弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 建仁寺

京都祇園。日本一の花街は、今や世界中にその名を知られている。京都を見たくば祇園へ行けとでも言わんばかりに、いつでもこの町には人が溢れている。祇園で働く人々は、この町を祇園町と呼ぶ。昔から京都には多くの花街が存在してきたが、今は五大花街といって祇園町、宮川町、先斗町上七軒、島原が往時の面影を残しているが、中で祇園町は最大最盛を誇る。かつては西の島原と東の祇園町で競い合ったという。しかし島原は幕末の大火で徐々に廃れてしまった。今では新撰組長州藩士の出入りした角屋などの茶屋が観光名所にはなっているが、花街としての存在感は祇園町には遠く及ばない。歴史は祇園町よりも島原の方がはるかに古いが、明治維新天皇が東京へ行幸され、連れて都人たちも東下すると、閑散とした京都は花街の灯も消えてしまった。だが、タダで転んでしまう京都人ではない。あの手この手を尽くし、明治も情勢が落ち着いてきた頃には、祇園町にはかつての活気が戻ってきた。その後は日本一の花街へと発展してゆくのである。祇園町はかつて、ほとんどが建仁寺や八坂神社の境内であった。時の政権や、政治情勢、宗教統制により寺社域は縮小されて、祇園町は拡大していった。

日本には延暦寺仁和寺建長寺寛永寺など時の元号を寺名とした寺がいくつかある。建仁寺建仁二年(1202)の創建。建仁はわずか三年しかない。その間に鎌倉幕府の取り巻きは目紛しい展開を見せる。源頼朝の急死で、鎌倉幕府は二代目の頼家が僅か十八歳で後を継いでいたが、母である尼将軍政子の傀儡であって、頼家には実権などなかった。もっとも始めのうちは頼家もはりきっていた。頼朝を凌ぐ独裁将軍を目指した頼家は、自分の信頼する家来以外目通りを許さず、御家人から反発を買ってしまう。事態を重く見た母政子は、北条氏以下の御家人を動かし、頼朝時代から続く重臣による合議制を復活させ、頼家の思う通りにはさせなかった。こうして執権北条氏が出来上がり、鎌倉幕府の体制は皮肉にも棟梁たる源家を差し置いて整備されていったのである。後に室町幕府八代の足利義政も東山に隠棲し銀閣を建立したように、頼家も忸怩たる思いをひた隠しにして、建仁寺を建立することにしたのではないか。六波羅探題の北にあるこの辺りの土地を寄進して、ちょうど南宋から臨済禅を修得し帰朝した栄西禅師に建仁寺を開かせている。或いは頼家は、世を疎い臨済禅に帰依し、自らも出家を望んだのかもしれないが、北条幕府はそれを許さなかった。失意の頼家は、比企能員の変によりわずか一年で将軍職を追われた。建仁寺をはじめ寺社寄進に心を傾けたが、建仁寺の完成を見ずに、元久元年(1204)、伊豆修善寺で死んだ。二十一歳であった。病死とも、毒殺とも、暗殺とも云われている。これがまた後にまで尾を引いてゆき、弟の三代実朝の死にもつながってゆく。

臨済宗建仁寺派大本山建仁寺は、京都で一番古い禅寺だと云う。境内に一歩足を踏み入れると、私が訪れた蒸せ返るような真夏の日とて、禅寺らしいピリッとした空気が漂っている。勅使門から池を越えて三門、本堂にあたる法堂、その奥に方丈。一直線に配された伽藍は、臨済宗の大寺院では馴染みの光景だが、いつ見ても洗心清浄の気分を呼び起こす。その原型がここ建仁寺にある。勅使門は平重盛か敦盛の六波羅邸の門を移築したものとかで、だとすれば平安末の遺構か。建仁寺の辺りを小松町というが、重盛は小松殿とも呼ばれていたから、平家滅亡後に六波羅を接収した鎌倉幕府によって、平家の供養も兼ねて建仁寺へ寄進したのかもしれない。左右対称の美しい三門は、静岡の安寧寺から移築されたもので、「望闕楼(ぼうけつろう)」という扁額が掲げられている。望闕とは御所を望むと云う意味だとか。裳階の付いた端正な法堂は、江戸中期の明和二年(1765)の再建。本尊は釈迦如来座像、迦葉尊者と阿難尊者が脇侍である。法堂内部に入ってまず目を惹くのは、天井の巨大な双龍であろう。建仁寺創建八百年を記念して、小泉淳作氏によって描かれた。一般に禅寺の法堂には龍が描かれていることが多いが、古色蒼然と歳を重ねた龍たちには、確かに禅堂の厳粛さを感じるが、建仁寺の双龍からは色彩の鮮やかなところからも、活力漲る若い龍が、あたかも競い合うように昇天してゆく様にただ圧倒されるばかりではなく、見る者を強い磁力で共に引き上げてくれそうな気配がある。動静を掴みづらい現代人は、ここでいったん始点に戻されるであろう。

建仁寺の伽藍は、京都一古い禅寺としての威厳を見せながらも、祇園町と宮川町という花街に寄り添うようにある姿に、一種独特の閑雅さを纏っている。それがもっともよく表されているのが、方丈であろう。方丈とは禅寺の住持の住まいのことだが、ゆえにどこの禅寺も個性溢れる空間となっている。建仁寺の方丈は、元は広島の安国寺にあったものを、慶長四年(1599)に安国寺恵瓊が移築したもので、室町時代の面影を存分に感じさせる。低く伸びやかな屋根は白鳥が翼を広げたような秀麗さ。方丈前の大雄苑と呼ばれる枯山水の白砂利が、さらにその白さを照り映えさせている。方丈の縁に腰を下ろしてみると、枯山水はあたかも本当の湖のようで、清冽な水音が聴こえてきそうである。方丈は五年ほど前に改修されて、屋根も創建当初の杮葺になったことで、いっそう優美な趣きとなった。昭和九年(1934)の室戸台風で方丈は倒壊し、安国寺恵瓊が海北友松に依頼した五十面の襖絵は、残念ながら掛け軸になってしまったが、雲龍図や竹林七賢図などは複写されている。複写とはいえその迫力には息を飲んだ。室戸台風の後、橋本関雪によって海北友松にも負けない圧巻の襖絵が描かれている。方丈奥の小書院には平成二十六年(2014)に、染色画家の鳥羽美花さんによって描かれた襖絵があり、これは必見である。淡い群青が少し入っているように見える「凪」、その反対側は一転して鮮やかな濃淡のコバルトブルーで描かれた「舟出」。水墨画の新境地を間近に触れた思いがして、絵心なき私でも感動した。ここにも動と静がある。

建仁寺には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」もある。風神雷神図は、元々は建仁寺末寺で右京区宇多野にある妙光寺に蔵されていたもので、京都の豪商で歌人でもあった打它公軌(うだきんのり)が、妙光寺を再興し、記念に親交のあった宗達に依頼したものである。今では本山の建仁寺が所蔵し、世界中に知られている。この有名な屏風について私が語ることは何もない。尾形光琳をはじめ多くの絵師が、風神雷神図を模写しているが、やっぱり私は宗達風神雷神図が一番だという思いでいる。まことに建仁寺日本画の一大美術館であり、中世から現代までの絵師たちの競演を楽しむだけでも、来て良かったと思うであろう。

禅はインドから宋に伝わり、宋によって教義が深められた。寧ろ日本に伝わる禅とは中国で生まれて、日本で育まれたと思う。やがて宋では臨済、曹洞、法眼、潙仰、雲門の禅宗五家にわかれ、独自の禅の世界を展開してゆく。中国禅の祖は達磨大師とされるが、その達磨の禅の継承者の一人が、達磨から三百年ほど後の臨済義玄である。臨済宗臨済とはこの坊さんの名である。江戸時代に白隠の法嗣の一人である東嶺円慈の著した「五家参詳要路門」には、「臨済宗は機鋒を戦わして親疎を論ずるを旨と為す」とある。機鋒とは切っ先のことで、親疎すなわち誰とでも機鋒を戦わすという、好戦的な禅であるが、無論本当に切っ先を交えるわけではなく、禅問答による交戦である。が、これが武家に好まれたことは納得である。禅は悟りを開くことを主眼とするが、禅語録を題として師から弟子へ、弟子から師へ問答を行う。これを公案と呼び、宋代に公案体系なるものがまとめられ、微妙に変化しながら継承されている。それはあくまで悟りであって、知識や論理ではない。日本の二大禅宗臨済と曹洞の大きな違いはこの部分であろう。曹洞は坐禅をしても何も考えない。只管打坐し、無碍の境地を目指す。臨済公案を考えて坐禅する。しかし、目指すところはどちらも同じで、悟りなのである。事実道元も、若い頃には建仁寺で修行していた。

日本の二大禅宗は、臨済宗武家が天下を掌握する鎌倉幕府以来代々の天下人の帰依を受けたせいか、敷居が高くて、ましてや五山制度ができると、なおさら高尚な色合いが強く出ていた。一方の曹洞宗武家から庶民にまで末広がり、臨済宗に比べると簡素で入りやすい印象がある。建仁寺京都五山の第三位とされる。改めて述べることもないが、五山とは寺格のことで、もともとは中国で五山制度ができ、日本では鎌倉時代北条貞時がそれに倣い臨済宗の五山制度をつくった。だがこの頃や南北朝時代までは、大徳寺臨川寺が入ったり出たりと曖昧であったが、足利時代になり、尊氏が建立した天龍寺と、義満が建立した相国寺が加えられ、というよりも尊氏や義満が権力にモノを言わせて推し進めたことで、現在の臨済宗五山が確立し、南禅寺を別格として、以後は不動となった。

五山の上 南禅寺

京都五山     

第一位 天龍寺 第二位 相国寺 第三位 建仁寺 第四位 東福寺 第五位 万寿寺

鎌倉五山

第一位 建長寺 第二位 円覚寺 第三位 寿福寺 第四位 浄智寺 第五位 浄妙寺

五山制度は確かに権門と癒着して寺格を保ち、勢力を広げたが、一方で五山文学など禅林文化、文芸の発展、また漢文学の研鑽や外交文書の起草などにも大きく貢献したことも事実である。 建仁寺もそうした大学や研究機関としての役割を担っていた。それは栄西が開山した当初からで、天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。が、これは多分に当時の日本仏教界の勢力図が現れていたからであろう。創建から五十年ほどして蘭渓道隆建仁寺に入ると、鎌倉幕府の後ろ楯もあり、兼学ではなく純粋な禅堂となる。

さて栄西について触れねばなるまい。明菴栄西は永治元年(1141)、備中国吉備津神社権禰宜の子として生まれた。神官にはならず、八歳で父の薦めで倶舎論を読み、十一歳で吉備の安養寺に入り、十四歳で出家し比叡山へ登る。叡山では天台教学を学び、さらには伯耆大山寺へ登り密法を修養した。以後は叡山と吉備を往来しながら、博多へも赴き商人李徳昭から宋国の禅宗について聞いた栄西は入宋を志して、あらゆる伝手を頼りながら、仁安三年(1168)ついには平家の庇護のもと入宋を果たした。彼の地では後に東大寺再興に尽力する重源と出会い親交を深めた。ともに天台山へ登り、多くの天台教学を学び、重源と同航して帰国した。叡山で栄西を見込み育てた天台座主明雲は、平家と癒着し、平家滅亡後は不慮の死を遂げる。栄西は最大の理解者と庇護者をいっぺんに失うも、ここからが彼のしたたかなところで、治天の君たる後鳥羽院に巧みに取り入り、神泉苑での雨乞い祈祷を成功させ信頼を得、紫衣まで賜った。前回の入宋では天台教学を学ぶも、半年間と短期滞在であり、そもそも禅宗に心惹かれていた栄西は、どうしても再度入宋したかった。そしてこの機を逃すまいと、文治三年(1187)、四十七歳で再び入宋する。今度こそ禅を学び、臨済禅に辿りつくのである。インドにも行こうとしたらしいが、さすがに叶わず、結果宋国に五年間滞在し帰国。帰りの船中での栄西を想像するに、禅宗の本場宋国で過ごし修養した己に対して、並々ならぬ自信を携えて、意気揚々とした気分であったに違いない。風と波しぶきを蹴る船の舳先で腕組みをし、帰国したらどう臨済禅を広めようかと考え込む栄西の姿が目に浮かぶようである。こんなに行動力があり、実行に移すのはこの時代は僧侶くらいのもので、重源とて似た様なものだ。成功した僧侶は、皆、絶大なるスポンサーを得ている。空海の時代からそうであった。スポンサーもまた彼らには投資しても余りある価値を感じていたのであろう。

帰国した栄西は、空海がそうしたように九州に滞在するが、やがて上洛して「興禅護国論」を著して、後鳥羽院に奏上する。「興禅護国論」には、これまで天台や真言等の修行のひとつと考えられてきた禅を、新しい仏教宗派であると主張するもので、禅宗の独立宣言とも云われる。禅は釈迦の時代からの中心教義であり、インドや宋国で盛んである禅を、日本にも広めて、国家安泰にせねばならないと力説する。禅宗はすべての仏道に通じ、禅を日本の国教とするべきだとまで言った。栄西は、日蓮と同じ様な強硬な姿勢で権門に切り込んでゆく。しかし後鳥羽院の反応はあまり良くなかった。そうと知るや、栄西はすぐに鎌倉へ赴き、直に頼家や、北条政子への取り入りに成功する。鎌倉幕府からの帰依をうけて、幕府や東国の御家人武士のための新しい仏教として、日本の臨済宗は開かれていった。その最初の拠点が鎌倉の寿福寺であり、京都の建仁寺である。栄西は他の宗派の開祖と違い、あまり尊崇されていない印象があるが、それは後に臨済宗が今に連なる多数派に分かれていったことが起因しているのかもしれない。また、空海ほどのカリスマ性はなく、あくまで臨済禅の伝道者であり、栄西自身もそのように生きたからであろう。しかし、日本臨済宗の祖であることは事実である。建保三年(1215)七十五歳で入滅。日本各地を行脚し、二度の入宋、臨済禅の布教に努めた満ち足りた生涯であった。

栄西には臨済宗の確立の他に、もう一つ大きな仕事がある。それは茶の普及である。仏教伝来の頃から我が国でも茶は飲まれてきたが、それは団茶などの発酵茶であって、現在私たちが飲む茶とは色、香り、味わいが異なるものであった。しかし、あまり日本人好みではなかったようで普及はしなかった。緑茶は中国でも飲まれていたが、日本人が緑茶を愛飲するようになるのは、栄西が広めてからである。緑茶はまったく日本の風土、気候、水に適し、日本人の風習、味覚、嗅覚にピタリと合った。緑茶といって現代の我々が想像するのは煎茶であろうが、この頃は碾茶であった。碾茶をひいたら抹茶になる。栄西は宋の禅堂で茶が眠気覚ましとして飲用されていることに感心し、栽培法を学び、帰国時に苗を持ち帰った。そして建仁寺で飲用を始め、広めていった。親しく付き合った栂尾高山寺の明恵にも茶を薦め、明恵もすっかり茶の魅力に惹かれて、高山寺で栽培するようになる。そこから、宇治へと栽培地が広がり、京都は茶の一大生産地となるのである。

栄西は「喫茶養生記」を著して、茶には覚醒作用のみならず、様々な薬効があることを懇切丁寧に解説している。栄西は鎌倉三代将軍実朝に喫茶養生記を献上。鎌倉でも喫茶の習慣は広がり、茶は禅宗と権門との絆となって、やがて室町時代から安土桃山時代にかけて茶の湯文化が大成されてゆく。方丈の裏手には、秀吉の北野大茶湯ゆかりの茶席「東陽坊」が移築され、静謐な佇まいで建っている。建仁寺では栄西の誕生日である毎年四月二十日に四頭茶会が開かれる。これは古式に則った禅宗の茶会で、四人の正客が各八人の相伴客を連れて席入りする。まず、栄西禅師へ焼香と献茶が行われ、抹茶の入った天目茶碗が客に配られる。供給僧(くきょうそう)と呼ばれる雲水たちが、浄瓶(じんびん)というティーポットのような口の細長い金属製の瓶を持ち、注ぎ口に茶筅を指して入ってくる。正客から順に湯をついで、立ったままで茶を点てるのである。私は映像でしか拝見していないが、茶の湯の原形ともいえるこの茶会にはとても関心がある。四頭茶会は建長寺円覚寺など他の禅寺でも時期や主旨を別にして開かれている。禅堂の茶に対する親しみと敬意が込められたこの密やかな茶会に、いつか参加させていただきものである。不束ながら私も週に一度は茶の湯の稽古に通っている。私にとって建仁寺茶の湯文化発祥の寺として極めて大切な場所。

栄西禅師曰く「茶也末代養生之仙薬、人倫延齢の妙術也」〜喫茶養生記冒頭より〜

この言葉に忝ない想いを致し、私はこれからも茶道に邁進したいと思う。