。人の疎らな時間に、参詣するのは気持ち良い。最高の贅沢だ。寺参りには、そこを訪うに相応しい季節や時間がある。花の寺、緑陰の寺、苔の寺、月の寺、紅葉の寺、雪の寺。それを堪能できて、かつ静寂な時刻を狙ってみたい。暑気、寒気、空模様は問わず。時節到来、吉日定まれば良い。私の寺参りの基本である。殊に大寺院においては、まだ薄暗い開門直後か、西日傾く閉門間際が望ましい。東本願寺は季節によって少し変わるが、概ね六時前後には開門する。まことにありがたい。八月のおわり、私は花背の奥地の火祭を観に行くために、夜行バスで上洛した。そして、久方ぶりに明け染めの東本願寺へお詣りした。開門と同時に境内へ。この日の一番乗りである。寺の関係者以外誰もいない。晩夏のこととて、日中はうだるような暑さでも、白む空にはうろこ雲。少しずつ秋が忍び寄って来るのを感じた。

かつて平安京の正面には羅城門があり、東西に東寺と西寺が建っていて、都を守護したが、今は形と場所を変えて、京都駅から北を仰げば、東本願寺西本願寺が洛中を見守る。京都人は親しみをこめて、それぞれをお東さん、お西さんと呼ぶ。それにしても御影堂のなんと大きなことか。東本願寺御影堂は、間口七十二メートル、奥行五十八メートル、世界最大の木造建築である。創建以来何度か火災に遇い、どんどん焼けと言われた禁門の変で焼けたあと、維新後は廃仏棄釈の煽りも受けて放置されていたが、時勢落着し始めた明治十三年(1880)より、十五年もの歳月をかけて明治二十一年(1895)に落慶した。これだけ巨大であるのに重苦しさはない。構造は二重屋根だが単層で、下層は裳階である。この構造のおかげで、まるで鳳凰が翼を広げて飛び立つ様に見える。豪壮なのに優美である。瓦はおよそ十七万六千枚。堂内は内陣、外陣、拝座に分かれ九百二十七畳もの広さだ。こちらの壁から向こうの壁が霞んで見える。天井や欄間、須弥壇などは眩いばかりの金箔と精緻な彫刻で彩られ、ここに座す誰もが、現世での束の間の浄土に誘われる。これほどの建築を建てることは、明治のあの時分だからこそできたことで、当世は資材を調達するのも難しいのではないかと思う。ただ、日本の宮大工には、古代より卓越した技術が継承されているから、資材さえ揃えばやれぬことはないだろう。外国人は京都へ降りてすぐに、この大伽藍を観て何を思うだろうか。壮大かつ繊細な美の殿堂たる日本の寺院建築を、まざまざと魅せつけられよう。

真宗寺院は本堂である阿弥陀堂よりも、宗祖親鸞聖人を奉る御影堂の方が大きいのが特徴である。阿弥陀堂は、幅五十二メートル、奥行四十七メートル。御影堂より一回り小ぶりだが、御影堂があまりに大きいため、そう見えるだけで、他の寺であれば大本堂だ。渡廊下で繋がれた両堂は、棟こそ違え、一体と見てよい。両堂合わせれば、小駅のプラットホームよりも長い。浄土系寺院の本尊は阿弥陀如来である。だが本願寺の場合、知らなければ御影堂こそが本堂だと誰もが思うだろう。それほど真宗は、宗祖親鸞を大切に思っている。御影堂は門徒や京都人、或いはこの寺を訪ねる人々にとって、信仰と安らぎの場であると同時に、公会堂のような役割を担っているように思う。これが浄土真宗本願寺の布教であった。

阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ渡廊下には、明治の再建時の遺産が展示されている。中で、毛綱という材木を切り出した時に使われた太い綱には感銘を受けた。毛綱は、麻と門徒の女性が提供した髪の毛を縒り合わせて編み込んである。そうすることで強度が増して、切れない綱になるのだとか。昔から髪は女性の命とも云う。いや、昔であれば尚更である。門徒の女性たちは、それを惜しげも無く、我先にと提供した。今のように重機のない時代、再建には相当な苦労があった。越後の材木伐採の現場では、死者も出る大事故が起きている。山に入ったり、建築現場に踏み込めない女性たちにとって、自分たちに何ができるのか考えた末、せめてもの一助としたのが毛綱であった。私はこの毛綱に、どんなものよりも強く深い信心をみた。薄気味悪いほどリアルな信仰である。あまりにもストレートである。色褪せて黄緑色にトグロを巻いた毛綱は、何とも不気味であり何とも美しい。立派な御影堂や阿弥陀堂も結構だが、東本願寺は何と言ってもこの毛綱があることが、最大の光明と力の源泉の様な気がしてならない。

廃仏棄釈で一度は廃れかけた日本仏教は、こういう名もなき庶民の中で再び発芽して、新たな道を歩み始めた。 現在、浄土真宗全体の門徒は一千三百万人を超え、日本仏教で一番である。師法然が説いた専修念仏、易行という仏道に深く共鳴し帰依した親鸞は、さらにその教義を深め、進め、広めた。だが、師弟はともに既成の仏教勢力から排斥される。法然は四国へ、親鸞は越後へ流される。一説では、親鸞は死刑になるところを、自身が中級貴族日野氏の出身であり、親族には公卿がいたため免罪になったと云う。幾多の不遇の時を送った青年期だが、親鸞の念仏と他力信仰はますます熱を帯びた。越後での幽閉を解かれ、沸々と湧きあがる思いを、流転の地である坂東は常陸国の稲田にて「教行信証」に著した。そして親鸞は、当時の僧としては前代未聞の妻帯者となる。当然再び既存の仏教勢力から激しく非難を受けて、ついに強制的に還俗させられてしまう。親鸞は僧に非ず、俗に非ず、自らを愚禿と称するようになった。これは決して諦めではなく、親鸞なりの不屈の誓いではなかったか。

親鸞は九十年のその生涯で、阿弥陀如来を真に信じた瞬間から、往生が約束されると説き続けた。だが、親鸞が自ら、浄土宗から新たに浄土真宗を起こしたわけでなく、後に分派していったのである。親鸞は六十を過ぎて再び生まれ故郷の京都へ帰った。坂東での布教は多くの門弟門徒を得て、一応は成功したが、やはり当時としては辺境である常陸国稲田では限界を感じたのだろう。そしてまた、生まれた場所であり、師法然との想い出多き京都への望郷の念が、棄て去ることはできなかったに違いない。どこまでも人間臭い親鸞らしい。親鸞はこのあと都でおよそ三十年、教義の構築に努め、多くの弟子と門徒へそれを面授した。自らはあまり積極的に布教はしなかったとみられる。無論その間も、様々な横槍が入ったであろうが、信念は死ぬまで失うことはなかった。親鸞は最晩年まで、子息善鸞との義絶、末娘覚信尼母子の生活、門弟入り乱れた後継争い、教義の歪み、また自分自身の信仰、自らはどう往生するのかなど悩みが尽きなかった。自分が亡き後、日本仏教と浄土教、さらには我が子や弟子たちの行く末を案じていた。が、奈良国立博物館に蔵されてある親鸞聖人画像からは、静謐の内に秘める凄まじい気迫と自由が感じられる。そうなのだ。親鸞は生涯自由の人なのだ。信仰の自由、衣食住の自由、妻帯の自由、表現の自由、学問の自由、移動の自由。自由こそが親鸞が自ら体現して見せた最大の信証だと思う。

弘長二年(1262)親鸞聖人入滅。遺体は、東山大谷で荼毘にふされた。その地に覚信尼によって、廟堂が作られ、本願寺の由緒となる。後に、浄土宗から分かれて浄土真宗となり、ひたすらに阿弥陀如来のみを信じ、他力信仰を標榜する、日本仏教の中でも、特異な宗派となっていった。しかし、既成勢力からは特異でも、名もなき庶民にとっては大いにわかりやすく、まさに易行であり、信者を増やしていった由にもなる。その頑な信仰集団は、一向宗と呼ばれ、室町時代には中興の祖蓮如によって、越前の吉崎に広大な寺内町を築いて、勢力を伸ばした。戦国期には一向一揆を起こし、戦国武将からも恐れられ、信長とは石山合戦を八年に渡り繰り広げるなど、鉄の団結力を見せつけた。信長の跡を継いだ秀吉とは和解して、石山本願寺から、京都堀川七条の地を与えられて、本願寺は都で再び花開き始めたのである。ここが今の西本願寺である。秀吉から天下人が家康に変わると、今度は本願寺内部で主導権争いが燻り始めた。それを敏感に察知した家康は、巨大勢力として警戒していた本願寺を分断するには、勿怪の幸いとばかりに、本願寺十一世顕如の長男教如へ烏丸七条の地を与えて分派した。西本願寺顕如の三男准如が継ぎ、その後、徳川時代は東西本願寺は両立する。だが、明治以後今日まで、東本願寺の内部は分裂を繰り返してきた。昭和のいわゆるお東騒動以来、大谷派は京都の東本願寺と、東京の東本願寺、どちらも本山と云い、大谷派本流を譲らない。今もって、和解には至っていないのである。自らも真宗門徒の作家である五木寛之さんは、真宗浄土教の中でも鬼っ子のような存在だと言われたが、鬼っ子の魂は今も継承されているようだ。

今年、東本願寺で働く人のサービス残業のことが問題となった。西本願寺や他の真宗諸派に比べて騒動が尽きないが、人々の信仰が薄れる事はない。意外に東本願寺こそが、二十一世紀の現代日本を、もっとも鏡の如く映し出しているのではないか。世の人々に仏教とは、信仰とは、生きるとは、そして往生とは何ぞやという事を親鸞に代わって体現しているのではないか。であれば、実にわかりやすい。私はこの夏から、歎異抄を愛読し始めた。歎異抄は、親鸞の弟子唯円が著した、浄土真宗ではもっとも身近で有名な著作だが、親鸞自身の著作ではないことから、賛否は昔から分かれる。でも私自身は、歎異抄を繰り返し読んでみて、そこに親鸞のまことの声を確かに聴いた気がする。浄土真宗の祖は親鸞だが、本人は露ほども分宗分派などは考えていなかったし、そんなことはどうでも良いことだと、誰よりも思っていたに違いない。何よりも争い事は好まなかった。私はあえてこれを「親鸞聖人の本願」と呼びたい。ならば、我ら衆生は安心して良い。諍い揉めているのは、いつの世もどの組織でも上層部だけで、名も無き庶民たちには、迷い相違なく親鸞の本願は伝播されている。私の実家の菩提寺浄土真宗で、本山はお東さんではなくお西さんである。私の通った幼稚園は、菩提寺の附属幼稚園で、朝な夕なに御念仏の日々を過ごした。これが私の仏教とのファーストコンタクトであり、今日まで仏教に関心を抱くきっかけとなっている。私自身、熱心に浄土真宗に帰依はしていないし、むしろ信仰心は希薄だと思う。しかし信仰に東も西も無く、諸派も他宗派も関係ないことだけは、いつどの寺に行っても失わない唯一の信心である。東本願寺でもそれは変わらない。