弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜金管楽器私総覧〜

金管楽器は奏者の唇の震動により発音する管楽器を云う。真鍮で作られているものが多く、マウスピースを装着し吹奏する。余談だが木管楽器でもフルートやサックスは真鍮製やメッキ製だが、唇を震動させない奏法のため金管楽器ではなく木管楽器とされる。金管楽器でまず挙げたいのはトランペットだ。トランペットは金管楽器のみならず、吹奏楽管弦楽においての花形楽器である。まずあの勇壮かつ華やかな音色を耳にする時、よくぞ人類がこの楽器を生み出したという喜びと、実際にこの楽器を創作した人々に私は敬意を表したくなる。トランペットはいつでも楽曲をリードする楽器であり、どこまでもスターなのである。それは吹奏楽においては特に顕著であろう。奏者は学級委員とか、体育祭の団長のように、皆から頼りにされ、羨望される存在である。奏者自身もそれを目指さねばならない。これはトランペット奏者の使命である。私もクラリネットを吹く前に、中学一年で入部してから半年くらいはトランペットを吹いていた。そのことや経緯は前に書いたからは省きたいが、どうしてもクラリネットが吹きたかった私はトランペットを置いた。しかし、クラリネットにトレードしてから改めて痛感したのは、トランペットの人を惹き込む力である。パンッと響く最初の発音だけで、聴衆も奏者もその楽曲の中へと入ってゆける。トランペットは楽曲の世界観をもっとも早く、端的に聴衆へ届けてくれる楽器である。トランペットはその歴史も非常に古く、起源となるラッパのさらに原型は新石器時代に遡る。金属のラッパは古代エジプトではすでに使われていて、王家や軍隊で活躍していた。トランペットは歴史からしても、華麗かつ力強い圧倒的な存在感にしても吹奏楽器の王であり、ラッパやコルネットなど同類の楽器はトランペットの王族であると私は思っている。

吹奏楽金管楽器の配置は聴衆から見て上段左にトランペット、右にトロンボーン。一段下がり左にホルン、右にユーフォニアム。チューバは雛壇に上がらず、右手バリトンサックスやバスクラリネットの後ろに配される。この配置がベーシックだが、楽団や人数、楽曲や編成、指揮者によって変わることもある。金管楽器で見た目にもっとアクションが大きいのはトロンボーンである。スライドを前後に動かすので、躍動的な楽器だ。トロンボーンは吹いたことはないが、以外と馴染みがある。私の妹もかつて吹奏楽部でトロンボーン奏者であったからだ。もっとも面白く関心を集めるのはやはり奏法だろう。金管楽器であるから唇の震動によるのだが、一般的なトロンボーンはスライドを前後に動かして音程を得る。音程は七段階あり、手前から第一、もっとも後ろが第七である。手前が高く後ろが低い。生き物の様だと述べたが、まるで象が長い鼻を動かしながら、楽しそうに叫んでいるようにも見える。大きな楽器なのにどこか愛嬌を感じる。トロンボーンは実に個性的な楽器である。起源はトランペットから派生したらしい。トランペットよりも低い音でハーモニーを奏でるが、トロンボーンが主旋律を奏でることもあるし、トロンボーン協奏曲も多い。ジャズでもよく奏される。吹奏楽トロンボーンがもっとも目立つのはパレードやマーチングである。その形状と奏法からパレードでは必ず先頭を務める。ターンをする時は、ベルとスライドを最大限に上に向けて翻る姿は、皆が一斉に合わせるとまことに壮観である。

アンモナイトのような独特の形状で、これまた不思議な楽器ホルン。マウスピースの直径は金管楽器で一番小さい2センチ程度だが、ベルはとても大きく直径30センチ以上もある。ホルンは種類にもよるが、吹奏楽で一般的に使用されるシングルホルンやダブルホルンは4メートルもの管を持つ。こうした形状ゆえに、ホルンは幅広い音域を持っており、中音域楽器でありながら、楽器によって高音域も低音域もカバーできる。ホルンは唇の振動、左手でバルブを操作し、右手でベルに手を出し入れすることで、様々な音を出せる。もっとも奏法の難しい楽器の一つとされ、ホルン吹きは冷静で根気あって、かつ器用なものでなければ上達しないであろう。ホルンは金管楽器にしては柔和な音を出すため木管楽器ともよく調和するので、木管楽器とのアンサンブルもしばしばある。無論、ホルンが主役の楽曲も多くある。ホルンは一見目立たないようだが、実は金管楽器木管楽器の橋渡しをする楽器である。私には楽器も音も奏者も、そのすべてにおいて、ホルンは賢者に見える。ホルンとは角笛の意で、角笛ならばこれまた古くから使われていたであろう。アルペンホルンは角笛から進化し、あの長さで止まった。以降は技術革新によって巻かれていったのだと思う。

ユーフォニアム吹奏楽独特の楽器と言ってよいだろう。語源はギリシャ語で「良い響き」のことだと云う。歴史は180年ほどで、ドイツヴァイマルのフェルディナント・ゾンマーによりその原型が開発され、以来改良が加えられて今日に至る。ユーフォニアム管弦楽にもテナーチューバとして見かけることもあるが、稀であり、やはり活躍の場は吹奏楽金管バンドのようだ。B♭管が一般的で、トロンボーンとほぼ同じ音域であるが、音色はトロンボーンよりも柔和である。正直に言ってユーフォニアムは地味な存在だ。吹奏楽ブラスバンドに携わりし者でなければ、知る機会も少ないかもしれない。吹奏楽部に入るまで私自身も知らなかったし、入部して近くでその音を聴いても、何の関心も湧かない楽器であった。実際、私の現役時代にも、新入部員が積極的に希望することはほとんどなかったし、他の楽器が埋まってゆく中、余ったユーフォニアムに配属されると、何だかハズレくじを引いた様な顔になる人もいた。が、ユーフォニアム吹奏楽にはなくてはならない楽器なのある。あの柔らかく優しい音色は、楽曲に重厚なる深みと、美味なる奥行きを与えている。ユーフォニアム奏者は、木管楽器で書いたファゴットのように、じわじわとその魅力にハマる者が多いように思う。その魅力に気づいた者だけの特権であり、それを知る者のみがその至福を味わえるのである。今、ユーフォニアムは密かなる人気を集めている。ブラス界を席巻する日も、そう遠くはないだろう。

チューバは吹奏楽団の父の様な存在だ。聴衆から見てステージ右手にどっしりと腰を下ろして、大きなベルから、太く逞しい低音を唸らせる。チューバは楽団と楽曲を根底から支えている。この大きな金管楽器はやはり男子の楽器だろう。無論のこと女子校や、稀に共学の吹奏楽部でも逞しきチューバ女子がいる。重量もさることながら、相当な肺活量を必要とするはずで、チューバ奏者はだいたいが体格がよい。そうでなければチューバ奏者は務まらぬし、チューバを吹いているうちに、心身はチューバの如く大きく成長してゆくに違いない。チューバは音も無限大に聴こえる。それは大音量よりも、デクレッシェンドしてゆく時、儚く消えてゆく低音にこそ感じるものだ。あれほどの巨体を奏するには、並大抵の努力では足りないだろう。クラリネット吹きの私からすれば、チューバ吹きは柔道部や野球部の連中と変わらなかった。チューバはラテン語で「管」という意味であり、チューブから連想したのか、チューバからチューブが連想されたのか私は知らないが、文字通り管楽器を象徴していると思う。低音楽器としてのチューバが開発されたのは、産業革命以降だとか。

私個人的に金管楽器の最高の魅力は、音を破って吹奏された時だと思う。例えば、譜面上フォルティシモやクレッシェンドが連続した時、あたかも野生動物の雄叫びのように聴こえ、鳥肌が立ったことも一度や二度ではない。続。

なおすけの平成古寺巡礼 甲州恵林寺

私は甲府盆地が好きである。あの雄大な景色は、何度見ても心躍るところがある。東京から中央道や甲州街道を使って、勝沼の葡萄畑が見え始めると、視界が開けて、甲府盆地を俯瞰できる。確かに四周山。これほど名峰群に囲まれている盆地は他にあるまい。それはまるで仏さまの掌に包まれている様だ。ひと際目を引くのが、西の南アルプスの大山塊で、巨大な屏風がどっしりと聳立する姿に、私は山の神を拝む思いをし、同時に甲斐の猛虎武田信玄を連想させる。甲州人にとって武田信玄は永遠のヒーロー。信玄の銅像があちこちに建っているのも、いまだに信玄崇拝が根強い証拠であろう。信玄の銅像は、何と言っても甲府駅前のそれを筆頭としたい。昭和四十四年に完成したもので、甲府を訪れる者を睥睨している。床几にどっしりと腰を下ろして、左手には数珠、右手には軍配を持っている。この勇姿は川中島合戦の陣中の姿をイメージしたものとかで、まさに戦国武将かの如くありなんと云うべき、堂々たる威容を魅せている。私はあの姿にそのまま、甲斐から見える山々を重ねて、甲府駅前に行くと飽くことなく敬愛する武田信玄像を眺めている。戦国大名も数多いて、さながら百花繚乱。彼らは今の人間よりもはるかに面白く、魅力溢れる豪傑ばかりだ。好きな戦国大名や武将を選べと言われたら困るし、私はどちらかと云えば、徳川家康の様な天下人に興味があって、孤軍奮闘の戦国大名にはあまり関心はないのだが、敢えて挙げるとすれば武田信玄である。それは武田信玄はもう少し命永らえていたら、上洛を果たして、天下人になったやも知れないと思わせるからである。

川中島の戦いは五度にわたった。実質的には永禄四年(1561)の四度目の戦いが、もっとも激戦であり、川中島の戦いとはこの第四次合戦を指してよい。その前の三度は前哨戦であり、川中島近辺での小競り合いや情報戦であった。最後の五度目は睨み合いのみである。しかし、十二年にもわたり繰り広げられた川中島の戦いは、天下取りではない、最も戦国時代らしい戦いであり、戦国史のみならず、日本史好きは食指を動かしたくなる。川中島は大軍対大軍が激突した最初の戦いであり、以降川中島がモデルケースとされて、関ヶ原の戦いまで続く天下取りへと突入する。信玄と謙信は互いを尊敬し、敵対し戦いながら戦国大名としての力をつけていった。両雄が切磋琢磨し比類なき双璧になった。此度は武田信玄のことである。信玄は智略に優れ、かつ大将としての勇猛果敢な大器量を備えていた。家臣団を統率し、また家臣団も信玄に忠義を誓い、鉄壁の武田軍を創り上げた。相手の上杉謙信と上杉家臣団もまた同様であった。ゆえに雌雄決すること成らずであった。

 信玄の生きた時代、甲斐の周囲は、駿河の今川氏、相模の北条氏、上野の上杉氏、越後の長尾氏など、何れ劣らぬ強者がひしめいていた。国守は今川義元北条氏康長尾景虎で、さらに後には三河徳川家康尾張織田信長がいた。応仁の乱が集結して後、室町幕府は殆ど瓦解しており、足利将軍家の権威も力も失墜著しく、それに伴い各地の守護大名の地位も低下した。京都に常住した守護大名に代わり領国の統治を代行した守護代や家臣団が力を蓄え、守護大名から独立したり、謀反を起こして一派一軍を成し、やがて戦国大名となっていった。群雄割拠の戦国の世が始まる。室町幕府の中枢を担っていた細川氏、畠山氏、斯波氏の三管領家をはじめ、京都に近い有力守護大名は為す術もなく、新興の大名や、東国、西国の大名達は各地で国取合戦を繰り広げたのである。そんな中、武田氏もまた荒海に乗り出さねばならなかった。

甲斐武田氏は、清和源氏の一流河内源氏の一門で、八幡太郎源義家の弟源義光が祖とされる。前九年の役後三年の役で源氏は東国に進出したが、そうした経緯から義光が甲斐守に任じられ土着したと云う説もあるが、真偽は疑わしいようだ。義光の息子源義清が、常陸国那珂郡武田郷を治め、武田の姓を名乗り始めたのが、武田氏の起こりである。その子源清光は荒くれ者で、周囲の豪族と揉めた。結果、甲斐に流されたと云うが、清光は自らの意思で甲斐に向かったと云う説もある。いずれしろこの清光が甲斐に土着して、ここに甲斐源氏が生まれ、甲斐武田氏が始まったのである。ゆえに武田家は守護大名であり戦国大名である。武田氏は新興ではなく名門中の名門であった。

大永元年(1521)、戦国乱世の真っ只中に信玄は武田家嫡男として生まれた。幼名は太郎、名は晴信と云う。信玄となったのは、後に仏門に帰依してからである。父武田信虎は、甲斐武田氏始まって以来の専制的な国守であった。武田家の戦国の有力大名としての萌芽は信虎の頃に培われた。豪胆剛毅な信虎は強権的な独裁者であり家臣や領民からも恐れられた。その父の振る舞いを幼い頃から側で見てきた晴信は、父とは真逆の温厚な性格で和を重んじた。ゆえに晴信が成長するに連れ、信虎は晴信を頼りなく思い、疎んじはじめた。一時は本気で晴信を廃嫡し、次男信繁を後継にしようとしたほど、父子には軋轢が生じていた。晴信も自ら廃嫡を望もうとしたが、守役板垣信方や継室三条の方に諌められて思いとどまった。二十一歳になった晴信は、板垣ら家臣団と結託して、密かに駿河今川義元に頼み、ついに父信虎を駿河に追放した。いくら戦国乱世とはいえ、我が父を追放し、国守の座に就くなど、考えも及ばぬことであり、周囲の大名にしても京都の将軍家や諸大名にしても、この大クーデターはまことにセンセーショナルな出来事であったに違いない。子が父を追放する。これ以上の下剋上はあるまい。今まで小競り合いで燻っていた戦国の火は、この出来事によって火炎となって、瞬く間に日本各地へ燎原の火の如く広がっていった。

いわば戦国後期の火蓋を切ったのは、何おう武田信玄その人であると私は思っている。この時から信玄は本物の武人となって、後に戦国最強と呼ばれる武田軍を率いてゆく。一方で、政治家としては父とは異なり家臣領民を大切にし、円満な領国経営を試みた。勇猛かつ優しい甲斐国守を目指したのである。甲斐を豊かにするために、積年の課題であった治水事業を徹底的に行い、肥沃な大地を求めて、諏訪から北信濃に侵攻し次々に勝利して、ついには信濃を平定し領国を拡大した。信玄としてはここらで良いと思ったかも知れない。後は、甲斐信濃をいかに守り、繁栄させるかに心砕きたかったであろう。が、戦国の世はそれを許さなかった。甲斐を守り抜くためには、周囲と戦い、勢力を広げ、さらには京の都を目指さねばならなくなった。出なければやられるのが、戦国であった。その事では嫡子義信と揉め、まるで自分と父信虎のように反発し合う父子関係となり、ついには吉信が信玄に謀反を起こし廃嫡、失意の義信は自害した。次男信親は幼くして盲目となり出家、三男信之は早逝していたので、これにより信玄側室で諏訪姫の生んだ四男勝頼が嫡子とされた。諏訪姫は若き日信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘で、勝頼は諏訪四郎と呼ばれ長く諏訪にて養育された。義信亡き後、三条の方も相次いで亡くなり、これを機に勝頼は、諏訪高遠から甲府躑躅ヶ崎館に迎えられている。

元亀三年(1572)信玄五十二歳、労咳を患いながらも、およそ三万の武田軍と北条軍二千を率い、信玄は上洛するために西へ進軍を開始した。京都では織田信長が、足利義昭を十五代将軍に奉じたが、それは形ばかりで、実質信長政権が始まりつつあった。信長の軍門に下るわけにはいかない信玄と、信長の専横を苦々しく思っている足利義昭の利害は一致し、義昭は信玄に助けを求めて招聘したのである。信長と若き日の家康は同盟者であった。家康は西上してくる信玄を三河遠江にて迎え撃つも、味方の敗戦相次ぎ、浜松城に籠城したが、信玄はそれを無視して城攻めせずに、西へ軍を進めた。家康を子ども扱いして無視したと云うよりも、この先の三方ヶ原に誘い込めば、城攻めより遥かに楽に戦えることを知っていたからだ。同時に我が命尽きかけているこの時、避けるべき戦いは極力避けて、一刻も早く上洛を果たしたかった信玄の心が透けてみえる。家康が追って来なければ、信玄はそのまま西へ向かっていただろう。攻めて来ぬ武田軍に業を煮やした家康は、ならばと城を飛び出して信玄を追いかけた。そして三方ヶ原にて待ち受けていた信玄に返り討ちにされ、信長の援軍も僅かしか来ず、大敗北を喫した家康は、馬上で糞を漏らしながら、命辛々浜松城へ逃げ帰った。この時の家康はいかにも若かった。しかしこの経験が家康を大きくしてゆくきっかけとなり、家康は生涯武田信玄を尊敬したと云う。信玄の城攻めせずに誘き出す戦法は、関ヶ原の合戦で活かし、後に武田家臣団や武田軍の生き残りを召抱えて、井伊直政に与えたりした。武田の赤備えは井伊の赤備えに継承されたのである。信玄は労咳を押して出陣し、山の神が降臨した如き姿で、連戦連勝を重ねた。陣中では病など何処かへ消え失せ、家康を蹴散らし、いよいよ信長を窮地に追い込むところまで来た。入洛まであと一歩のところであった。が、信玄の命運もここまでであった。翌、天正元年(1573)武田信玄死す。総大将を失った武田軍の士気は下がり、もはや信長の敵ではなくなった。信玄亡き後、武田家は雪崩のようにあっという間に滅亡してゆく。

信玄の墓所は複数ある。おそらくは死を秘匿するべく、その墓もバラけた可能性が高い。信玄は往生際に自らの死を三年間伏せる様に勝頼に遺言している。さらには、遺骸を諏訪湖底に沈める様に伝えたとも云われる。真偽は謎らしいが、信玄ほどの人物ならばあり得ぬことではない。当時水葬は珍しいことではないし、諏訪湖に沈めて隠せば、敵を欺ける。そして諏訪湖は武田家と甲斐信濃にとって神の湖と崇められている。諏訪大社は武田家の氏神であり、諏訪大明神は家臣から領民に至るまで崇敬厚く、冬に時々見られる湖面の氷の膨張と伸縮によって起こる「御神渡り」は、神の通った道と云われる。諏訪湖は甲斐や諏訪の人々にはまことに神秘の湖で、諏訪湖から飲み水も魚も、豊穣の水も分けてもらっていた。日々の暮らしの糧が諏訪湖なのだ。その神の湖に自らを埋葬すれば、信玄の威光は益々神威となり、武田家と甲斐を未来永劫守護すると遺言したかもしれぬ。信玄の墓は甲府市内にもあり、武田神社近くにある。武田神社躑躅ヶ崎館の跡地に建っており、今も社の周囲には濠が廻らされ、高い土塁が見られる。裏山には貯水池があって釣り堀になっているが、そのあたりに登ると、甲府城下を俯瞰することができる。最初に述べた甲府盆地雄大な眺めである。ここからの景色を信玄も眺めたとすれば、実に感慨深い。

信玄の墓は甲州市にある恵林寺にもあるが、ここがおそらくは正式な墓であろう。信玄の葬儀は勝頼によって恵林寺にて営まれた。恵林寺は中央線の塩山駅から車で十分少々だが、私はぶらぶらと一時間ほどかけて歩いて行った。途中にある向嶽寺に立ち寄る。向嶽寺は永和四年(1378)、富士を崇拝していた武蔵国の抜隊得勝禅師が八王子からこの辺りに入り、庵居を構え向嶽庵と称した。南朝後亀山天皇の勅願所となり、武田家からも庇護を受けて、信玄の時に本格的な禅道場となり向嶽寺となった。向嶽寺も信玄の時代がもっとも隆盛し、末寺、塔頭が軒を連ねる大寺となったが、武田家滅亡後は衰退してゆく。戦国末期には荒廃していたが、徳川幕府から朱印を受け、維新後に臨済宗南禅寺派に一時属し、明治半ばに独立して臨済宗向嶽寺派大本山になった。今は住宅地の只中に、禅寺らしい凛とした佇まいをみせている。仏殿や前庭以外は非公開だが、山門を入ると池があって、その池の真ん中に屋根のある美しい橋が架かってい、その橋越しに見る仏殿と、裏山の鮮やかな緑には見惚れてしまう。雲水の修行のための寺であり、拝観謝絶のせいか、参詣客は一人もおらず、清らかな朝の空気が充満する寺を独占した。向嶽寺は文字通り富嶽に向かう寺、富士を仰ぐ甲斐に相応しい寺である。

恵林寺は武田家菩提寺に相応しい堂々たる寺であるが、肩を怒らせたところがまったくない。ゆったりと静かに、優しく甲斐の歴史を見守っている。恵林寺臨済宗妙心寺派で、元徳二年(1330)夢窓国師の開山。禅寺らしく美々しい参道の先に朱塗の四脚門、その先に古色蒼然とした三門があり、屋根には武田菱が光っている。寺伝によれば、信長は武田家を徹底的に潰しにかかり、恵林寺にも兵火を及ぼした。当時の住職快川国師は、燃えさかる炎の中、この三門の上から、「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず しんどうめっきゃくすればひもおのずからすずし)と遺偈した。さすがに武田信玄が帰依した禅師らしく、潔い死に様である。夢窓国師が作庭した庭は、池が配されて四季折々の花が咲き乱れる。方丈の枯山水も窮屈さはなく、のびのびと広くて気持ちが良い。有名な武田不動尊は、信玄が出家し比叡山から大僧正の位を受けた際に作らせた信玄等身大の不動明王の木像で、信玄は自らの髪を焼き、漆に混ぜて胸元に塗り込めたと云う。たださえ怒髪天不動明王に、甲斐の猛虎と恐れられ、山の神とも崇められた信玄がまるで乗り移っているかのようである。不動尊の裏手が墓地になっていて、信玄の墓所となっている。信玄の墓の背後には、武田二十四将を含む七十基もの家臣団の墓が整然と並んでおり、まるで鶴翼の陣の如く壮観である。死してなおも武田信玄と家臣団は強固な主従関係を見せ付けており、この場所にいると威風堂々たる武田軍が鮮明に瞼に浮かんでくるようであった。そしていつの間にやら戦国の世へ還って行きそうな心地になる。信玄墓所から少し離れたところには、元禄時代甲府を治めた柳沢吉保夫妻の墓もある。吉保は徳川綱吉側用人として絶頂を極め大老格の待遇を受けたが、綱吉亡き後は日を置かずに隠居し、余生は駒込六義園の造営などして風流を旨として過ごした。吉保は信玄を敬愛していたと云う。今、恵林寺で信玄の側にいられることは幸せであろう。

 当然ながら甲府市内には武田家に所縁のある寺が多い。信玄は京都や鎌倉の五山制度に倣い、甲府城下にも臨済宗甲府五山を置いた。甲府市内にある長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺である。また信濃を平定した後、甲斐にも善光寺を建立し、川中島合戦による兵火から逃すべく信濃善光寺から本尊の阿弥陀三尊を甲斐善光寺へ避難させている。ついでに甲斐善光寺にも参詣した。寺の規模や参詣人は信濃に遠く及ばぬが、金堂は姿形がよく似ている。境内はさほど広くはないのに、金堂や山門は異様に大きく、ゆえに少し違和感を覚えるくらい窮屈だが、緑青の屋根に朱塗の金堂には圧倒される。現在の金堂は、江戸期の再建で、内部には荘厳な内陣があり、外陣の天井にはよく見かける鳴き龍がいる。私も手を打って試してみたが、この寺の龍はとても大きな声で鳴いた。堂内には多くの仏像が薄気味悪い暗がりに所狭しと安置されている。そして内陣の地下には信濃善光寺と同じく、戒壇巡りがあって、本尊と結縁できる錠前がある。先年、信濃善光寺戒壇巡りをした時には、錠前の場所がわからずに通り過ぎてしまったが、同行した友人に引き戻してもらって何とか掴むことができた。此度はひとり。甲斐善光寺戒壇巡りは信濃ほどの長さはないが、やはり内部真っ暗闇。ここは寺であり、内陣の須弥壇の直下、本尊と結縁できる場所。これほどありがたく安心できる場所もないのに、視界の効かぬ闇はやはり怖しい。人間とは愚かである。手探りで慎重に壁を伝ってゆくと、果たして錠前を掴むことが出来た。信玄は仏門に深く帰依し、同時に諏訪大明神を崇敬した。神々の住まう山に四方を囲まれた甲斐の国守として、大自然と神仏を敬うことは信玄にとっては当然のことであった。一方の信長は神仏を怖れず、比叡山を焼き払い、一向宗と戦った。或いはそれは、はじめ自分よりも遥かに大きな山として立ちはだかる信玄への恐怖心を除かんがための、信長の手立てであったかもしれない。信玄は「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」と言った。家臣を信じ、領民を慈しんだ信玄の大きな友愛の精神がみえるようである。

日を空けずに私は東京八王子の信松院を訪ねた。ここには武田信玄の四女(五女とも六女とも云うが寺伝に従う)松姫が開基の曹洞宗の禅寺で、松姫の墓もある。私は前々から松姫の数奇な生涯に関心があった。この寺にも来てみたかったのだが、近いからいつでも行けるだろうと思っているだけでいっこうに出向く機会がなかったのだが、此度ようやく参詣できた。松姫はたいそう美しい姫であったと云う。美貌のみならず、知性と教養を備え、かつ人を想う深い慈愛と、御仏への厚い信仰心を持っていた。父信玄は、他国からは甲斐の猛虎と呼ばれ、武田武士は山猿などと揶揄されたが、本人は漢籍、古典に通じ、孫子を愛読し、書も達筆であった。単なる荒くれ者に甲斐を豊かに統治し、戦国最強軍を形成できる力などあろうはずはなく、武田信玄はまことに智将であった。その娘松姫は、偉大なる父から多くを感じ、学んだに違いないのである。しかし松姫の幸せは儚いものであった。松姫は七歳で信長の嫡子信忠の許嫁となり、両家の絆となるも、都での信長の横暴と野望を見抜いた信玄は、次第に信長と不和になり信忠と松姫の縁も破談となる。信玄が亡くなり、十年余りで武田家は滅亡。松姫は八王子の心源院に入り、二十二歳で出家した。武田家代々の信という名、それは信玄の信であり、松姫の松をとって信松尼と称した。後にささやかな庵を結んだのが当院で、五十六歳で亡くなるまで、ここで寺子屋を開いたり、武田家の菩提を弔う日々を過ごした。先に述べた様に、家康は武田家の再興を画策し、武田家縁の人々や遺臣を丁重に庇護し取り立てた。これが縁で腹違いの姉の見性院とともに、秀忠の落胤保科正之を幼少時には匿って養育している。かつて寺にはまつひめ幼稚園があって寺子屋の意志は受け継がれていたが、今は幼稚園は無くなっていた。寺の前は松姫通りと呼ばれ、今でも当地の人々は松姫に心を寄せているが窺われた。本堂が中国の禅宗様式なのは、八王子七福神の布袋様も合祀されているからだろう。境内至る所に武田菱が刻まれている。小さいが庭も美々しく、茶室もあった。いかにも尼寺から始まった寺という慎ましい佇まいである。裏手にある松姫の墓にも参り手を合わせた。松姫は信玄の娘に生まれたことが、幸せであってまた不幸であったが、生涯武田信玄の娘であることを誇りとして生き抜いたに違いない。

さて図らずも、恵林寺甲斐善光寺は私が平成最後に訪ねた寺で、信松院は令和最初に訪れた寺となった。 ひとまず「なおすけの平成古寺巡礼」はこれにて終わりに致すが、私の古寺を訪ねる旅は終わらない。次からは「なおすけの古寺巡礼」として、新たに始めたいと思う。

皇位継承一壬申の乱一

白村江の戦いで惨敗した後も中大兄皇子は即位せずに実権を握っていた。このような状況を称制と云う。称制とは、君主が亡き後に、即位せずに政務を摂る人物のこと。中国王朝の例を参考に、皇太子や皇后が一時的に称制となることがあったが、日本では中大兄と持統天皇が即位前に称制となり、他にも数度あるがあまり多くはない。称制は摂政と似ているが大きな違いがある。摂政は天皇が在位されているが、称制は在位中の天皇はいない。皇太子中大兄が斉明天皇崩御されてすぐに即位されなかったのは、敗戦後の混乱もあったと思うが、この頃の皇位継承は命懸けであり、それを誰よりも解っていたのが、中大兄本人であったから、石橋を叩きながら世情の機微を見極めたかったに違いない。

 中大兄は都を難波宮から飛鳥、さらに近江の大津京に遷都された。無論のこと唐の侵攻に備えるためで、太宰府の水城や、瀬戸内沿岸に出城を築いたのも同時期である。そして大津京にてようやく正式に即位された。同時に大海人皇子立太子する。この年天皇は近江の蒲生野にて薬猟された。

あかねさす紫野行き標野行き野守や見ずや君が袖振る

この歌は薬猟に供奉した額田王が、皇太弟大海人皇子に奉歌したもので、あまりに有名な万葉の秀歌であるが、大海人の返歌がまた秀逸である。

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに恋ひめやも

額田王は大海人の寵妃と云われるが、実に謎に包まれた人物である。おそらく朝廷に使えた女官や巫女の類で歌も抜群に巧かったゆえ、才女として大海人の秘書のような存在ではなかったかと思う。額田王は才色兼備の元祖とも云える女性であり、その美貌は廷臣の間でも評判であった。天智天皇が欲されたことも想像にかたくはない。確証はないが、天智天皇にも寵愛され、最後の妃であったともされる。実に奇妙な三角関係だが、当時のことを思えば不思議でもない。もっともこの歌が詠まれた頃には、三人ともすでに熟年の域に達しており、ずっと昔の若い頃のことを思って詠んだとも云われる。額田王は大海人との間に、後に大友皇子の妃となる十市皇女を産んだが、無論のこと大海人の正妃は、後の持統女帝鸕野讃良であり、身分からして叶う相手でもなかった。しかしこうして堂々と二人の天皇を向こうに回して歌を振舞う額田王には、この時代の日本人の大胆な雅やかさが感じられる。御両人の歌からは、悲喜交々あることは察するが、白村江の戦いから少し落ち着き、この先の動乱を控えた束の間の安らぎも伝わってくる。近江朝時代は、嵐の前の静けさでもあった。

その翌年、天智天皇にとってもっとも信頼する臣下にして、盟友の藤原鎌足が亡くなった。天皇の喪失感は察するに余りあるが、鎌足大化改新以来の律令制や官僚機構を整えていたため、一応は天智天皇在位中に国内の憂いはほとんどなく、もっぱら外患にのみ気を配ったとみえる。唯一の気がかりは皇位継承問題で、晩年はそのことだけに苦心されたように思う。天智天皇は、新たに官位を十九から二十六にされ、太政大臣の位を設けて愛息大友皇子に与えた。そして自らの血筋が世襲皇位継承をすることを世に示したのである。

 天智天皇九年(671)、天皇は容態芳しからず、死の床に弟大海人皇子を呼び、くれぐれも我が子大友皇子を頼みおくと申された。太閤秀吉がいまわの際に内府家康を枕元に呼んで、愛息秀頼の後見と豊臣家への忠誠を懇願したのとそっくりな場面がそれより九百年の昔にもあったのである。大海人は兄帝の手を握りしめて、無論であると言い、自らは出家して朝廷を去ると告げ、吉野へ籠られた。 大友皇子の臣下の某は「虎に翼を付けて放ちたり」と憂いたが、天皇は安堵され、翌天智天皇十年(672)四十六歳で崩御された。正式に天皇として即位された期間はわずか四年であった。

それから時勢は風雲急を告げ、大友は叔父大海人の挙兵を怖れ、軍勢を差し向ける。事前に察知した大海人は密かに吉野を脱出し、伊賀国名張を経て、加太越で伊勢国へ逃れた。従者はわずかに二十人ばかりであったと云う。加太越は伊賀国伊勢国境にある鈴鹿山脈の峠である。ここは本能寺の変の直後、家康が辿った伊賀越えのルートでもある。家康が領国三河に逃れることができたのは、このルートに在した伊賀者甲賀者が助力したことが大きいらしいが、大海人もまた各地で豪族を服従させながら、不破関へと向かっている。逃避行には誠に適した道であり、伊賀も隠国の一つであったことが、古代と戦国の覇王の動向から知れる。大海人はその後の日本史に登場する様々な人物と重なる。源頼朝足利尊氏織田信長、そして徳川家康。皆、若い頃や天下を握るまでは不遇な時代を過ごしていて、命からがらと云う経験を何度もしている。早熟ではなく、歳を重ねてから天下を狙い始めた。或いは、それぞれが大海人を意識したこともあったかも知れない。 日本書紀によれば大海人皇子は卜占や陰陽道に長け、神秘的な力を備えていたと云う。吉野から不破関に向かう道々、卜占をし、天候から人々の吉凶をピタリと言い当てた。吉野の浄御原神社の伝承では、大海人皇子は献上された川魚を半身のみ食し、この後我が天下を治めるならば、この魚は生き返るであろうと言い放ち、川に流すと、魚は泳いで行ったと云う。シャーマンの様な大海人に、人々は畏怖し、惹きつけられて従ったのだろう。大海人は、伊勢国に無事に入ると、朝明郡の迹太川(とほかわ)の畔で伊勢神宮を遥拝し戦勝祈願をされた。このことは日本書記にも「於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」と記されており、その跡地は四日市大矢知町に史跡として遺されている。大海人は、ここでの遥拝によって、伊賀、鈴鹿、桑名、尾張、美濃など神宮を信奉する伊勢湾近くの豪族を味方につけることに成功する。これが一大勢力となり、不破関に着陣する頃には大友皇子の軍勢に匹敵するまでになった。吉野を脱出する時に、わずかの手勢しかなかったことを思えば、さすがに神がかっていると言わざるを得ない。 一方、大友皇子も軍勢を引き連れて、西から進軍してきた。こうして不破関今の関ヶ原のあたりで両軍が対峙し、古代史上最大かつ日本史上有数の合戦が繰り広げられた。両軍総勢六万前後の戦いは、東国の有力豪族を味方につけていた大海人軍が勝利した。その後も大海人軍は、時を空けずに近江朝軍を攻め立て、ついに瀬田川の決戦で大友皇子を追い詰めた。大友皇子は逃亡しようと試みるも失敗し、あえない最期を遂げられた。二十五歳の若さであった。以来、大友の即位は不詳とされたが、明治天皇により弘文天皇と追諡されている。大友皇子十市皇女の間には葛野王という親王がおられたが、無論皇位継承はできず、ついに大海人皇子天武天皇として即位したのである。余談であるが、葛野王天武天皇の孫でもあり、命は助けられて、後に皇族として遇されて、三十七年という短い生涯ではあったが、天武朝と持統朝の廷臣として、なかなかの働きを見せている。

天武天皇は史上最強の天皇と云って良いだろう。天武天皇は飛鳥浄御原へ都を戻された。史上初めて天皇の称号を用いたのも天武天皇であった。 さらに文書で公式に日本という国名が使われたのも天武天皇の時からである。天皇は祭主として五穀豊穣を神々に感謝する新嘗祭を行うが、天皇が代替わりして最初に行う新嘗祭大嘗祭と云う。一世一代の大祭祀たる大嘗祭を始めたのも天武天皇であった。先にも述べたように、 天武天皇は神懸かる力を秘めていた。そのカリスマ性は、歴代天皇の誰よりも大きなもので、当時の人々は天皇の強い磁力引き寄せられていったに違いない。その力により、様々な改革を成し遂げて、政治基盤を整えてゆく。年功や身分の序列にとらわれず、才ある者を官職につけ、勤務態度や仕事ぶりを査定し、官位を昇進させた。天武天皇の伊勢崇敬は殊の外厚く、自ら祭主となって伊勢神宮の祭祀を執り行い、娘大来皇女を史上初めて伊勢に仕える斎宮としている。今に連なる宮中祭祀を始められたのである。一方で仏教も疎かにはせず、鎮護国家のために巧みに政治に取り込んでゆく。対外政策についても、白村江の戦いで手痛い目に遭ったことを教訓にし、唐と争うことなく、寧ろ見習うべきとしぬ、朝廷では唐の礼法、衣服、結髪を採用した。が、有事に備えて軍備の拡充や練兵を怠ることもなかった。

十三年の治世で鉄壁の大和朝廷を作り上げた天武天皇崩御され、朝廷は皇位継承を廻ってまたしても不安定な情勢となる。天武天皇には高市皇子草壁皇子、舎人皇子、大津皇子、穂積皇子、忍壁皇子弓削皇子磯城皇子、新田部皇子と多くの皇子がいた。このうち皇后鸕野讃良を母に持つ草壁皇子が、もっとも有力な後継者と目されていたし、天武天皇もそのつもりであった。「吉野の盟約」には、そうした思いが表れている。天武天皇は皇后や皇子や皇族たちを連れて、壬申の乱以来、七年ぶりに吉野へ行幸された。その時に六人の皇子を前にして、皇位継承について自らの意思を語り、約束をさせる。以下、日本書紀にある吉野の盟約の一部分を抜粋する。

天皇、皇后及び草壁皇子尊、大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子に詔して曰ふ、

朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳(千年)の後に事無きことを欲す いかに

皇子ら、共にこたえて曰ふ、

理実、いやちこなり

則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、

天神地祇及び天皇、証らめたまへ 吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し 若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ 忘れじ、失せじ

五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し

然して後、天皇曰ふ、

朕が男等、各異腹にして生れたり 然れども今一母同産の如く慈まむ

則ち、襟を披き其の六皇子を抱く 因りて以って盟ひて曰ふ、

若し茲の盟ひに違はば、忽ち朕が身を亡さむ。

皇后の盟ひ、且天皇の如し

天武天皇と皇后鸕野讃良は、六人の皇子たちに向かって、皇位を巡って争ってはならぬと釘を刺し、皇太子には皇后の子には草壁皇子を指名した。六人の皇子とは、天武天皇を父にもつ高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子天智天皇を父にもつ川島皇子志貴皇子である。この時は、偉大なる天武天皇に抗う者はなかったが、皮肉なことに最強の夫妻が築きあげし、天武系はそう長くは続かず、今に続く皇統は天智系に戻るのである。そのあたりはまた次回語りたいと思う。

天武天皇亡き後、早くも暗雲が漂い始めた。大津皇子草壁皇子への謀反を図っているとの噂も流れた。危機感を抱いた草壁の母鸕野讃良は、刺客を放ち大津皇子を暗殺された。そして、大津皇子派に配慮して、草壁皇子をすぐに皇位にはつけず、自らが称制となられ様子をみることにした。が、草壁皇子はあえなく薨去され、途方にくれた皇后は草壁皇子の息子軽皇子を後継者に据えようとするが、この時軽皇子は未だ幼年、やむなく自ら皇位継承し、持統天皇となられたのである。持統天皇の父は天智天皇であり、夫天武天皇とは叔父と姪の結婚であった。数ある皇子の誰よりも血脈的には皇位継承者に相応しい存在であり、天武天皇も草壁に事あれば、軽皇子の成長するまでは、皇后に代替わりを望まれていたと思う。夫帝の成されたことを側近くにてつぶさにみてこられ、文字通り二人三脚で歩んでこられた持統女帝は、天武天皇の意思を継ぎ、安定的な政権基盤と皇位継承を切に望まれた。天武天皇を歴代最強の天皇と申し述べたが、持統女帝もまた歴代最強の女帝である。安定的な皇位継承とはすなわち兄弟で骨肉の争いを避けることである。ここまでだらだらと書いてきたが、飛鳥時代から奈良時代にかけては天皇親政がもっとも実現できた時代であり、ゆえにその権威権力を欲して皇族間で火種が尽きることがなかった。皇位を継がれて天皇になることが、これほどまでに命懸けであった時代はない。確かに後の平安時代南北朝時代にも無くはないが、血なまぐさと言ったら飛鳥時代から奈良時代の比ではない。天武天皇持統天皇夫妻は皇位継承を巡る争いを我が子らにさせたくないと思われていたに違いない。ゆえに、皇后の皇子である草壁皇子を正式に天武天皇の後継に据えた。が、早世した草壁に代わり、孫の軽皇子を次代と定めたのも、皇位世襲によって継がれてゆくことを示し、兄弟はあくまで臣下とした。余計な争いを避けるために。このことを持統天皇は自分の目の黒いうちにやり遂げねばならぬと云う強き使命感を持って女帝となられた。そして軽皇子十四歳の時、譲位されて自らは史上初めて太上天皇すなわち上皇となられた。軽皇子文武天皇となられたが、まだ若年ゆえに持統上皇は後見された。この時の持統上皇は、権威も権力も軍事力も全て手中にされ、まるで中国清朝末期の西太后を彷彿とさせる。これは私の想像にすぎないが、西太后のように、若き帝の背後に座して、垂簾聴政の様なことが行われていたかも知れない。平安後期の院政の原型がこの時にできたのである。

百人一首には、持統天皇のあまりにも有名な歌がある。

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐ山

この歌は新古今和歌集にも収めらている。一方万葉集では、以下の如くある。

春すぎて夏來たるらし白栲の衣乾したり天の香具山

この歌からは、細やかで大らかな、いかにも女性らしい面影しか思い浮かばない。歌の魔力と云うものだろうか。或いはこの歌を詠まれた彼女が本当の彼女であり鸕野讃良であって、持統女帝として君臨した姿こそは、虚勢を張った偶像であったのかも知れない。天武天皇と持統女帝、いずれにしても天皇家歴代最強の夫妻であったことは間違いないと思う。

 

青春譜〜木管楽器私総覧〜

吹奏楽において木管楽器は大所帯である。木管楽器は主旋律を奏でることが多く、オーケストラの弦楽器ならば、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに相当し、無論フルート、クラリネットに同じある。ことにクラリネット、フルート、アルトサックス、テナーサックスは主旋律や副旋律を奏でることが多い。中でもっとも主旋律の出番が多いのがクラリネットであり、さらに1stクラリネットは幅広い音域でメロディを担当する第一ヴァイオリンであろうか。木管楽器が大所帯と云ったが、そのほとんどはクラリネットである。クラリネットについては何度か書いてきたのでくり返しになるが、クラリネットは私が吹いていたB♭菅を中心に、時にA菅やE♭菅、アルトクラリネットバスクラリネット等が吹奏楽では使用される。B♭菅とバスクラリネットはほとんどの吹奏楽部で見られる。B♭菅はクラリネットの主力であり、木管楽器のいや吹奏楽の主力とも云える。私がクラリネットだったから贔屓目でみているわけではない。主旋律すなわち楽曲のメロディを奏でる楽器であるクラリネットは、トランペットやサックスの様に華はない。が、主旋律も副旋律も奏で、楽曲の根幹を支えているのは何と言ってもクラリネットである。クラリネットは基本的に高音、中音、低音の三編成で、1st(ファースト)、2nd(セカンド)、3rd(サード)と表す。吹奏楽部の人数によるが、コンクール等人数制限がある場合は三人ずつか、高音を薄めで、低音を厚めにすることが多い。高、中、低がいずれかの楽器とリンクしてユニゾンすることもあるため、大所帯のクラリネットは楽曲の中でもっとも複雑に絡み合うことしばしばなのだ。異論反論はあると思うが、極めつきの私見として云えば木管楽器の軸はクラリネットであるとしたい。

軸をクラリネットとすれば、さらに高音で微細繊細にハーモニーを奏でるのがフルートやピッコロである。吹奏楽部に入部してくる女子に一番人気はフルートである。果たして今もそうなのかはわからないが、少なくとも私が現役の頃は、入部してパートの希望を聴取する時、フルートは女子のほとんどが挙って希望するので、毎回籤引きになったりした。中学の時は籤がハズレて泣き出す子もいたり、けっこう苦慮したことを思い出す。さすがに高校生にもなれば泣く子はなかったし、高校生は中学生よりもよく考えて選択肢するようになった。或いは中学から経験していれば、そのまま同じ楽器を担当することが一般的でもあった。フルートを吹きたいと願う女子は、だいたいが見た目も実体もお嬢様っぽい。ピッコロはフルートの半分くらいの管で、フルートより1オクターブ高い音が出せる。指使いもフルートと同じで、日本の横笛のように高く鋭い音も出せるのが魅力である。吹奏楽部ではフルートの人気には及ばないが、フルートを落選したら、ピッコロにスライドすることが間々ある。何れにしても、私が中学の頃は、フルートピッコロパートは、いかにも男子禁制、女子の園と云った雰囲気があり、何となく近づき難かったものだ。

フルートパートとは対照的にサックスパートは、木管楽器の中では男子にも人気である。サックスは正式にはサクソフォーンと云うが、今やサックスと呼ぶことが一般的か。ことにアルトサックスや、テナーサックスは音も渋くて、見た目も確かに格好良い。フルートの様に可憐でなくとも華があり、大所帯のクラリネットの様に埋もれることがないサックスパートは男子が憧れる要素が詰まっている。アルトサックスやテナーサックスは演奏のみならず、吹奏する姿、だだストラップを付けて楽器を持っているだけでも絵になる。無論、発する音も魅惑的。マウスピースにリードを付けて奏するので木管セクションに分類されるが、管の材質は真鍮が主で、銀や銅を使用したものもある。塗装はラッカーもしくはメッキ仕上げで、見た目はいかにも金管楽器であるが、奏法も音色もやはり木管楽器である。サックスは木管楽器金管楽器の間の子といったところだろう。吹奏楽部ではアルトサックス、テナーサックスの他、バリトンサックス、他にソプラノサックスを使用することがある。ソプラノサックスはクラリネットとトランペットを合わせたような楽器で、音もクラリネットほど丸くはないが、トランペットほど鋭くもない。実に円やかな音色である。バリトンサックスは大きくて、重量もかなりある。ゆえに男子が担当するのが良いと私は思う。実際、私の同級生の女子はバリトンサックスを吹くことになったが、二ヶ月ほどで首を痛めてしまい、パーカッションに移籍した。成長期の中学生、特に女子にはバリトンサックスやバスクラリネットは過酷かもしれない。サックスパートは、何となく陽気な雰囲気が生まれ、吹奏楽部のムードメイカー的役割を果たすことが多い。私の経験からしても、中学も高校もそうであった。言葉は悪いが、やはり目立ちたがり屋が集まるパートと云えるかもしれない。

木管楽器でもっとも古典的なものがオーボエファゴットである。いわゆるダブルリード式の管楽器で、音色もオーボエは微細妖艶、ファゴットは重厚雄渾な響きである。どちらも構造や吹奏方法からして、さほど大きな音は出せないため、地味な印象で、吹奏楽部員にもはじめは人気がない。楽団によってはファゴットはいない場合も多く、オーボエもいないこともある。が、この楽器はどちらも吹けば吹くほどその魅力に取り憑かれる人もまた多い。先に述べたとおりオーボエファゴットは、管楽器としての歴史は古く、四、五百年前から原型はあり、さらにオーボエ古代ギリシャ時代にも、近い形の楽器があったらしい。また、弦楽器と最初にコラボした管楽器もオーボエの原型だと云われ、吹奏楽で使用される楽器では最古参なのである。オーボエファゴットはすべての木管楽器の原型なのであろう。だからこそ、オーボエファゴットを奏する者は、吹けば吹くほどその味わいと悠久の音色に魅せられて、奥深さにのめり込むに違いない。オーボエファゴットは、目立たずとも、吹奏楽に凛としたエッセンスを数滴もたらしてくれる楽器だと思う。不可思議な魅力がある。読めば読むほど、噛み締めればかみしめるほど面白い古典文学の様な楽器なのである。続。

なおすけの平成古寺巡礼 桜川にて

 改元されたので、このシリーズのタイトルも考慮するところだが、平成のうちに訪ねた寺で、あといくつか書いてみたい所があるので今しばし平成古寺巡礼としたい。

平成最後の花見は茨城県桜川市へ出かけた。桜川市はその名のとおり桜の名所で、四周を山や丘陵で囲まれてい、花の頃にはその丘陵に山桜が咲き誇ると云う。その歴史は平安時代にまで遡り、西の吉野、東の桜川と並び称された。紀貫之は桜川の噂を聴いて、憧憬の想いを込めてこう讃歌する。

常よりも春辺になれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ(後撰和歌集

詞書に「桜河といふところありと聴きて」とあるから、余程想いを馳せたのであろう。花筏が絶え間なく水面を流れてゆく様は、春を謳歌する喜びに満ち溢れている。桜川といえば、世阿弥謡曲「桜川」の舞台であるが、古典やお能が好きな人以外にはあまり知られてはいず、静かな花見を期待して出かけた。私は東京から宇都宮線で小山まで行き、水戸線に乗り換えた。桜川市に近づくに連れて、水戸線からも南に筑波山が見えてきた。標高八百メートルほどの山だが、坂東平野の只中にある独立の連山はどこからでも眺められ、名山たるに相応しい崇高さを湛えている。それは北側から見ても変わらない。桜川市に入ると、大和駅岩瀬駅と過ぎ、謡曲の舞台である磯部稲村神社の最寄駅の羽黒駅で下車する。桜川市は平成十七年(2005)に、西茨城郡の岩瀬町、真壁町、大和村が合併して誕生した新しい街だが、歴史の積み重ねられたところというのは、大和とか羽黒という名前からも想像できる。桜川は筑波山を北側から眺め、筑波連山の北に聳える加波山や雨引山の麓にある。言うまでもなく筑波山は、上古より神山と仰がれ、万葉人にも愛された。都より文化果つるところと云われた東国の僻地へ来た防人たちは、崇高なる筑波山を仰ぎ、大和三山二上山、葛城の峰々を望郷したのかもしれない。ゆえに大和という地名も生まれたのではないか。万葉集の東歌は、都人のそれより決してうまいとはいえなくも、素朴な悲哀に溢れ、筑波山を遥拝することが唯一の慰みであったことがひしひしと伝わってくる。

筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布乾さるかも (万葉集巻十四・三三五一)

筑波嶺にかが鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇)

小筑波の嶺ろに月立し逢ひだ夜は多なりぬをまた寝てむかも (同・三三九五)

筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼もかなしけ (同巻二十・四三六九)

やがて筑波山は歌枕の地となって、都におわす天皇にもその名を知られるようになる。百人一首にも選ばれた。

つくばねの峯より落るみなの川こひぞつもりて淵となりぬる (陽成院

陽成天皇は父が清和天皇、母は藤原高子である。わずか九歳で皇位を継がれたが、母の兄藤原基経が摂政となった。天皇は心穏やかなところなく乱行の数々をされたため、在位八年で基経により半ば強引に退位させられた。折りしも藤原北家による摂関政治が強く働き始めた頃で、天皇が乱行されたのも少年ながらに鬱憤が溜まっていたからに違いない。退位後六十五年も長生きされ、大人になるにつれて落ち着きを取り戻されて詩歌を携えて、八十一歳で崩御されたが、亡くなるまで少年期の鬱勃とした気分を拭うことはできずにいたであろう。八十一年の御生涯はあまりに長く、そう思うとこちらの気が遠くなる。天皇は果てしなく遠い、見たこともない筑波嶺に憧憬され、叶うことならば、自由の身となって、自由の大地と想像された坂東へ下りたいと願われたのであろうか。私にはそう思われてならない。

もう二十年以上も前のことだが、筑波山頂から初日の出を拝んだことがある。若かったゆえ寒かったことばかりが思い出されるが、太平洋から霞ヶ浦へ真っ直ぐに尾を引いて昇る旭日に感動した。桜川の有史がだいたい平安頃からと書いたが、実はもっと古く、人々は朝な夕なに筑波嶺や加波山を拝み暮らしたであろう。そもそも筑波連山全体が神域であり、筑波山神社加波山神社をはじめ、連山には古社寺が点在している。一説によれば加波山にも七百以上もの社や祠があり、筑波の修験道筑波山加波山が対であったことを示している。高さは筑波山に僅かに劣るが、秀麗な山容の筑波山よりも、加波山には荒々しいモノが見ゆる。筑波山とて、北側からの眺めは南側から眺めるよりずっと武骨に見える。さらに筑波連山には、坂東三十三観音の札所である雨引観音筑波山大御堂がある。近くに観音巡礼の札所が二つもあるのは、神仏混淆を象徴する霊山であることを示している。先年、坂東三十三観音巡礼でこの地を訪れて、高所にある雨引観音筑波山の大御堂から眼下を眺めた。すぐ近くに茫漠たる霞ヶ浦が湖水を輝かせ、その周りはどこまでも青田が広がっている。広大無辺にも見える坂東平野は、そのまま観音浄土を彷彿とさせた。その時少なからず筑波山周辺が歴史ある場所であることはわかったが、巡礼途上はすべてを廻ること出来なかったので、その後何度かこの辺りを訪ねている。桜川から北東に行くと笠間稲荷があり、親鸞の東国布教の要地であった稲田御坊や北西の栃木県の真岡には専修寺がある。そのあたりのことは前に書いたので省きたい。(2018/3/21の記事参照)

 謡曲「桜川」はいわゆる狂女ものであるが、ハッピーエンドで終わるのは、世阿弥自身が咲く花に淡い望みを見出していたのであろうか。物語をかいつまんで述べる。

日向国の桜の馬場に、母ひとり子ひとりの貧しい家があった。子どもは、桜子(さくらご)という名の少年で、母の労苦に心を痛め、みずから人商人に身を売って母の前から姿を消した。人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、悲しみに心を乱し、泣きながら家を飛び出して、桜子を尋ねる旅に出る。それから三年。桜子は、遠く常陸国の磯辺寺に弟子入りし、美しい稚児として評判となった。春の花盛り、住職は桜子を伴い花見に出かける。折しも桜川のほとりには、長い旅を経た桜子の母がたどり着き、里人の噂となっていた。狂女となった母は、桜川の川面に散る桜の花びらを網で掬うと云い、その姿がたとえようもなく面白いという。里人は住職と桜子にぜひにもその珍しい狂女を見せたいと勧めるので、住職一行は女を花見の席へと招いた。果たして女は、

年を経て花の鏡となる水は 散りかかるをや曇るといふらん 散りぬれば後は芥となる花を 思ひ知らずもまどふ蝶かな

と、古歌を口ずさみながら桜川に流れくる落花を網で掬いあげ、わが子を慕うのであった。住職がわけを聞くと、母は別れた子、桜子に縁のある花を粗末に出来ないと語る。それを聞かされた住職は女と桜子が親子であるとわかるや、哀れに思い、ついに桜子と対面させる。母は正気に戻って嬉し涙を流し、親子は連れ立って日向国へと帰ってゆく。

この物語の舞台が桜川であり、桜子を稚児として迎えた寺は、今の磯部稲村神社の神宮寺とされる。前から気になっていたが、どうせなら花の頃に訪ねたいと思っているうちに数年が経過した。今春、花がほころび始めた頃に「桜川」を観る機会があった。今が好機と翌週出かけたのである。

神社への道すがら、ついでに近くの月山寺という寺に寄る。月山寺は延暦十五年(796)、徳一上人が開いた古刹で、当初は法相宗の道場であった。元は今より少し西へ行った橋本山の麓にあり、中世にはこの地の豪族であった橋本城主谷中氏の菩提寺であった。徳一といえば、最澄と仏法論争を戦わせ、空海にも密教について疑義を示したと云われるが、徳一の生涯は不明の部分も多く、謎に満ちている。しかし平安仏教の双頭にひけをとらない、第三者として私は興味がある。徳一は都から東国へ移り、磐梯山の麓の恵日寺を拠点に会津から東北に布教した。それより前に、まずは坂東に腰を据え北上したのであろう。筑波山麓には徳一開基とされる寺が他にもいくつかあると云う。徳一にとって月山寺は、いわば東国布教の前線基地のような場所ではなかったか。月山寺は室町時代天台宗に改宗したが、修験道が盛んであったこの地では、山伏の崇敬も集めたのであろうし、徳一自身が山岳信仰を厚くしたとも思われる。月山寺はかつては修験者の宿坊であったのかもしれない。徳川時代には朱印六十石を与えられこの地に移転し、天台宗関東八檀林となって隆盛した。思えば、最澄と激論した徳一が開いた寺が、今や天台宗になっているのも不思議だが、日本の寺では、為政者や別の大勢力の介入で改宗することは珍しいことでもない。羽黒駅から北へ歩いて十分少々の月山寺は四季折々の花の寺で、ことに錦秋の紅葉はすばらしいと云う。羽黒に月山、やっぱり出羽三山に肖ったのだ。湯殿の名もないかと探してみたが、見つけることはできなかった。私に見つけられなかっただけで、実は何処かに隠れているのかも知れない。羽黒駅から月山寺へ五分ほど歩くと、俄かに黒雲の塊が現れ、突然冷たい突風が吹いた。瞬くうちに春雷がやってきて、豪雨に見舞われる。傘を持っていたが、何の役にもたたない。真後ろの加波山からも次々に大風が吹いてくる。これが天狗風なのかと思った。ここへ来たことを歓迎しているのか、拒まれているのか。ずぶ濡れになって月山寺の門前に辿り着くと同時に小雨になった。

山門を入りいっぺんでこの寺の虜に。それにしても美しい花の寺。花見客などおらず、鶯や雲雀の囀りが響く境内は静謐さが際立つ。寺の正面には加波山が厳しいながらも秀麗な姿でこちらを睥睨しており、筑波山は南側が正面だろうが、加波山は北側であるこちら側が正面であることがよくわかる。境内は枯山水あり、苔むした庭があり、この時期は青もみじが曇天にも眩い。このあたりには珍しく雅やかな寺である。本堂も実に堂々たる佇まいで、本尊薬師如来をはじめ仏さまも坂東らしくない端正なお姿をしている。本尊は薬師だが、本堂内は三間に区切られていて、過去、現在、未来に別れ、過去に阿弥陀如来、現在に薬師如来、未来には元三大師を祀ってある。境内には常陸七福神の一つ布袋を祀る布袋堂、そこから少し登ると、境内全体を見渡せる高台には観音堂、境内の奥には最澄の巨像と寺宝を蔵する美術館がある。ひときわ目立つのが観音堂で、朱塗りの壁に笠のような大屋根を載せているが、坂東の観音堂に多いスタイルで、似たようなお堂を私は坂東巡礼中に度々目にした。この観音堂は近くの栃木県二宮町にあった長栄寺という寺が廃寺となって、平成十年(1998)にここに移築されたとか。どっしりと立派な観音堂の周りには、これまた立派な枝垂桜があり、ちょうどこの日が盛りであった。北関東にはこんな寺がまだまだ隠れている。

‪月山寺を出ると、嘘の様に空は澄み渡る。桜川の舞台の磯部稲村神社までは歩いて十五分くらいである。長い参道には気持ちの良い桜の公園が広がる。周囲は山桜が自生する丘陵がこの里を包むように連なり、ぽつぽつとぼんぼりの様に咲き始めているのが見える。桜川市が掲げる桜源郷の名に背かない。ここからも加波山雄大な姿が拝めた。神社は参道の奥にしっとりと鎮まっていた。創建は景行天皇四十年(111)とも云われるが、天照大神をはじめ、木花咲耶姫日本武尊など多くの神が合祀されている。神宮寺があったことからみても、古くからこの里の鎮守として崇敬されてきたことは間違いない。そして筑波連峰の北の守護ともされたのであるまいか。筑波山には筑波山神社の摂社で天照大神を祀る稲村神社があり、ここはその里宮の一つとも云える。世阿弥がここを舞台に創作したのは、いうまでもなく桜川という美しい名と、事実この地が桜の名所であったからであろうが、世情に高いアンテナを張り巡らしていた世阿弥は、桜川が信仰厚き神域であることも知っていたのかもしれない。境内には点々と桜があり、ことに本殿前の木はほぼ満開で、本殿の軒端にかかるほど枝を伸ばしている姿が美しい。社を少し降ったところが開けていて、どうもここが神宮寺の跡らしい。ここにも桜の巨木が行列しており、かの桜川匂の古木にも逢えた。桜川匂はこの日はまだ蕾であったが、純白色の花が開くと桜には珍しく強い芳香があると云う。聴けば、この地の里桜や、周囲の高峯や富谷山などの山桜は、地元の人々が皆で桜守になっているそうで私は感動した。北関東は東京よりも花の盛りは遅く、人は疎らで最高のお花見であった。万葉時代から人を惹きつける筑波嶺の麓には、坂東らしからぬ閑雅さと、底知れない歴史の気が漂っている。 

 

皇位継承一践祚一

明日、令和に改元される。新元号漢籍ではなく、万葉集を典拠としたのは個人的にはまことに好ましい。天皇陛下上皇陛下となられ、皇太子殿下が新天皇陛下となられる。上皇とは太上天皇の略称で、天皇の位を譲られると、先帝は上皇となられた。上皇の御座所は仙洞御所と呼ばれる。仙洞御所については前に書いた(2017/6/24)ので詳しくは省くが、仙洞とはすなわち仙人の住む洞穴のことで、統治者として君臨した者は、その地位を退いた後、仙人の如く隠棲するのが理想とされた中国の故事に因む。仙人に見立てられたのは、新帝の相談役として、時に智慧や経験を授ける事を求められたからであろうが、周知のとおり、昔の上皇たちは、隠然たる力を如何なく発揮され、譲位後は院政を敷かれた。寧ろ上皇となられると、玉体としての大きな枷が外れて、何事につけて自由に振る舞われた。上皇は出家なさると法皇と称され、日本仏教界においても一定の影響力を誇示された。白河院後白河院が、叡山や興福寺の山法師から、デモを起こされても、直接攻撃を受けなかったのも頷ける。後水尾天皇は、身体を悪くして灸を据えることを望まれたが、廷臣からは玉体を傷つけることは憚られるとして反対されたため、明正天皇に譲位され、治療を受けられた。と、これはあくまでも口実で、本当は朝廷の押し込めを図ろうとする徳川幕府に対する抵抗であったに違いない。

歴代の皇位継承のシーンで、もっとも苛烈を極めたのは大和朝廷南北朝時代であろう。南北朝については後に述べたいと思うので、まずは大和朝廷皇位継承をさらってみる。聖徳太子亡き後、推古天皇もほどなく崩御されたが、崩御直前まで皇嗣は定まっていなかった。廷臣は聖徳太子の子山背大兄王を推す派と、敏達天皇の子で押坂彦人大兄皇子の子田村皇子を推す派に分かれたが、山背大兄王は田村皇子より若年であったため、田村皇子を皇嗣に立てられた。この頃、崇仏派の蘇我氏の台頭が著しく、蘇我蝦夷が意見を取りまとめたが、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘刀自古郎女で、山背大兄王蝦夷の従兄弟に当たり、反蘇我氏との対立を避けるため、蝦夷は敢えて田村皇子を推挙したとも云われる。蘇我蝦夷はその辺りの気遣いができる人物であったし、未だ聖徳太子の威光は強く、和は尊ばれていた。舒明天皇には中大兄皇子大海人皇子がいたが、未だ幼少のため、舒明崩御の後、皇位の空白を埋めるように皇后が践祚し、皇極女帝となる。上古より皇族間の極めて入り組んだ、いや入り乱れた近親相姦の影響で、皇位継承はますます複雑化してゆく。これを尻目に蘇我氏は増長し、邪魔になった斑鳩宮の山背大兄王を滅ぼすという暴挙に出た。蘇我蝦夷、入鹿親子の権勢は揺るぎないものとなりつつあった。いつしか蘇我氏皇位を狙っているとさえ噂され、事実当人たちも満更でなかったに違いない。そして皇極天皇四年(645)七月十日、飛鳥板蓋宮で乙巳の変が起きた。事変の首謀者は中大兄皇子中臣鎌足で、専横の蘇我氏排斥に成功し、同時に豪族の力を削ぎ、朝廷に権力が集中すべく大化改新が始まる。まさに目の前にてこの大事件を目撃した皇極女帝は失意され、自分の後を中大兄皇子にと考えたが、中大兄は辞退し、結局は異母弟の軽皇子へ譲位された。これが史上初の天皇譲位と云われる。こんな血腥い譲位であったため、軽皇子も始めは固辞されて、古人大兄皇子を推挙するが、古人大兄が蘇我氏の血を引くため、中大兄らに拒絶され、やむなく皇位を継承されて孝徳天皇となられた。こうなってくるとまるで押し付けられた感が強く、もはや天皇となること自体が迷惑な事で、誰しもが身の危険を避けた。武闘派の中大兄ですら固辞したのだから、孝徳天皇の心中は如何許りであったか察するに余りある。が、中大兄が固辞したのは、事変の熱りを冷ましたかったからに他ならず、実権は中大兄にあり、これを鎌足が補弼した。

孝徳天皇は飛鳥より人心を一新して難波宮に遷都されたが、折り合いのつかぬ状態となった中大兄は母たる先帝皇極や公卿百官を引き連れて、飛鳥へ戻ってしまい、一人残された孝徳天皇は恨みを飲んで病死された。ここでもワンクッション起きたかったのか、中大兄は母に再登板を乞い願い、先帝皇極は重祚して斉明天皇となられた。中大兄皇子は自らが天皇となるには、盤石の態勢を欲し、緩急織り交ぜた絶妙の政治センスで、したたかに根を張っていったのである。それには命が懸かっていたわけで、これまでの経緯をよく見ていたからだろう。斉明天皇時代に皇太子となり実権を握りながらも、母帝亡き後もすぐに皇位を継承せず、しばらくは皇太子のまま政務を摂った。正式ではないが実質的に摂政である。もう中大兄の前に政敵はいなかったが、大きな理由として白村江の戦いがあったからであろう。重祚された母を或いは神功皇后に重ねて、武運を肖ったのではなかろうか。しかし結局、白村江は敗戦となり、飛鳥から近江大津京に遷都してからようやく、中大兄皇子天智天皇として即位された。天智天皇の御代から文字通り大和朝廷が発足したと言えよう。大和朝廷はその過程から血腥く始まったが、歴代天皇で名実ともにはっきりとした専制君主となられた最初の天皇天智天皇であった。

今ではあまり聞かれなくなったが、新しい天皇皇位を継承することを践祚(せんそ)と云う。践祚とはすなわち即位でもあるが、古くから使われている言葉は践祚であって、正確には践祚が空白なく天皇の位を継承することで、即位はそれを内外に明らかにして、即位の大礼を執行うことによる意と私は解釈する。践祚の意味は、「宝祚を践む」ことで、宝祚とは皇位のことである。歴代天皇は、先帝が崩御されるか、譲位されると、直ちに践祚の式をあげた。践祚の式は即位礼や大嘗祭までの即位の礼の一環の儀式で、新天皇が最初に臨まれる儀式である。践祚の式では賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀践祚朝見の儀を行う。賢所は皇室の祖たる天照大御神を祀る神殿のことで、現在は皇居内の宮中三殿賢所皇霊殿、神殿)の中心に在る。まずは賢所皇位継承を奉告され、次いで皇祖を祀る皇霊殿と、八百万の神々を祀る神殿に奉告する。そして、剣璽渡御の儀により皇位の証たる三種の神器を継受され、践祚朝見の儀で、関白以下の公卿廷臣を召された。

神宮外苑聖徳記念絵画館は、明治天皇の御一代記を絵画にして展示している。ここに展示されている絵画は、日本人ならば誰しも一度は目にしたことがある有名な絵ばかりで、ことに大政奉還、王政復古、五箇条の御誓文西郷隆盛勝海舟江戸開城談判、廃藩置県岩倉使節団の欧米派遣、憲法発布式などはよく知られている。一枚一枚が縦およそ三メートル、横およそ二メートルもあり、明治天皇の前半生四十枚が日本画、後半生四十枚が西洋画の技法で描かれている。合計八十枚の巨大絵画は圧巻で、幕末明治に関心ある人は感激するであろう。これらの絵画の中に、「践祚」という絵があり、明治天皇践祚の式の様子が描かれている。十四歳で皇位を継承された明治天皇は、この時は未だ髪を角髪(みずら)に結い、紅顔の美少年として描かれているが、眼光は鋭く、時代を切り開く君主たるに相応しい凛々しきお姿である。私には践祚という言葉を聴くと、幼い頃から見てきたこの絵を思い出す。若き天皇の前には、侍従が恭しくかしずいている。御前には神器らしき漆箱のような物が置かれているが、剣璽渡御の儀もしくは践祚朝見の儀の様子で、朝見であればかしずいているのは、最後の関白二条斉敬であろうか。余談だが、神宮外苑は旧青山練兵場で、ここで明治天皇大喪の礼が挙行された。聖徳記念絵画館は葬場殿の跡に建っている。外観は花崗岩、内部は化石も見つかる大理石で造られた美しい建物は、外苑のシンボルであり、銀杏並木の先に浮かぶ姿は誰でも知っているだろうが、中に入ったことのある人は意外に少ない。私はここが好きで何度も訪れているが、中には明治天皇の愛馬金華山号の剥製もあり、在りし日の明治大帝と日本史上もっとも激動の時代であった幕末から明治という時をを大いに偲ぶことができる。

さて、昭和から平成にかけての践祚から三種の神器の継承、朝見の儀までを、当時中学一年であった私の見た記憶で、振り返ってみよう。昭和六十四年一月七日の明け方臨時ニュースが放送された。宮内庁の藤森長官が「天皇陛下には、本日午前六時三十三分、吹上御所において、崩御遊ばされました 謹んで哀悼の意を表します」と発表した。ニュースは同時に、「皇太子明仁親王殿下がただちに皇位を継承され、第百二十五代天皇に即位されました」と報じた。その後、竹下首相による内閣総理大臣謹話があって、小渕官房長官による新元号「平成」が発表された。午後からは宮殿松の間で、剣璽等承継の儀が執り行われた。これがかつての剣璽渡御の儀である。あの日、松の間で儀式に参列したのは男子皇族他、周りはすべて男性であった。当時、剣璽等承継の儀は男性しか立ち会いを許されていなかったが、此度は女性閣僚の参列もあると聴く。しかし此度も皇族は男子のみに限られるらしい。三種の神器とは八咫鏡草薙剣八尺瓊勾玉である。天照大御神から天孫瓊瓊杵命に授けられ、孫の神武天皇から代々へ承継されたとされる。八咫鏡は伊勢の内宮に奉安されており、形代と云う複製が宮中三殿賢所に奉安されている。あとの二種のうち草薙剣熱田神宮に奉安されその形代と、八尺瓊勾玉天皇陛下のお側近く御所の剣璽の間に奉安されている。また剣璽等承継の儀では、天皇の印たる御璽と国の印たる国璽も受け継がれる。御璽や国璽は、天皇が国事行為として行う法律や条約の公文書に署名される際や、勲記授与で押印される。天皇にはその存在の証として、代々三種の神器が伝承されてきた。また皇嗣には壺切御剣(ツボキリノミツルギ)と云う太刀が受け継がれている。平成元年一月九日には、即位後朝見の儀が宮殿松の間で行われた。皇族や三権の長が参列したが、これがかつての践祚朝見の儀にあたる。テレビ中継されて、今上陛下は日本国憲法を守り、我が国の国運の進展、世界平和、福祉の増進を希望され、象徴天皇としての務め果たす旨の意のお言葉を述べられた。明日、令和元年五月一日、松の間において、剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀が行われる。私は再びその時に遭遇するが、平成生まれの皆さん、古えより続くこれからの御即位の儀式をとくと御覧あれ。

先ほど、皇居では憲政史上初の退位礼正殿の儀が行われた。今上陛下の最後のお言葉を胸に刻む。本当に平成はあと数時間で終わるのだ。誠に感慨深い。この感覚は年の瀬の様でまったくそうではない。今を生きる二十一世紀の日本人が、初めて経験する気持ち。この言い様のない不可思議な気持ちを当世の人々と共有している。またこの気持ちは当世の人にしかわかるまい。昭和から平成は天皇崩御と云う暗いムードの中であって、粛々と淡々と経過したが、此度はまったく違う。何せ二百二年ぶりの譲位による践祚であり、世は平成が終わる寂しさと、令和が始まる奉祝の高揚感とが混在した、まさに独特の雰囲気である。昭和から平成を覚えていない人や、まったく知らない平成生まれの皆さんは如何に思っているのだろうか。私とて、これから上皇天皇を戴く時代が始まるかと思うと、様々な想いが胸中を去来し、年甲斐もなく興奮している。今夜は眠れそうもない。

青春譜〜ロングトーン〜

基礎と云うものは、人が何事かを成すにおいて、如何なる場合にも重要である。こんな当たり前の事を、この歳になって痛感させられている。茶道の稽古を始めて三年、お薄の点前は何とか出来るようになったが、なかなか水の流れるようにとはいかない。今はしっかりと型を身につけるべく稽古中。いつの間にか始まって、いつの間にか終わる。そんな自然な点前を、さらりと出来る様になるには、到底未熟であり、生涯かかっても、私は到達することはないかもしれない。しかし、世阿弥も花鏡で説いた「離見の見」と云う心持ちで、己が点前を省みることが、今の私には必要だと思っている。師匠にも自分の点前の足の運び、手の位置、道具の持ち方や扱い方など、基となる型を改めて細く教えていただいている。こちらから尋ねたわけではないが、先生がそのつもりで指導されていることは、弟子にはしっかりと伝わっている。

管楽器を演奏する者にとっても基礎が出来ていないと、後々、苦労することになり、結局は回り道になってしまう。繰り返すがこれはどんな事においても同じである。管楽器の基礎とは、個々の楽器の演奏法、肺活量を鍛える体力作り、腹式呼吸の習得、読譜や暗譜など多岐にわたるが、中学生くらいまでならば吸収力は大きく、間違いなく速い。やってる当人はキツイこともあるが、日々の鍛錬は確実に我が物となってゆく。それが自分でも手に取る如く解るようになれば、もうそれは自分の物となっているだろう。が、一にも二にも基礎である。

管楽器の演奏の基礎中の基礎は、やはりロングトーンに尽きる。ロングトーンとはそのままの意で、管楽器を一音のみ一定の音量で長く深く吹くことである。私の行っていた日々の練習では、楽器を組み立てると、まずマウスピースのみで、ロングトーンタンギング(舌で空気の流れを一時的に遮断し出始めの音を明瞭にする吹奏法)をして、リードを湿らせたり、マウスピースとリードの隙間を調整し、マウスピースと本体を接続して、息の入り加減や、まっすぐに音が出ているか確認する。うまく調整できたらロングトーンを開始する。始めは低い音からロングトーンするのが一般的だろう。徐々に高音域へとロングトーンし、自身の出せる最高音域、或いはその楽器の出せる最高音までロングトーンしたら、今度は最低音まで下がりながらロングトーンする。これを二、三度、時間に余裕がある場合は五、六度繰り返す。さらに季節によっては十度ほどロングトーンすることもあるだろう。こうして、少しずつ楽器を温めて、コンディションを上げてゆくのだ。楽器のコンディションが上がると、奏者と意思疎通が出来るようになる。すなわち求める音が出て、理想の演奏ができるわけだ。ロングトーンは眠っている楽器を覚醒し、奏者と一体化するために、極めて重要なのである。

私も現役の頃、まずは何よりロングトーンの重要さを叩き込まれた。どんなに上達しても、コンクール前の全体練習をするのに時間がなくても、当校当部においてはしっかりとロングトーンすることが課せられた。全部員がそれを当たり前の事として日々守っていた。新入生も楽器を初めて吹く時は、先輩から教わる事は まずロングトーンである。それからタンギングや運指を覚えてゆくのだ。ひととおりロングトーンができたら、クラリネットの場合は、ハ音階などで指を慣らしてゆき、正確な運指となれば、その日楽器と自分とが一体化した証である。ロングトーンは長く、開く、温めるの三つの要素を意識する。長くはできるだけ長く音を伸ばす事。開くは喉を開き腹式呼吸には入る事。温めるは楽器を温める事。思えばロングトーンと云う響きや字面からして、如何にも長く太い音が連想される。

天台宗の祖智顗が禅の心得を説き、それを弟子の慧辯が記した「天台小止観」という禅語録がある。たいへん古い本だが、近頃は心身を整えると云う観点からも密かな人気となっている。止観とは坐禅して瞑想することで、天台小止観によれば、坐禅の体勢を作って瞑想に入る時、身体を寛放せよと説く。寛放とはかんぽうと読み、大雑把にわかりやすく言えばリラックスすることだ。私は心身寛ぎ、緊張を解き放つの意だと解釈している。寛放することは東洋医学の呼吸法(例えばヨガなど)にも応用されている。ロングトーンにもこの寛放すると云う表現が一致すると私は思う。喉を開き、ゆっくりと長く深く息を込める。そうすることで楽器は温まり、奏者の心身も余計な緊張が解れて、良き演奏が出来る。ロングトーンはいわば演奏前のストレッチ。ロングトーンをしっかりして、楽器も奏者も寛放せよ。これからの私は茶道においても、緊張と寛放を絶妙に織り交ぜて参りたい。続。