弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 青蓮院門跡

名刹数多の京都東山。そこに在る寺々は季節ごとにその表情を変えるから、何度歩いても飽くことはない。古都が醸成した高貴なる威厳を湛えながらも、楚々とした情趣の寺が多い。その趣きは東山の懐に抱かれ育まれた。東山の寺は京都にしか現出しないだろう。ゆえに古今人々を惹きつけるのだ。 知恩院の巨大な山門を仰ぎつつ北へ歩くと、程なく青蓮院である。門前は立派な石垣と美しい白壁に覆われてい、まるで城塞の様。知恩院と同じく衛は堅固である。知恩院とは地続きであるが、入山せねば中を伺うことは出来ない。表の厳しさに比して、山内は密やかな門跡寺院らしい佇まいで、境内全体に秘めたる御簾の中といった雰囲気が漂う。この雰囲気はかつて粟田御所と呼ばれた頃から、あまり変わってはいないはずで、一朝一夕で成るものではない。

初めて青蓮院を訪ねたのは、数年前の秋の夜間拝観であった。平成の京都では春や秋に寺社の境内でライトアップが盛んである。特に紅葉の秋、東山では東福寺清水寺高台寺知恩院永観堂などが挙ってライトアップを催し、今や秋の京都観光の目玉になった。青蓮院はライトアップの先駆けで、昨年秋で通算四十五回開催しているが、その趣向は一風変わっている。よその寺院は紅葉を中心にライトアップし、暖色系の灯りで堂塔伽藍を照らしたり、プロジェクションマッピングを駆使して華やかに演出して度肝を抜いてくれる。一方青蓮院のライトアップは、LEDの柔らかい小さなブルーライトを庭じゅう無数に配し、蛍の様に明滅する仕掛けである。そして一本だけ、青いサーチライトが天高く伸びている。青を基調としているのも珍しいが、本尊を守護する青不動や、寺名から連想してこういう趣向なのであろう。夜の帳が下りると、青蓮院の境内は紺碧海になる。堂宇は夜舟か浮御堂に見えてくる。仄かな明かりはまことに静かで、よそのライトアップとはまったく一線を画している。ライトアップには賛否あるだろうが、私は現代人が寺社へ参詣する理由のひとつとして悪いとは思わない。寺社の懐も潤い、寺社が存続するには手段を選ぶことも必要であろう。その手段がどういうやり方であるかは、寺社が決めることであり、守りに入るか、攻めに出るかも寺社の自己責任である。私たちがそれをどう受け止めて、賛否するかもまた自由である。少なくとも今現在、寺社のこうした試みについて私自身は賛成である。実はライトアップよりも、普段はなかなか観ることの出来ない夜の寺を訪れる機会に恵まれることが、何よりも嬉しい。初めて青蓮院を訪ねたあの夜があまりに幻想的で、それで満足し、その後しばらく遠ざかったが、いっぺん日中の青蓮院も観たいと思ってはいた。昨年秋、将軍塚青龍殿へ参詣する折、まずは青蓮院を再訪することにした。

 京都にはいくつかの門跡寺院がある。中で天台宗の京都三門跡が、三千院妙法院、そして青蓮院である。周知のとおり門跡寺院は、かつて皇室や摂関家の子弟が門主を務めていた寺である。伝教大師最澄は、比叡山にいくつかの僧坊を営んだが、その一つの東塔南谷にあった青蓮坊が青蓮院の起源と云う。「青蓮」とは仏の目の美しさの形容である。最澄から円仁、安恵、相応と延暦寺の法灯を継いだ者が青蓮坊を伝承した。第十二代行玄の時、鳥羽院の帰依を受けて、十三歳の第七皇子が行玄の弟子になる。皇子は得度し覚快法親王となられた。以来、皇室と縁が出来た。鳥羽院の寵妃美福門院が殿舎を寄進し、青蓮院と名を改めて門跡寺院となったのである。一世門主が行玄、二世が覚快法親王、以後明治になるまで門主は皇族か五摂家、一時期の室町将軍家の子弟に限られ、とても格式の高い寺であった。余談だが室町六代将軍足利義教は、元は天台座主たる義円で、四代義持の四人の弟の一人である。義持の死後、息子の五代義量はすでに亡く、六代将軍の座は義持四人の弟がくじ引きで決めた。当たりを引いたのが義円で、還俗して義宣と名を改め(後に義教に改名)六代将軍となった。話を戻すが、行玄が洛中から参拝容易なこの地に青蓮院を降ろし、青蓮院は粟田御所とも別称された。山上の青蓮坊は山上御本坊と呼ばれ、室町時代までは門主が叡山に登った折の住坊とされた。東山は昔からの景勝地で、平安貴族が競って住んだと云うから、この場所の誘致は比較的容易ではなかったかと思う。青蓮院の北東には、貞観十八年(876)創建の粟田神社が鎮座する。粟田口は京の七口のひとつで、粟田神社は古くから旅立ちの守護神として崇敬されているが、寺がここへ降りてからは、青蓮院すなわち粟田御所の鬼門封じも兼ねたのではあるまいか。先日、粟田神社へ参詣したが、高台にあってまことに気持ちのよい場所であった。眼下には岡崎の町並みが広がり、その向こうには黒谷や吉田山がこちらをわずかに見下ろし、さらに仰げば比叡山。青蓮院との位置関係からもあながち間違いではない気がする。

青蓮院の本尊は熾盛光如来曼荼羅である。熾盛光如来(じしょうこうにょらい)は大日如来仏頂尊で、仏の智恵と光を発するほとけさま。熾盛光如来を本尊として祀る寺は珍しく、私は青蓮院以外には知らない。台蜜では熾盛光大法なる修法があり、嘉祥三年(850)に慈覚大師によって鎮護国家を目的に始められた。熾盛光大法は天台宗にとって最も重要な修法のひとつとされる。その熾盛光如来を守護するのが、不動明王である。青不動が青蓮院の本尊と思われがちで、私もここへ来るまではそう思っていた。熾盛光如来は小高いところ慎ましく建つ本堂に祀られている。以前は国宝青不動の複製が本尊と背中合わせで祀られていた。今、国宝の青不動は将軍塚青龍殿へ安置され、この本堂に祀られていた複製も、青龍殿の御前立となっている。青不動はこの本堂の背後のずっと高みから熾盛光如来と洛中を守護している。青蓮院の青不動は、高野山の赤不動、三井寺の黄不動と併せて日本三大不動画とされる。青蓮院をイメージするとき、まず思い浮かぶのはやっぱり青不動である。密教不動明王は青、黄、赤、白、黒の五色で表されるが、中で青不動はその中心に在って、大日如来の化身ともされ最上位と云う。青蓮院の青不動は藤原中期に描かれた仏画で、不動明王の象徴たる火焔渦巻く中、右手に三鈷剣を持ち、左手には羂策をさげ、岩坐に座し憤怒の形相で見下ろしている。脇待として右に矜伽羅童子、左に制叱加童子を従えている。番茶色の背景、火焔と両脇待が変化のある朱色で良い差し色となり、それにゆえに不動明王の鮮やかな青がまことに映えるのだ。すべてが絶妙な配色。そもそもは不動明王を礼拝する仏画であり、その荘厳さはまったく信仰の対象となったに違いないが、美術品として見ても傑作だと思う。青不動は仏画の枠を超越した美しさで、見る者を物凄い迫力で圧倒するのだ。

青蓮院の門前には二本の巨大な楠木が、あたかも寺を守護する仁王のように大体躯で枝を広げている。山門に入ってすぐに堂宇は見えず、右手の坂を登ってゆくと、宸殿の大玄関に達する。山門の左手奥には植髪堂が建っていて、ここには親鸞聖人の剃髪が祀られている。青蓮院は天台宗門跡寺院だが、浄土真宗の祖親鸞を奉じるのは、親鸞がこの地で得度したからであろう。東山には法然親鸞の足跡が多い。元は叡山で修行した彼らが、叡山では己が仏道を探せないでいて、悶々としていた。彼らが山を下りてまず活動を始めたのが東山であった。ずっと後に蓮如もここで得度したから真宗とは殊の外深い縁がある。親鸞は下級貴族の日野氏に生まれ、九歳で叡山へ登った。叡山での師が当時青蓮院の門主であった慈円である。ここで注目すべきはやはり慈円のことであろう。慈円は「玉葉」を著した関白九条兼実の弟で、幼いときに青蓮院に入寺し、仁安二年(1167)天台座主明雲について受戒した。そして叡山の道の真ん中を歩いてゆく。青蓮院を託されたため吉水僧正とも呼ばれた。慈円摂関家から絶大な庇護を受けて、四度も天台座主になり、青蓮院も隆盛してゆく。青蓮院が以後も門跡寺院としての格式を保ち続けてゆく由縁をつくったのが、他ならぬ慈円なのであった。慈円は、史論書「愚管抄」を著し、歌人としても「拾玉集」をまとめている。教養と詩歌に長けた、当代随一の知の巨人であった。天台座主として叡山、僧兵を率いているにも関わらず、奢り高ぶることはなく、法然親鸞が叡山を下りて、己が仏道に進んでもそれを庇護している。このあたりが摂家出身者の面目躍如で、極端に事を荒立てるのを好まなかった性格と思われる。慈円は吉水にあった青蓮院の一坊を法然に与えた。それが後に知恩院に発展し今や京都屈指の大伽藍になった。また大谷には親鸞の祖廟があるが、ここが本願寺の起こりともされている。江戸期までの本願寺門主は、青蓮院で得度しなければならず、一時本願寺が、門跡とか脇門跡と呼ばれたのも、青蓮院が深く関わっていたからなのである。だが、時代を経ての趨勢は不思議なもので、今や青蓮院は知恩院や東西本願寺に、伽藍も信徒数も遠く及ばない。寧ろそこに慈円の魂が生きている気がする。自分の出自をひけらかさず、天台座主としても力を誇示することをしなかった慈円は、真に己が仏道を知り、極め尽くした人ではなかったか。今の慎ましい青蓮院がそれを語っている。例の門前の二本の大楠と境内に他三本ある大楠は親鸞のお手植えと云われる。寺を守る仁王像のようであると書いたが、思えば太くどっしりとした量感は、雅やかな青蓮院には似つかわしくない。が、そこには親鸞の想念が今も活き活きと宿ってい、格式高い青蓮院と我ら衆生との番いになっている気がした。その想念は慈円法然に対しても向けられたものであったかもしれない。此の地が親鸞が得度した場所なればなおのこと、私にはそう思われてならない。

秋の朝の青蓮院は静かであった。紅葉は始まっていたが、ピークには少し早かったこともあるだろう。夜のライトアップには多くの人々がやってくるが、清々しい朝は人もまばらで、青蓮院を味わうには最高であった。龍心池を中心とした回遊式庭園は、大きくはないが、程よい規模で、はらはらと舞い散るもみじ葉を眺めながらの散策には絶好。堂宇は明治中期の再建でも、さすがに百年以上経過して、今やしっとりとした風情で収まっている。中心伽藍の宸殿は入母屋造りで瓦屋根のせいか、御所の紫宸殿と比して少し重々しい感じはあるが、前庭にはきちんと左近の桜と右近の橘が植わってい、この演出のみによって平安王朝を彷彿とさせる趣きがある。庭園の奥には好文亭と云う茶室があるが、後桜町天皇も使われた創建時の好文亭は、平成五年(1993)新左翼中核派により放火され焼失してしまう。いわゆる京都寺社等同時放火事件である。この時京都の門跡寺院がゲリラの標的とされた。しかし二年後の平成七年(1995)に好文亭は再建されている。この日ちょうど好文亭では釜が懸かり、青蓮会の茶会が開かれていた。着物姿で入山してくる人々は、名うての茶人や京都人と推察した。ここでの月釜は青蓮会と云い、表千家裏千家、方円流、宗偏流、宝山流が輪番で懸けているとか。流派を超えて茶の湯を守り立てているのは、茶の湯を嗜む者としてはありがたい。青蓮院に限らず、日本各地の寺や神社は茶の湯と深い関わりを今日でも絶やすことなく、寧ろ積極的に茶室を開放したり、茶会の座を提供してくれている。茶道界でも献茶式を行い、寺社との縁を大切にしている。この先、寺社と茶の湯はますます強固に結びついていくだろう。双方の発展と守護にはこれほど都合のよいつながりはないと思う。それにしても青蓮院はまことに雅かな佇まいである。往時の堂宇は度重なる火災で悉く焼けてしまい、今あるのは明治期に再建された建築ばかりだが、かつて粟田御所と呼ばれた頃の色香を少しも失ってはいない。寧ろ今からがなお、門跡寺院として格式が放つ真の意味と美を、輝かせる時ではないかと思う。余談だが、私はこの寺の青蓮香という香を愛用している。松栄堂さんが作っている青蓮香は、気高く優しい香。この香を焚くと私はいつのまにか眠ってしまう。秋の柔らかい木漏れ日の中の青蓮院散策は良かったが、この日私は夜になって再び青蓮院へやってきた。どうしてもまた夜の青蓮院を見たかったのである。そこは数年前と同じ趣向で美しい青い海があった。やはり初めの印象が強いせいかもしれないが、私は夜の青蓮院が好きだと思った。

青蓮院の裏手の山上には将軍塚がある。ここは青蓮院の飛び地で、標高二百メートルあまりの高さにあり、青龍殿という御堂が建っている。先に述べたとおり、ここに国宝の青不動と、複製の御前立が安置されている。青龍殿には清水の舞台の四倍も以上ある大舞台が設けられていて、この大舞台や将軍塚の展望台から洛中を見渡せば、東山でもっとも良い眺めであると聞いていたので、ぜひ登ってみたいと思っていた。将軍塚は京都きってのパワースポットとして有名で、桓武天皇和気清麻呂を伴い、ここで平安遷都を決めたと云う。平安京の守護として将軍の甲冑を着せた像を埋めた場所と云われるが、実際は人柱も立てたやもしれない。源平盛衰記太平記には、「世に異変あるときはこの塚が鳴動する」と記されている。東郷平八郎もここを訪れた。兵を率いる将軍として、何かを得たかったのだろうか。青龍殿は平成二十六年(2015)に、青蓮院の堂宇として落慶した。この建築もとは大正天皇の即位を記念して、北野天満宮前に建てられた大日本武徳会京都支部武徳殿と云う武道場であった。戦後、京都府に移管し平安道場と呼ばれ、柔道や剣道の道場として一般開放されたが、老朽化で解体が決定したところ、青蓮院が引き取り、修復して将軍塚に移築した。美しく蘇生した青龍殿は、武人にも崇拝されてきた不動明王を祀る御堂としてまことに相応しいと思う。

果たして青龍殿の大舞台からの眺めは素晴らしかった。晩秋の碧空はどこまでも高くて、北東には比叡山、北西には愛宕山が京の町を見護る様に睥睨している。左大文字などの五山も、鞍馬や貴船の山々も、御所も、鴨川も、京都タワーもよく見える。まるで箱庭を眺めるようで、京都を自らの手中に収めた感じがする。こうして見ると京都盆地は広くて狭い。この場所はまさに洛中の東の中心にあり、四神相応の青龍の地に建っている。凄い場所に私は立っているのだと痛感した。あんな爽快なところはない。東京での仕事、人間関係、日々の暮らし、思う通りに進まぬ夢、そんな憂さも、ここに来て、この景色を眺めたらいっぺんに晴れた。そう、この澄み渡る空の如く。全く青蓮院という寺は青色一色である。青不動、青蓮院と云う寺名、青のライトアップ、青龍殿と青い空。青色の極みだ。あわよくば、青い鳥が飛んで来ないかと思ったが、そう都合よくはいかなかった。