弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

初釜を終えて

先日、社中の平成三十年初釜が終わった。社中にお世話になり一年半、私自身初めての大寄せ茶会に寄せていただいた。私は朝ぼらけから必死で羽織袴を着て、戦へ赴 く様に武者震いして出かけた。私の先生は、今や弟子の総数は不明というが、この日の初釜には四十名ほどが参加し、参加者の家族や友人も客として集ったため、新年を寿ぐに相応しい賑やかな茶会となった。昨年末から何遍も稽古をしてきた七事式の花月も、己が点前も何とかこなしてホッとした。殊に自分の点前が、あれだけの人前で、稽古の時以上に上手く出来たことは、無上の喜びであった。然し乍ら、点前を上手く仕様というのは正解であって、誤解であるのだ。茶の湯は自分の茶を客が心から美味しいと思ってもらえることに、最も気を配らねばならない。茶の湯の真髄はこれ一点である。その一点に到達するために稽古をする。稽古をして基本の所作、型を己が肉体にしっかりと植え付けて、花を咲かせるために己を育くむ。それが茶道の稽古である。稽古を重ねれば、点前も自然に上手くなるもので、所作も美しく見える。全く未熟であるが、これまで一年半の一区切りとして、とても大きな自信となった。これからさらに稽古に稽古を重ねて、いつの日か私の茶の湯が見つかれば、これに優るモノなどあるまい。

四十年生きてきて、あらゆる迷いがあった。迷いや悩みは尽きぬもので、年相応の迷走は続いている。それは誰しも同じであろう。当てもなく彷徨うことが、生きてゆくことなのだ。その中で、一つでも光を見出だして、その光の方へ歩いてゆきたい。これが人間の欲望である。私は私のお茶を見つけることで、私という人間が見つかるかもしれないと思っている。 茶道は一にも二にもひたすら稽古である。家元も、家元教授も、我が師も異口同音で言われる。茶道に限らず諸芸、スポーツ、芸術も同様である。どの世界にも天才がいて、天才がいるからこそ、その道が脚光を浴びて興隆してゆくのだと思う。私のような愚物には天才の境地など計り知れないが、天才はまた努力を惜しまないため、凡才はいつまでもどこまでも、天才の背中を追い続ける。だが、茶道においては、ひょっとすると凡才が天才に追いつける日があるかも知れないと思わす瞬間がある。言葉を換えれば、稽古精進していれば、誰しもがふとこれまで掴めなかった茶の湯を掴める時がやってくるのではないか。己の求める茶の湯である。それは稽古を怠ればやってこない。此度の初釜で痛感したことだ。その先にはさらなる高みがあって、そこへ向けてまた稽古、稽古、稽古である。これは私の錯覚かも知れない。たかだか一年半の茶道で、大言壮語も甚だしき限りだが、一度の経験とは千を語るに及ばずであることも、この妙な自信に繋がっていると思う。私が初めて得た自信を大切にして生きてゆきたい。