弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一承平・天慶の乱一

その場所に行きたくとも行けない場所がある。行こうと思えば今日にでも行けるのに、不思議と足が向かわない。縁遠い場所。東京大手町にある将門塚は、私にとってそんな場所である。自宅からも三十分もあれば行けるし、職場からは歩いても行けるのに、これまで一度もお参りしたことがない。私は勝手に「平将門は私が来ることを拒んでいる」と思い、いつかその機会が来るのではと待っているが、一生その機会は来ないのかも知れない。私にはこんな場所がいくつかあるのだが、将門塚はもっとも強く拒否されている。一方で、平将門を合祀する江戸総鎮守の神田明神には何度もお参りしているのだから、神格を得た将門様には許されているのか。だいぶ前のことだが、口中の病も治癒してもらった。平将門平安京では反乱を起こした謀反人だが、東国では自主独立の英雄なのである。

平将門は自らを「新皇」すなわち「新しい天皇」であると称し、都から隔絶された板東の地で、新たな国を造ろうとした。当初は天皇に反旗を翻すつもりはなく、あくまでも藤原忠平が率いる廟堂と国家の仕組みに対する意趣返しであり、平安朝廷に改革の意識を芽生えさせるきっかけを作りたかったのではなかったか。しかし朝廷はこれを謀反と捉えてた。朝敵として討伐せしめんとした。将門は桓武天皇の血を引くいわゆる桓武平氏である。祖父の高望王は上総の国司となり板東に住みついて、その息子達が勢力を拡大していった。父の平良持下総国を領し、武勇に優れ、鎮守府将軍に抜擢されていた。良持の兄弟は良兼が上総、国香が常陸、良文が武蔵をそれぞれ領した。将門は元服すると上洛し、摂関家の長忠平と主従関係を結ぶ。家人として仕え、忠平の推挙で滝口の武士となった。時は朱雀天皇の御代である。将門は都にて立身出世を目論んだ。朝廷で高みへ昇ってみたい。理想の国家造りか権力への憧れが東国の片田舎から罷り出てきた若武者には多分にあったのかも知れないが、東国の窮乏を何とかしたいとの青雲の志が、彼を駆り立てたに相違ない。平将門とはそんな人のような気がする。それには板東武士のボトムアップをせねばならぬ。その先頭に立ちたいと思った。将門は自らも桓武天皇の五世であったが、忠平が率いる藤原政権が揺るぎなきものと成っていたこの時、将門の身分では「滝口の武士」までが関の山であった。滝口の武士は滝口の武者とも云い、蔵人所に置かれた内裏の警護にあたる武士のことで、天皇の日常生活の場である清涼殿を警備した。清涼殿の東庭北東には、滝口と呼ばれる溝水の落ちるところがあり、その渡廊下を詰所としたことから、滝口の武士と呼ばれ、詰所は滝口の陣と呼ばれた。将門は人柄を忠平に認められていたものの官位は極めて低かった。上洛して十二年、将門は懸命に働き、何とか平安京で出世し、故郷へ錦を飾るつもりでいた。軍事警察を管掌する検非違使佐や検非違使尉を望んだが、忠勤も虚しく望みは叶わず。失意の将門は故郷へと帰った。そして板東にて水を得た魚の如く頭角をあらわしてゆくのである。将門が朝廷で立身出世できない事を恨んで謀反を起こしたとも云われるが、一方では謀反は「制度に対しての行動」であったととる説もある。これは今もって議論を二分している。

棟梁として板東の桓武平氏をまとめていた平良持が亡くなると、弟たちは鎮守府将軍として栄えた良持の所領、館、そして財を手にしようと暗躍した。後継の将門を見縊っていたのである。ことに上総の良兼が首謀して将門を滅ぼそうとしたが、武勇に優る将門は手始めに国香を殺害し、叔父達を返り討ちにして、逆に板東一円を自らの傘下に加えていった。天慶二年(939)、一族内の諍いを機に、将門は常陸国府とも対立し、これを陥落させると、近隣の国府も倒してしまう。そして、八幡神の神託を得たとして「新皇」と称し、板東を中心に独立国家の樹立を企てたのである。事実この頃の将門は関八州をほぼ味方にしていた。当代朱雀天皇は弱冠十七歳。将門は本気で新天皇になれると思った。京では将門が攻めてくると大混乱に陥った。天慶三年、朝廷は藤原忠文征東大将軍に任じて将門征伐軍を編成した。しかし忠文の到着前に下野国押領使藤原秀郷が、板東で将門と交戦していた甥の平貞盛藤原為憲と結託して連合軍を形成し、乱の鎮圧にあたった。

栃木県足利市の北の山麓鶏足寺と云う古刹がある。山門を潜ると長い杉木立の参道で、緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのもの。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建された。往時は板東における真言密教の大伽藍のひとつであったようだが、現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりで、ひっそりとしている。私が行ったのは三年前の秋のことで、境内には誰もいなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。閻魔堂の奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日が傾きかけた時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。北関東にはこんな寺がわりと残っている。将門の乱の折、住持は秀郷の勝利を祈願した。秀郷が下野の押領使であったことで、縁があったのであろう。密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷したが、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であると云う。

破竹の勢いで板東のヒーローになった将門は、怒涛の如く進軍した藤原秀郷軍の放った矢に眉間を貫かれ、敢えない最期を遂げた。あまり抵抗する間もなかったようで、官軍が意外にもあっさりと勝利したのも、板東方が所詮は烏合の衆であったことを語っている。かくして将門の乱はわずか二ヶ月で鎮圧された。武勲を立てた藤原秀郷はこのあと鎮守府将軍に昇進している。将門の夢は儚かった。摂関政治の礎が確固たるものとなりつつあったこの時、まだ脆弱な板東武士たちは朝敵になるのを恐れたのである。およそ二百五十年後、平清盛が政権を取るが、清盛率いる平家も、桓武平氏から板東平氏の流れを汲む伊勢平氏である。武士として初めてこの国の頂きに立ったのが平氏であると云うのも、何か因縁めいたものを感じる。清盛は少しは将門を意識したであろうし、自らが位人臣を極めることが、将門への供養とも心得ていたのかも知れない。板東武士たちも一瞬は将門の新たなる国に期待して乗っかったが、まだ武士の夜明けには早かった。彼らの子孫が華々しく活躍するのは、清盛亡き後、源頼朝が東国にて挙兵するのを待たねばならない。ずっと後の世のことだ。武士が天下を獲ることなど、将門の時代では果たせないとこしえの夢であった。

将門の乱と結びつく寺伝を持つ寺が坂東にはいくつかあるのだが、筆頭はやはり成田山であろう。朱雀天皇は、嵯峨広沢の遍照寺の寛朝に、真言密教護摩祈祷による乱の平定と、将門の調伏を命じた。余談だが、この寛朝という坊さんは、宇多天皇の孫にあたる。天皇家の後継者争いには無縁で、十一歳で仏門入り。仁和寺、東寺、西寺、東大寺別当を務め、高野山座主にまで上り詰めた。さらに、真言宗では初の大僧正の尊号を賜わっている。寛朝は、神護寺弘法大師が彫ったとされる霊験あらたかな不動明王を奉持して、下総へ下った。大坂から船で房総半島の尾垂ヶ浜に上陸。寛朝は、今の成田山から三キロほど離れた公津ヶ原という地に不動明王を奉安して、二十一日間護摩祈祷した。結果、乱は鎮圧され、将門は殺害された。寛朝が再び不動明王と共に京へ帰ろうとしたが、不動明王はその場を動こうとしない。そして不動明王は、寛朝にこの地にとどまると夢告したと云われる。これを聞いた朱雀天皇は、国司に命じて堂宇を建立し、不動明王を厚く祀った。新勝寺という寺号も、戦いに勝ったと云う意味で朱雀天皇命名された。その後永禄年間に当地へ遷座し、東国の権力者、徳川幕府、歴代の市川團十郎、そして多くの庶民の厚い信仰を受けている。

将門が東にて挙兵したのと時を同じく、西の海でもすすんで朝敵の狼煙を上げた者がいた。藤原純友である。藤原純友は大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方に赴任。当初は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあったが、帰任命令が下っても帰京せず伊予に土着した。承平六年(936)頃までには海賊の頭領に成り果て、伊予の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていった。純友の水軍は、九州中国地方及び海外と京都を結ぶ大動脈たる瀬戸内を縦横無尽に暴れ回り、一帯を恐怖に陥れた。将門と純友は互いに連絡を取り合い、東西から平安朝廷を挟み撃ちにしようとしていたとも云われる。真偽は定かではないのだが、一説によれば、二人が勝利した暁には、将門が新皇で、純友がその臣下の首座たる関白になる予定まで立てていたと云う。将門と純友は互いに呼応しながら、一度も会うことはなかったが、戦友としての特別な絆を感じていたのだろうか。

純友の余勢を駆って畿内にまで進出、天慶三年(940)二月には淡路の国府を、八月には讃岐の国府を、さらに十月には大宰府まで西下して襲撃している。しかし純友も敗れる時が来る。朝廷は純友追討のために小野好古を長官として追捕使軍を編成し兵を差し向けた。天慶四年(941)五月の博多湾の戦いで、純友軍は壊滅。純友は息子の重太丸と伊予へ逃れたが、六月には伊予の警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも云われる。また、それらは朝廷や国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて、南方の彼方へ消息を絶ったとも云う。この方が浪漫がある。藤原純友の乱平将門の乱を同時代の元号から承平天慶の乱と云う。将門の乱が二ヶ月で鎮圧されたのに対して、純友の乱は二年の長きに渡り繰り広げられたのも、純友が海を制していたからで、水軍の実力は官軍を凌駕し、自在巧みな操船技術で翻弄したからに違いない。この水軍の残党が、後に村上水軍となり、そこから派生したり引き継がれた熊野水軍毛利水軍、九鬼水軍となる。純友の乱は名だたる日本の水軍を生んだのである。そして為政者には制海権の重要性を認識させた。以降、藤原氏平氏、源氏、北条氏、足利氏、織田信長豊臣秀吉、そして徳川氏と天下人は皆、海を制することに注力した。四方の海に囲まれた日本を治めるために。

朱雀天皇は皇子に恵まれず、病弱でもあられた。御在位十六年のうち、承平・天慶の乱があり、藤原忠平が廟堂を掌握し、天皇が親政を望まれることもなかった。その心労はいかばりであったか。天慶九年(946)四月、二十四歳で三歳年少の同母弟成明親王に譲位された。成明親王村上天皇となられた。朱雀上皇は天暦六年(952)三月出家して仁和寺に入られ、同年八月三十歳崩御された。