弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 金勝山の残照

私の旅の最強のナビゲーター白洲正子。白洲さんが此の世を去って二十年が経ち、彼女が見た日本の風景はほとんど消え失せ、一部では悍ましき有り様となってしまった。私は二十数年前、初めて白洲正子の代表作「かくれ里」に出逢い、彼女が日本のかくれ里に取り憑かれたように、私は彼女に取り憑かれた。そして少しずつではあるが、白洲正子の旅の足跡を辿っている。白洲正子の道行きに、私も乗っかってみればハズレはない。好きな事、モノ、そして場所の琴線というものは、まったく人それぞれであるが、時に誰かと一致することもある。白洲さんには迷惑かもしれないが、今のところ白洲正子の旅した場所は、私の好みと完全に一致している。そこへ行けば、かろうじてまだ少し、昔の日本があったりする。気持ちが晴れ、心身明瞭となり、その道中から心踊る風景に出逢える。私が死ぬまでこの追体験は続くであろう。白洲正子の紀行文の中で私がもっとも心惹かれているのが近江のことである。愛読する「かくれ里」や「近江山河抄」で、近江に対する不思議な魅力、或いは魔力と言ってよいかもしれないが、とにかく白洲正子が云う、得体の知れない力と白洲正子に導かれて、私も近江を歩き始めた。此度は、予てより願っていた栗東市の金勝山(コンショウともコンゼとも呼ぶ)を訪ねる機会を得た。金勝山は湖南アルプスにある連山の総称で、主峰は竜王山である。その金勝山中に或る金勝寺に参詣し、さらに山へ深く分け入って狛坂磨崖仏を拝しにゆく。ここを訪ねることは長年の夢であった。

先月、友人F君と宇治の丸久小山園の茶工場に見学に行った帰り、車で国道24号を南下して、山城大橋の東詰を左に折れ、国道307号を宇治田原を経て信楽へと入った。途中の宇治田原も、「かくれ里」に登場する。この辺りもじっくり見て回りたいのだが、今日は時間がない。ただ、一帯の眺めは車窓からでも充分に堪能できた。宇治田原は集落が谷あいにあって、その両側の山の斜面に茶畑が高く低く広がっている。こうした谷あいゆえ、霧が発生しやすく茶の栽培にはまことに適しているのだろう。さすがに名高き茶所らしい景色は、普段から茶の湯に親しみ、さらにはさっき宇治茶の茶工場を見学したせいか、とてもありがたいものに思われた。宇治田原は奈良、近江、京都の古都トライアングルのまさに中心にあって、上古より政治的、軍事的にも重要な通過点であった。同時にトライアングルの中心はいかにも真空地帯であって、隠者のかくれ里に相応しい場所であり、都からも実に程良い距離が、彼らに安寧と、事を冷静に見定める落着を与えたに違いない。信楽焼の狸がそこら中に顔を現し始めた。車は信楽に入ったのだ。狸はあまりに大きすぎて気味が悪いものさえあるが、ユーモラスな姿はご愛嬌。実は狸の置物は明治時代に初めて登場し、有名になるのは戦後だと云う。昭和天皇行幸された際、狸の置物に日の丸を持たせて出迎えたことが、新聞に掲載されて、昭和天皇も大変喜ばれたと云う。このあと爆発的に狸の置物は売れた。それまでは古窯として信楽の焼きものは、明るい渋さで健康的な美を湛えていた。同時にまことに実用的であり、近隣の茶所では茶壷に重宝されたのである。宇治田原から信楽に入るとぱぁっと視界が開け急に明るくなる。明るくなるというのは気のせいかもしれない。信楽も宇治田原と同様、確かに山あいの村に違いないのだが、陰から陽になった心地がするのは、地形的なことよりも、信楽の陶土がそう見せるのかもしれない。実際、削られて露わになった山肌に陽光が射している所が見られるが、日本六古窯の一つたる信楽の陶工たちにも、辺境の山奥にいてこの明るさは救いであったと思う。だからこそ自然釉の信楽の焼きものが湛える静謐な明るさが生まれたのだ。

信楽から金勝山を目指すわけだが、ついでに紫香楽宮跡へ立ち寄る。立ち寄るというよりも、金勝山に登る前に、どうしてもここへ来なくてはいけなかった。ゆえに廻り道をしてもらったのだ。天平十五年(743)、聖武天皇は大仏建立の詔を紫香楽宮にて発せられた。その前十年ほどの間、聖武天皇平城京から恭仁京恭仁京から難波宮難波宮から紫香楽宮へと遷都され、そして再び平城京へ還都された。紫香楽宮に行在されたのは天平十四年(742)からわずか二、三年のことだと云う。奈良の既成勢力や南都仏教から逃れるように遷都を繰り返されたが、やはりここは山奥過ぎたのだろうか。天皇は大仏建立を発願し、良弁僧正に命じて、紫香楽宮にて大仏鋳造と大仏殿の建立を試みたがあえなく断念された。内裏野と呼ばれるここには、今や礎石を残すばかりだが、地形的に見てもどん詰まりで、これ以上広げようもない場所である。一説によれば、ここは内裏ではなく寺のみを建立するつもりではなかったかとも云われる。いずれにしろ都還りしたのは、紫香楽宮が、内裏や大仏殿建立には物理的にも困難であったための止む無い選択であろう。ここは王都を築く地ではなく、隠居して俗世を離れて隠れ棲む場所にはいかにも相応しい。が、聖武天皇は隠棲したい心とは裏腹に、どうしても王権を手放すことが出来なかった。紫香楽宮に残る礎石たちは黙して語らないが、聖武天皇の忸怩たる想いを宿している。それは紫香楽宮全体に漂っている。

紫香楽宮をあとにして車は北東へ。新名神高速を潜り、いよいよ金勝山を登る。ヘアピンカーブを幾度も曲がり登ってゆくと、やがて金勝寺の石碑が現れた。寺は金勝山の中腹にある。拝観料を納めて、参道に立った。苔むした低い石垣が両側にあって、その真ん中を、柔らかくゆったりとした絶妙の傾斜の石段が、まっすぐ本堂まで続いている。あたりには杉の大木が亭々と聳え、風の音と鳥の囀りが時々聴こえる他は、静寂である。想像どおりのいかにも古寺と云った寂びた佇まいにすっかり魅了された私は、しばし足を止めて、ついにこの寺へ来られたとの感慨に浸った。金勝寺は私を心中より充たしてくれた。金勝寺の歴史は古く、天平五年(733)聖武天皇の勅願により、東大寺初代別当の良弁僧正が開基した。金勝山は平城京紫香楽宮の東北鬼門にあたり、その鎮護の寺とされたのである。良弁は伝説的な人で実在を怪しむ声もあると云うが、近江や東大寺にあれだけ足跡が残っているのをみれば、実在であると考えるのが自然ではないか。一説によれば、良弁は百済帰化人の子孫とも云われ、帰化人を統率し、建築や石工など、その技術力を存分に活かして、東大寺と大仏鋳造を請け負ったと云う。良弁はまず土木事務所として石山寺を建立し、そこから程近い、金勝山一帯に目をつけた。良質な材木、石材、土、銅や錫にも恵まれた場所として、金にも勝る山と思ったのは、或いは良弁であったかもしれない。その後金勝寺は、興福寺の傘下になり法相宗近江二十五別院を統括し、一時は大菩薩寺と呼ばれた。平安時代になって天台宗に改宗したが、依然として朝廷から崇敬され、国家鎮護の加持祈祷や、勅願寺として重きをなした。金勝寺は往時は大伽藍であったのだろうが、今は慎ましい本堂、二月堂、仁王門、虚空蔵菩薩堂が点々と建っているだけだ。しかしそれらの堂宇はいずれもこの山寺に相応しく思えた。この感じだからゆえに、人麻呂の近江望郷の歌の「いにしえ思ほゆ」という想念に駆られるのである。金勝寺は本尊の釈迦如来虚空蔵菩薩毘沙門天と古い仏像群も素晴らしい。なかで二月堂に安置される軍荼利明王は圧巻である。四メートル近くもある檜の一木造りで、一面八臂で怒髪天を突いている。白洲さんの文章のとおり、物凄い形相で見下ろしていた。さしもの大寺も今は閑散としているが、深山の気、風の音、春を先取りする鳥の声が充満し、寧ろそれが清々しくて、すべてにおいて、忘れがたき寺となった。

金勝寺からさらに登ってゆくと、馬頭観音堂があって、どうやらこの先、車は行き止まりで狭い駐車場になっている。この駐車場から北側が開けており、蒲生野が一望できるが、後にもっと眺めの良い場所があるので、眺望は後ほど述べよう。駐車場の裏手の傍道から尾根伝いに上下しながら狛坂廃寺を目指す。先に述べたとおり、竜王山を主峰としたこの辺りの峰々を総称して金勝山と呼ぶ。渡辺守順氏の「近江の伝説」によれば、竜王の名は、良弁が金勝寺を建立前に七日七晩読経し、祈祷が終わろうとした時、横に一人の女が首を垂れて座っていた。女は良弁に天に住んでいたが、鵬の迫害にあって地上に降りたが、安住の地が欲しいと悩みを打ち明ける。とその時、ザーッと云う轟音ともに紅蓮の火の玉が二つ輝いたかと思うと、大蛇がとぐろを巻いて現れた。良弁は竜王だと直感し、念珠を握って打ちかかった。すると大蛇は再び女の姿になり、自らは八大竜王である。この山に住まわせて欲しいと良弁に願う。良弁は願いを聞き入れて、金勝山西の山頂に祠を建て、竜王を祀った。以来、金勝山の鎮守たる主峰として辺りを睥睨している。今も竜王山の頂にはささやかな祠がある。

金勝山一帯は石の山で、狛坂廃寺への道のりは至る所に巨巌巨石が溢れている。白洲さんがこの巨巌群を見て「素晴らしいというより凄まじい。日本に石が少ないと言われるのは、こういう景色を見たことがない人だろう。」と表現されたことがよくわかる。近江は石の都なのである。金勝山は金勝寺を中心とした山で、往時を偲ぶ仏教遺跡もまた多い。狛坂廃寺も、今は石仏が散在する遺跡であるが、かつては金勝寺の別院であったらしい。かつて金勝山は女人禁制であったが、女人は狛坂寺までは登ることを許されていた。昔はこうした場所があちこちにあり、室生寺高野山の女人堂とも通ずる。また、金とか狛という名があるのも、大陸からの渡来人、帰化人の文化が浸透していたことを語っている。 途中、茶沸かし観音と云う小さな石仏があった。鎌倉頃の作と云うが定かではない。が、茶沸かしと云う名はとても親近感が湧いてくる。昔はここらで一服したのであろうか。金勝寺とは反対側の桐生から登ってくると有名な逆さ観音がある。土砂崩れか廃仏棄釈の嵐に巻き込まれたのか知らないが、金勝山にはこうした石仏が無数にあると云う。今回は時間がなくて桐生の方へは廻れなかったが、いつかまた反対側からも登ってみたい。

茶沸かし観音に手を合わせ、さらに奥へ進もうとした矢先、F君が窪みに躓いた。足を捻った様で苦悶する。断念するか、彼にはここで休んでいてもらい、私一人で先へ行くか迷ったが、彼は立ち上がり同行すると言った。無理はしないでほしかったが、ここまで来たからには私も彼もどうしても、磨崖仏を拝みたい。あの時私たちは、どうも無心になっていた気がする。

私たちは金勝山を彷徨った。入口から一時間歩を進めるが、行けども行けども狛坂廃寺には辿りつかない。山を登って、降って、また登る。巨巌群の中をすり抜け、潜り抜け、沢を越えてゆく。よもや道を誤ったかと心細くなって、引き返そうかと思った時、藪の向こうにとうとう狛坂磨崖仏を見つけた。私は思わず「嗚呼!」と叫び、足を引きずりながら付いてきてくれたF君と握手した。この道程ゆえ、感涙しそうになるほど嬉しかったのだ。磨崖仏はとてつもなく大きいもので、ただただありがたく圧倒される。

白洲正子は狛坂磨崖仏をこう評する。私の稚拙な表現よりもはるかに崇高で的確な文章なので引用する。

「磨崖仏は聴きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のある石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中に、山全体を台座とし、その上にどっしり居座った感じである。」

この文章を読んでから、ずっとお逢いしたかった。お逢いしてみて、ただ言葉を継げぬとはこうした経験をした時であると改めて知った。狛坂磨崖仏はまことに気品に満ちた姿で、千年以上もあの場所に坐している。女人禁制の金勝山で、ここまで来れた昔の女性たちは、私の様に感涙し、伏し拝んだであろう。その心まで宿って、あれほどに洗練された姿に、ごく自然になったのではあるまいか。方々で石仏を拝んできたが、狛坂磨崖仏は、私にとっては石仏の王に見えた。ついに私も、石仏の王に謁見を果たしたのだった。

磨崖仏を拝して、再び元来た道を一時間かけて戻る。行きはよいよい、帰りは怖い。息を切らせながら、また昇り降りをする。幸いF君の足取りはしっかりとしている。途中の国見岩からの眺めは格別であった。北には蒲生野の彼方に三上山、南には信楽鈴鹿の重畳とした山々がどこまでも続き、西には春霞に沈む琵琶湖、その向こうには比叡山が朧気に見えている。国見の名に違わぬ雄大な眺めである。おかげで疲れは吹き飛んだ。春の夕陽が少しずつ西へと落ちてゆく中、後ろ髪を引かれながら、金勝山を降りた。F君はケガをおして私に付き合ってくれたが、夜には腫れてしまい、今もまだ完治せずとか。無理を強いて申し訳ないことをしたと、この場にても謝りたい。が、あの日我々が眺めた金勝山からの景色と残照は生涯忘れまい。それはきっとF君も同意であろうと信じている。私の平成古寺巡礼もここ金勝山に極まれり。

皇位継承一改元一

今上陛下は第百二十五代天皇である。現在の皇室典範には、天皇は男系男子が皇位を継承すると明記されているため、女性が皇位を継承することは出来ないが、秋篠宮悠仁親王様が御誕生になるまでは、天皇家に次の次の代に男子がおられないため、女性天皇即位に向けた議論が活発であった。議論は今や立ち消えとなったが、いずれこの問題は避けては通れまいと思う。確かに天皇家の歴史を重んずれば、男系を絶やすことは望ましくないが、今上陛下と皇族方が、現代の皇室像と云うものを丹念に築かれた上、此度の御退位という御聖断をされた以上、我々国民もその御意志を尊び、今に生きる我等の象徴としての天皇と皇室を支えなくてはならないと思う。

天皇百二十五代のうち十代八人が女性である。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町の十代だが、八人であるのは、皇極天皇孝謙天皇は一度退位し、再び斉明天皇称徳天皇として即位したからである。これを重祚と云う。女性天皇はヒメノミコトとかヒメノスメラミコトと称されたが、女帝と云う言葉が現代人には馴染んでいる。最初の女帝推古天皇は、欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の娘堅塩姫(きたしひめ)。推古天皇は、用明天皇の同母妹であり、敏達天皇の異母妹であり、崇峻天皇の異母姉にあたる。敏達天皇が皇太子時代に妃となり、敏達天皇即位後に前皇后広姫の薨去に伴い、二十三歳で皇后に冊立された。三十二歳の時、敏達天皇崩御され皇太后となる。その後、兄の用明、弟の崇峻が皇位を継承したが、世情不安定で、いずれも短い間に不慮の死をとげられた。皇位を巡る争いはまさしく骨肉の争奪戦となり、まことに熾烈を極めた。この時すぐ様皇位を継承をできる男子がおらず、父が天皇である推古天皇が男系を継げる唯一の方であったため、三十九歳で日本史上初の女帝となられた。推古天皇は聡明で美しき女性であったと云う。無論のこと女帝擁立は急場しのぎの一時的な措置であったはずだが、ブレーンもしっかりしていたのか、推古天皇の御世は三十六年続く。推古天皇は即位すると、甥の厩戸皇子を皇太子にされ、太子は摂政となられ推古朝を支えた。聖徳太子は仏教を重んじ、「厚く三宝を敬え」と説き、十七条の憲法、冠位十二階を定め、遣隋使を派遣、律令国家の礎を築かれた。自らが皇位を継承されることはなかったが、その影響と足跡は推古天皇よりはるかに大きく、後に太子信仰も起きるほど、日本人には特別な偉人として祀り上げられている。聖徳太子が皇族ながらここまで日本人を惹きつけてしまうのは、仏教と深く結びついていたことと、太子がとても人間らしいからである。聖徳太子には数々の伝説があるが、後の日本仏教祖師たちに崇拝され、あたかも釈迦の生まれ変わりの如き存在となった。さらに太子は摂政として実際に政治を司り、具体的に政策を実現していった。律令国家とはすなわち日本と云う国家が形になった第一歩であるが、それを築かれたのは紛れもなく聖徳太子であった。初代摂政は神功皇后ともされるが、明確に文書に顕れるのは聖徳太子からである。推古朝は法隆寺に代表される飛鳥文化の最盛期であり、神代から古代へとバトンタッチされた瞬間であったといえよう。聖徳太子推古天皇より先に亡くなり、その後、崇仏派の蘇我氏が台頭するのも、太子の目指した仏国土が土台となったのである。

まもなく新しい元号が公表される。果たしてどんな元号になるのか。多くの国民の気になるところ。さすがに平成最後の云々にはいささか飽いてしまった。京の都で暮らす冷泉貴美子さんは、日本中が改元に沸き返っても静観しておられる。冷泉さんは「元号が変わるからといって、特別何にも変わりません。」と言う。これが千年培われてきた都人の言葉。泰然自若とした誇りと、何にでも一喜一憂する現代の日本人とは一線を画しますと云う京都人の冷めた見栄が感じられるが、それが私には好印象である。桓武天皇以来、幾たびも皇位継承を近くで見てきたのは京都人だ。ましてや近習廷臣の公家ともなれば宜なるかな冷泉家は俊成や定家に遡る歌人の家である。定家筆の古今和歌集後撰和歌集、明月記を受け継いできた。明治維新天皇が東京へ行幸され、禁裏を取り巻く公家衆もほとんどが付き従ったが、冷泉家は御文庫の保守のために京にとどまった。おかげで幕末に再建された冷泉家屋敷は残り、洛中に残る唯一の公家屋敷として貴重な遺構となっている。その屋敷に冷泉家は今も暮らしており、時雨亭文庫として王朝の歌の家、和歌守としての役割を果たしている。

冷泉さんの様な考え方をされている京都人は多い。洛中洛外の名刹禅刹の坊様方、茶の湯の家元、何百年も続く老舗の主人や職人など、名うての京都人には、もはや一度や二度の改元は、特別なものではないように映る。この一年、平成最後と云う言葉を頻りに聞いた。かく言う私も託けてよく使ったし、このブログでも平成古寺巡礼と題した寺参詣記を書いてきた。しかし、冷泉さんのように京都人にとっては改元も日常の通過点で、新天皇の即位はハレでも、改元はケなのである。

元号は年号とも云う。徳川時代までは年号と呼ばれる方が一般であった。元号の起源は、中国前漢時代、武帝が治めし建元元年(紀元前140)に遡る。隋時代に日本でも元号が知られるようになり、孝徳天皇の御世すなわち大化より元号を用いた。中大兄皇子中臣鎌足乙巳の変蘇我氏を倒し、変後、天皇中心の中央集権国家の樹立を目指した大化の改新が始まる。大化とはいかにも中国的な元号だが、元正倉院事務所長で、「歴代天皇年号事典」の著者米田雄介氏によれば、大化とは「天皇の大きな徳により人民を感化するの意味ではないかと思われる」と云う。大帝国隋の脅威に備えるには、一日も早い中央集権国家の完成を目指し、遣隋使と交流した隋人に、日本と云う国が高度な文明を育んでいることを示すことが必要であった。また、隋の見習うべきところは積極的に見習う姿勢は、恭順の意を示しながらも、まことにしたたかであったと思う。日本では公式な元号としては大化にはじまり、白雉や朱鳥を経てしばらくは途絶えたが、律令制が一応の完成をみる大宝より今日の平成に至るまで続いている。時には白鳳など公式ではない私年号が出てくる時代があるが、私年号は、時の反政府勢力などが、公式とは別に編み出した年号である。それでも白鳳文化と呼ばれるように、白雉や朱鳥よりも白鳳の方が今日広く浸透したのは、まさしく文化のなせる業で、日本人が美に覚醒した瞬間である白鳳時代が、日本文化のビッグバンであった所以であろう。結局、政治よりも文化が勝ったのである。

元号は二字が基本だが、定めはないらしい。これまで聖武孝謙淳仁、称徳時代に四字の元号が、天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲まで五度あったのみで、あとはすべて二字である。そもそも型や形式を重んずるわりに、一方で何でも略式を好む日本人は、あまり長い元号を用いるのは避けたはずだ。大化から数えれば平成まで二百三十一。これは明治天皇南朝が正統と定められたゆえの数で、北朝を加うれば、二百四十七である。元号は昭和が六十四年ともっとも長く、次いで四十五年の明治、三十五年の応永、三十一年の平成、二十五年の延暦の順。もっとも短いのは鎌倉中期の暦仁で僅か二ヶ月であった。明治に一世一元の詔が出され、天皇一代につき一元号と定められる。新天皇践祚に合わせて新しい元号となる即日改元とされたが、平成は翌日改元であった。昭和六十三年秋、天皇の御容態は芳しからざる状態となられ、政府は密かに有識者を交え、改元に向けた新元号の検討に入ったと云う。こうした動きはトップシークレットで、当時は一切漏洩することはなかった。明治以前は天皇が代替わりしても必ずしも改元しないこともあった。やはり政治情勢の動きがもっとも影響したと思われる。改元のきっかけとしては時代により異なるが、奈良時代頃までは、美しい雲や珍しい亀が現れるとめでたい事の前触れであるとされ、これがいわゆる瑞祥で、肖って霊亀神亀神護景雲改元した。白雉には白い雉が現れ、朱鳥には朱い鳥が現れたのであろうか。平安時代以降になると、天変地異が多発して、人々はそれを魑魅魍魎や怨霊の仕業であるとし、鎮護国家や怨霊調伏のために改元するようになる。また元寇や黒船来航など外圧に対しても改元している。わかりやすい例で言えば、後醍醐天皇の御世は元応、元亨、正中、嘉暦、元徳、元弘、建武、延元と八度改元され、孝明天皇の御世は嘉永安政、万延、文久、元治、慶応と六度改元している。ややこしいのは南北朝時代である。何せ六十年有余年の間、両統迭立であったこの時代、南朝北朝それぞれに元号があった。王朝が二分したことは、日本史上において極めて特異なことであり、皇位継承はそれこそ命がけであったのである。後醍醐天皇は各地に皇子を派遣したが、北陸では当地に派遣された皇太子恒良親王に譲位することで、北朝方との和睦を試みるのだが、この時北陸では恒良親王を新帝と奉じて白鹿(はくろく)と云う私年号が使われている。この時代の混沌とした様は、戦国時代以上であったかも知れない。南北朝時代についてはいずれまた後述したいと思う。

いずれにしろ明治以前、人には計り知れない出来事や、風雲急を告げる事が起こると度々改元したのである。朝廷や時の為政者にとっては改元がゲン担ぎでもあり、危難避けや気分一新の手段として、かなり重要とされたことは確かである。一方、明治より前の庶民にとっては、元号改元などほとんど知らぬことではなかったか。庶民が気にしたのは元号よりも暦であろう。無論旧暦であるが、生活に直接関わる暦は、徳川時代には広く深く庶民にも浸透していた。辛酉(かのととり)や甲子(きのえね)の年は、世に変革が起こると云う思想から、辛酉革命とか甲子革令といわれ平安時代以降は改元された。辛酉の年は昌泰から延喜に改元されて以来明治まで必ず改元している。甲子の年は応和から康保に改元して以来、永禄七年(1564)を除き、改元している。いかに辛酉と甲子の年が、昔の人々の気に病む年であったのかがよくわかるが、このことも庶民はあまり知らなかったのではないかと思う。

 私は昭和五十年の生まれ。改元は二度目であり、三代の天皇を仰ぐことになる。四代はあるであろうか。いずれにしろ時代の節目として、此度の践祚改元にあたり、やや緊張感を持って、しかし京都人のようにどっしりとその時を迎えるつもりである。ちなみに私の祖母は大正六年の生まれ。御年百一歳。大正、昭和、平成と生きて、此度四代の天皇を仰ぐ。

青春譜〜アンコン〜

吹奏楽連盟が主催する競技会は、夏から始まる吹奏楽コンクール(本戦は秋)、秋から始まるマーチングコンテスト(本戦は晩秋)、そして冬に始まるアンサンブルコンテストで、これが三大大会とされる。此度はアンサンブルコンテストについて。

アンサンブルコンテストは、吹奏楽コンクールやマーチングコンテストが終わり、最上級生が引退をした十二月から予選が始まる。全国大会は三月に毎年会場を変えて全国各地(支部の持ち回り)で行われている。四十二回目となる今年の舞台は札幌コンサートホールKitaraで本日開催される。アンサンブルコンテストは吹奏楽に携わる者にはアンコンと呼ばれたりする。周知のとおりアンサンブルとは重奏のことで、コンテストでは小編成、小合奏にて演奏スキル、ハーモニー、表現力を競い合う。第一回は、昭和五十二年(1977)に開かれた。一編成は三人から八人で、基本的に木管木管のみ、金管金管のみである。木管金管混合と云う編成もあるのか私は知らないが、たとえばクラリネット五重奏など、同楽器同パートのみという場合が最も多い編成ではないかと思う。無論指揮者は立てない。制限時間は五分で、タイムオーバーは失格である。審査は概ね吹奏楽コンクールと似た審査方法で、金賞、銀賞、銅賞で評価される。アンコンを目指す団体、学校は吹コンやマーチングほど多くはないが、各個人やパートの技術力、表現力、そして団結力の向上には、まことに有効な手段である。一月にも書いたが、十二月から新入生が入ってくる四月まで、在部員にとっては己がスキルアップに励む時。オフシーズンにプロ野球選手がキャンプで基礎体力作りから始めて、一年間戦える心技体を培うことと似ている。アンコンはその成果を課題として挑戦できるので、若い人たちはもっと積極的にチャレンジしてほしい。

 私がクラリネットの演奏をライブで聴いたのは、高校生の従兄弟が出場したアンサンブルコンテストであった。朧げな記憶であるが、確か小学一年か、二年であったと思う。クラリネット三重奏か五重奏で、従兄弟は1stであった。余談だが、私の親戚はブラスバンド経験者が多い。妹はマーチングコンテスト常連校のトロンボーン、一つ上の従兄弟はパーカッション、一つ下の従姉妹がクラリネット、そして我らの先駆けが私がアンコンを見に行った歳の離れた従兄弟で、その嫁さんもやはりクラリネットである。私には子供はいないが、吹奏楽経験者の従兄弟の子や、吹奏楽経験のない従姉妹の子供達も今では中高で吹奏楽部に在籍しているらしいので、その気になれば一家で楽団ができるかもしれない。実際、昔、我らがバリバリの現役時代はよく親戚で集まってアンサンブルしたものであった。音楽一家と云うほど大げさなモノではないが、他にもヴァイオリンやピアノに達者な者や、和太鼓を嗜む親戚もいたりする。存外楽器を演奏したり、皆でカラオケ大会をしたりと、歌や音楽が好きな一族ではある。話を戻すが、年長の従兄弟のアンコンは少人数ゆえの、まことに緊張感溢れるステージであったことは鮮明に覚えている。私が見に行ったのは地区大会だろうが、確か金賞であった。演奏スキルとか曲目は知らない。が、あの張り詰めた空気を、切り裂く一音は、どの音と特定できずとも、今も耳に残っているのである。初体験とは大きいものだ。幼い私に強烈な印象を残した。 それが成長した私を吹奏楽の舞台へと誘うきっかけのひとつとなった。

残念ながら私はアンコンに出場出来なかった。クラリネット五重奏で校内予選に挑み、最終予選まで残ったが、我がクラリネットパートは出場見送りとなり、金管五重奏が地区大会へ出場、九州大会まで駒を進めた。私のクラリネットのレベルが知れようが、全日本アンコンに出場するチームなどは、まことにプロ級の演奏する。彼らくらいのレベルならば、中にはいずれプロのオケや吹奏楽団からスカウトもあるだろうし、あるいはソロアーティストとして活躍する人が生まれるであろう。吹奏楽コンクールの話でも書いたが、アマチュアの大会とはいえ、全日本クラスになると、途轍もない演奏をする人や、チーム、団体があって、まさに神懸かりで聴衆を魅了する。少人数で演奏するアンコンは、吹コンやマーチング以上に、奏者の一人ひとりに注視するため、音もブレスもしっかりと聴こえる。演奏前のあのシンと静まり返った会場の雰囲気はなんとも言えない。奏者も聴衆も緊張はピークに達する。そのしじまを切り裂く一音にすべての魂が込められると言って良いだろう。あの感じはあの場に居合わせないとわからないだろうが、フィギュアスケートの演技前に良く似ている。 いずれにしても、こうした舞台での経験ほど、自身のスキルアップに繋がるモノはなく、何事とも同じく、百の練習より一の本番である。が、一の本番を成功とするには、百千万の練習を要する。これも何事とも同じで、吹奏楽もアンコンもまた然りである。

なおすけの平成古寺巡礼 青蓮院門跡

名刹数多の京都東山。そこに在る寺々は季節ごとにその表情を変えるから、何度歩いても飽くことはない。古都が醸成した高貴なる威厳を湛えながらも、楚々とした情趣の寺が多い。その趣きは東山の懐に抱かれ育まれた。東山の寺は京都にしか現出しないだろう。ゆえに古今人々を惹きつけるのだ。 知恩院の巨大な山門を仰ぎつつ北へ歩くと、程なく青蓮院である。門前は立派な石垣と美しい白壁に覆われてい、まるで城塞の様。知恩院と同じく衛は堅固である。知恩院とは地続きであるが、入山せねば中を伺うことは出来ない。表の厳しさに比して、山内は密やかな門跡寺院らしい佇まいで、境内全体に秘めたる御簾の中といった雰囲気が漂う。この雰囲気はかつて粟田御所と呼ばれた頃から、あまり変わってはいないはずで、一朝一夕で成るものではない。

初めて青蓮院を訪ねたのは、数年前の秋の夜間拝観であった。平成の京都では春や秋に寺社の境内でライトアップが盛んである。特に紅葉の秋、東山では東福寺清水寺高台寺知恩院永観堂などが挙ってライトアップを催し、今や秋の京都観光の目玉になった。青蓮院はライトアップの先駆けで、昨年秋で通算四十五回開催しているが、その趣向は一風変わっている。よその寺院は紅葉を中心にライトアップし、暖色系の灯りで堂塔伽藍を照らしたり、プロジェクションマッピングを駆使して華やかに演出して度肝を抜いてくれる。一方青蓮院のライトアップは、LEDの柔らかい小さなブルーライトを庭じゅう無数に配し、蛍の様に明滅する仕掛けである。そして一本だけ、青いサーチライトが天高く伸びている。青を基調としているのも珍しいが、本尊を守護する青不動や、寺名から連想してこういう趣向なのであろう。夜の帳が下りると、青蓮院の境内は紺碧海になる。堂宇は夜舟か浮御堂に見えてくる。仄かな明かりはまことに静かで、よそのライトアップとはまったく一線を画している。ライトアップには賛否あるだろうが、私は現代人が寺社へ参詣する理由のひとつとして悪いとは思わない。寺社の懐も潤い、寺社が存続するには手段を選ぶことも必要であろう。その手段がどういうやり方であるかは、寺社が決めることであり、守りに入るか、攻めに出るかも寺社の自己責任である。私たちがそれをどう受け止めて、賛否するかもまた自由である。少なくとも今現在、寺社のこうした試みについて私自身は賛成である。実はライトアップよりも、普段はなかなか観ることの出来ない夜の寺を訪れる機会に恵まれることが、何よりも嬉しい。初めて青蓮院を訪ねたあの夜があまりに幻想的で、それで満足し、その後しばらく遠ざかったが、いっぺん日中の青蓮院も観たいと思ってはいた。昨年秋、将軍塚青龍殿へ参詣する折、まずは青蓮院を再訪することにした。

 京都にはいくつかの門跡寺院がある。中で天台宗の京都三門跡が、三千院妙法院、そして青蓮院である。周知のとおり門跡寺院は、かつて皇室や摂関家の子弟が門主を務めていた寺である。伝教大師最澄は、比叡山にいくつかの僧坊を営んだが、その一つの東塔南谷にあった青蓮坊が青蓮院の起源と云う。「青蓮」とは仏の目の美しさの形容である。最澄から円仁、安恵、相応と延暦寺の法灯を継いだ者が青蓮坊を伝承した。第十二代行玄の時、鳥羽院の帰依を受けて、十三歳の第七皇子が行玄の弟子になる。皇子は得度し覚快法親王となられた。以来、皇室と縁が出来た。鳥羽院の寵妃美福門院が殿舎を寄進し、青蓮院と名を改めて門跡寺院となったのである。一世門主が行玄、二世が覚快法親王、以後明治になるまで門主は皇族か五摂家、一時期の室町将軍家の子弟に限られ、とても格式の高い寺であった。余談だが室町六代将軍足利義教は、元は天台座主たる義円で、四代義持の四人の弟の一人である。義持の死後、息子の五代義量はすでに亡く、六代将軍の座は義持四人の弟がくじ引きで決めた。当たりを引いたのが義円で、還俗して義宣と名を改め(後に義教に改名)六代将軍となった。話を戻すが、行玄が洛中から参拝容易なこの地に青蓮院を降ろし、青蓮院は粟田御所とも別称された。山上の青蓮坊は山上御本坊と呼ばれ、室町時代までは門主が叡山に登った折の住坊とされた。東山は昔からの景勝地で、平安貴族が競って住んだと云うから、この場所の誘致は比較的容易ではなかったかと思う。青蓮院の北東には、貞観十八年(876)創建の粟田神社が鎮座する。粟田口は京の七口のひとつで、粟田神社は古くから旅立ちの守護神として崇敬されているが、寺がここへ降りてからは、青蓮院すなわち粟田御所の鬼門封じも兼ねたのではあるまいか。先日、粟田神社へ参詣したが、高台にあってまことに気持ちのよい場所であった。眼下には岡崎の町並みが広がり、その向こうには黒谷や吉田山がこちらをわずかに見下ろし、さらに仰げば比叡山。青蓮院との位置関係からもあながち間違いではない気がする。

青蓮院の本尊は熾盛光如来曼荼羅である。熾盛光如来(じしょうこうにょらい)は大日如来仏頂尊で、仏の智恵と光を発するほとけさま。熾盛光如来を本尊として祀る寺は珍しく、私は青蓮院以外には知らない。台蜜では熾盛光大法なる修法があり、嘉祥三年(850)に慈覚大師によって鎮護国家を目的に始められた。熾盛光大法は天台宗にとって最も重要な修法のひとつとされる。その熾盛光如来を守護するのが、不動明王である。青不動が青蓮院の本尊と思われがちで、私もここへ来るまではそう思っていた。熾盛光如来は小高いところ慎ましく建つ本堂に祀られている。以前は国宝青不動の複製が本尊と背中合わせで祀られていた。今、国宝の青不動は将軍塚青龍殿へ安置され、この本堂に祀られていた複製も、青龍殿の御前立となっている。青不動はこの本堂の背後のずっと高みから熾盛光如来と洛中を守護している。青蓮院の青不動は、高野山の赤不動、三井寺の黄不動と併せて日本三大不動画とされる。青蓮院をイメージするとき、まず思い浮かぶのはやっぱり青不動である。密教不動明王は青、黄、赤、白、黒の五色で表されるが、中で青不動はその中心に在って、大日如来の化身ともされ最上位と云う。青蓮院の青不動は藤原中期に描かれた仏画で、不動明王の象徴たる火焔渦巻く中、右手に三鈷剣を持ち、左手には羂策をさげ、岩坐に座し憤怒の形相で見下ろしている。脇待として右に矜伽羅童子、左に制叱加童子を従えている。番茶色の背景、火焔と両脇待が変化のある朱色で良い差し色となり、それにゆえに不動明王の鮮やかな青がまことに映えるのだ。すべてが絶妙な配色。そもそもは不動明王を礼拝する仏画であり、その荘厳さはまったく信仰の対象となったに違いないが、美術品として見ても傑作だと思う。青不動は仏画の枠を超越した美しさで、見る者を物凄い迫力で圧倒するのだ。

青蓮院の門前には二本の巨大な楠木が、あたかも寺を守護する仁王のように大体躯で枝を広げている。山門に入ってすぐに堂宇は見えず、右手の坂を登ってゆくと、宸殿の大玄関に達する。山門の左手奥には植髪堂が建っていて、ここには親鸞聖人の剃髪が祀られている。青蓮院は天台宗門跡寺院だが、浄土真宗の祖親鸞を奉じるのは、親鸞がこの地で得度したからであろう。東山には法然親鸞の足跡が多い。元は叡山で修行した彼らが、叡山では己が仏道を探せないでいて、悶々としていた。彼らが山を下りてまず活動を始めたのが東山であった。ずっと後に蓮如もここで得度したから真宗とは殊の外深い縁がある。親鸞は下級貴族の日野氏に生まれ、九歳で叡山へ登った。叡山での師が当時青蓮院の門主であった慈円である。ここで注目すべきはやはり慈円のことであろう。慈円は「玉葉」を著した関白九条兼実の弟で、幼いときに青蓮院に入寺し、仁安二年(1167)天台座主明雲について受戒した。そして叡山の道の真ん中を歩いてゆく。青蓮院を託されたため吉水僧正とも呼ばれた。慈円摂関家から絶大な庇護を受けて、四度も天台座主になり、青蓮院も隆盛してゆく。青蓮院が以後も門跡寺院としての格式を保ち続けてゆく由縁をつくったのが、他ならぬ慈円なのであった。慈円は、史論書「愚管抄」を著し、歌人としても「拾玉集」をまとめている。教養と詩歌に長けた、当代随一の知の巨人であった。天台座主として叡山、僧兵を率いているにも関わらず、奢り高ぶることはなく、法然親鸞が叡山を下りて、己が仏道に進んでもそれを庇護している。このあたりが摂家出身者の面目躍如で、極端に事を荒立てるのを好まなかった性格と思われる。慈円は吉水にあった青蓮院の一坊を法然に与えた。それが後に知恩院に発展し今や京都屈指の大伽藍になった。また大谷には親鸞の祖廟があるが、ここが本願寺の起こりともされている。江戸期までの本願寺門主は、青蓮院で得度しなければならず、一時本願寺が、門跡とか脇門跡と呼ばれたのも、青蓮院が深く関わっていたからなのである。だが、時代を経ての趨勢は不思議なもので、今や青蓮院は知恩院や東西本願寺に、伽藍も信徒数も遠く及ばない。寧ろそこに慈円の魂が生きている気がする。自分の出自をひけらかさず、天台座主としても力を誇示することをしなかった慈円は、真に己が仏道を知り、極め尽くした人ではなかったか。今の慎ましい青蓮院がそれを語っている。例の門前の二本の大楠と境内に他三本ある大楠は親鸞のお手植えと云われる。寺を守る仁王像のようであると書いたが、思えば太くどっしりとした量感は、雅やかな青蓮院には似つかわしくない。が、そこには親鸞の想念が今も活き活きと宿ってい、格式高い青蓮院と我ら衆生との番いになっている気がした。その想念は慈円法然に対しても向けられたものであったかもしれない。此の地が親鸞が得度した場所なればなおのこと、私にはそう思われてならない。

秋の朝の青蓮院は静かであった。紅葉は始まっていたが、ピークには少し早かったこともあるだろう。夜のライトアップには多くの人々がやってくるが、清々しい朝は人もまばらで、青蓮院を味わうには最高であった。龍心池を中心とした回遊式庭園は、大きくはないが、程よい規模で、はらはらと舞い散るもみじ葉を眺めながらの散策には絶好。堂宇は明治中期の再建でも、さすがに百年以上経過して、今やしっとりとした風情で収まっている。中心伽藍の宸殿は入母屋造りで瓦屋根のせいか、御所の紫宸殿と比して少し重々しい感じはあるが、前庭にはきちんと左近の桜と右近の橘が植わってい、この演出のみによって平安王朝を彷彿とさせる趣きがある。庭園の奥には好文亭と云う茶室があるが、後桜町天皇も使われた創建時の好文亭は、平成五年(1993)新左翼中核派により放火され焼失してしまう。いわゆる京都寺社等同時放火事件である。この時京都の門跡寺院がゲリラの標的とされた。しかし二年後の平成七年(1995)に好文亭は再建されている。この日ちょうど好文亭では釜が懸かり、青蓮会の茶会が開かれていた。着物姿で入山してくる人々は、名うての茶人や京都人と推察した。ここでの月釜は青蓮会と云い、表千家裏千家、方円流、宗偏流、宝山流が輪番で懸けているとか。流派を超えて茶の湯を守り立てているのは、茶の湯を嗜む者としてはありがたい。青蓮院に限らず、日本各地の寺や神社は茶の湯と深い関わりを今日でも絶やすことなく、寧ろ積極的に茶室を開放したり、茶会の座を提供してくれている。茶道界でも献茶式を行い、寺社との縁を大切にしている。この先、寺社と茶の湯はますます強固に結びついていくだろう。双方の発展と守護にはこれほど都合のよいつながりはないと思う。それにしても青蓮院はまことに雅かな佇まいである。往時の堂宇は度重なる火災で悉く焼けてしまい、今あるのは明治期に再建された建築ばかりだが、かつて粟田御所と呼ばれた頃の色香を少しも失ってはいない。寧ろ今からがなお、門跡寺院として格式が放つ真の意味と美を、輝かせる時ではないかと思う。余談だが、私はこの寺の青蓮香という香を愛用している。松栄堂さんが作っている青蓮香は、気高く優しい香。この香を焚くと私はいつのまにか眠ってしまう。秋の柔らかい木漏れ日の中の青蓮院散策は良かったが、この日私は夜になって再び青蓮院へやってきた。どうしてもまた夜の青蓮院を見たかったのである。そこは数年前と同じ趣向で美しい青い海があった。やはり初めの印象が強いせいかもしれないが、私は夜の青蓮院が好きだと思った。

青蓮院の裏手の山上には将軍塚がある。ここは青蓮院の飛び地で、標高二百メートルあまりの高さにあり、青龍殿という御堂が建っている。先に述べたとおり、ここに国宝の青不動と、複製の御前立が安置されている。青龍殿には清水の舞台の四倍も以上ある大舞台が設けられていて、この大舞台や将軍塚の展望台から洛中を見渡せば、東山でもっとも良い眺めであると聞いていたので、ぜひ登ってみたいと思っていた。将軍塚は京都きってのパワースポットとして有名で、桓武天皇和気清麻呂を伴い、ここで平安遷都を決めたと云う。平安京の守護として将軍の甲冑を着せた像を埋めた場所と云われるが、実際は人柱も立てたやもしれない。源平盛衰記太平記には、「世に異変あるときはこの塚が鳴動する」と記されている。東郷平八郎もここを訪れた。兵を率いる将軍として、何かを得たかったのだろうか。青龍殿は平成二十六年(2015)に、青蓮院の堂宇として落慶した。この建築もとは大正天皇の即位を記念して、北野天満宮前に建てられた大日本武徳会京都支部武徳殿と云う武道場であった。戦後、京都府に移管し平安道場と呼ばれ、柔道や剣道の道場として一般開放されたが、老朽化で解体が決定したところ、青蓮院が引き取り、修復して将軍塚に移築した。美しく蘇生した青龍殿は、武人にも崇拝されてきた不動明王を祀る御堂としてまことに相応しいと思う。

果たして青龍殿の大舞台からの眺めは素晴らしかった。晩秋の碧空はどこまでも高くて、北東には比叡山、北西には愛宕山が京の町を見護る様に睥睨している。左大文字などの五山も、鞍馬や貴船の山々も、御所も、鴨川も、京都タワーもよく見える。まるで箱庭を眺めるようで、京都を自らの手中に収めた感じがする。こうして見ると京都盆地は広くて狭い。この場所はまさに洛中の東の中心にあり、四神相応の青龍の地に建っている。凄い場所に私は立っているのだと痛感した。あんな爽快なところはない。東京での仕事、人間関係、日々の暮らし、思う通りに進まぬ夢、そんな憂さも、ここに来て、この景色を眺めたらいっぺんに晴れた。そう、この澄み渡る空の如く。全く青蓮院という寺は青色一色である。青不動、青蓮院と云う寺名、青のライトアップ、青龍殿と青い空。青色の極みだ。あわよくば、青い鳥が飛んで来ないかと思ったが、そう都合よくはいかなかった。

 

 

皇位継承一スメラミコト一

天皇と云う尊称が慣わされたのはいつ頃ことだったのか。どうもはっきりしないらしい。学説も大きくは推古天皇以降とする説と、天智天皇から天武天皇にかけてとする説に二分されていると聞くが、天皇と呼ばれる以前には、大王と呼ばれていたことは間違いないとか。大王と書いてオオキミと呼び、天皇と書いてスメラミコトと呼んだとも云うが、これも意見が分かれている。私には訓読みの方が、いかにも神々から継承されてきたという感じがする。天皇には様々な尊称があり、天孫であることを示すヒノミコがもっとも古そうである。次いでスメミマノミコト、スメロギ、スメラミコトなど、統治に由来する言葉が当てられた。この後、アキツミカミ、アラヒトガミなど神聖さを表すもの、中国的表現に由来する聖、万乗、天子、皇帝、帝王、帝、聖上、至尊も使われるようになる。さらには御所に由来する御門、禁裏、宸儀、乗り物に由来する乗與、或るいは御上、主上、今上、当代、当今なども時代ごとに広く天皇の尊称とされた。中で私が注視したいのが、スメラミコトという尊称で、スメルとはすなわち統べるの意ではないかと思う。だとすれば、天皇の尊称としては日本の統治者たるにもっとも相応しい。天皇と云う尊称は、奈良朝の何事においても漢風の時代の賜物なのである。ちなみに、これまで女帝は十代八人(皇極と斉明、孝謙と称徳は重祚)存在したが、主にはヒメノスメラミコトとか、ヒメノミコトと尊称された。スメラミコトは天皇大和言葉として記紀にも記述されている。

 初代神武天皇から第二十五代武烈天皇あたりまで、神代の天皇はその存在自体がはっきりしないところもあるが、すべてが想像のみでは神話は成り立たない。半信半疑で読むからこそ、神話は面白いのである。神武天皇という尊称は奈良時代に奉じたものとかで、古事記上つ巻の最後に登場する神武天皇の記述では「若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)」とあり、またの名を「豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)」、またの名は「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」とある。カムヤマトイワレビコが今日でもよく知られているが、これは神武東征の意味を多分に含んでいる。「倭」は大和の古い書き方であり、「伊波礼」は大和の桜井に古くからある地名「磐余(いわれ)」であろう。継体天皇や用命天皇が暮らした皇居は磐余のあたりにあったとされる。カムヤマトイワレビコの名は、九州から大和に東征し、大和朝廷が発足していったことを示している。略してイワレビコとも云う。

古事記中つ巻の冒頭にはこのようにある。

神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬の命とニ柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、

いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」

とのりたまひて、すなはち日向より発ちて、筑紫に幸行でましき

ここから神武東征とその道のりが述べられてゆく。神武東征の道程はよく知られているが、ざっと記しておくと、日向から宇佐を経て、筑紫の岡田の宮に一年滞在し、阿岐の多祁里の宮に七年、吉備の高島の宮に八年滞在した。こうして力を蓄えながらさらに東へ。海路瀬戸内を淡路を経て浪速に向かい、河内に入り、紀ノ川を越えて熊野へ至る。この間、河内では生駒の豪族登美の那賀須泥毘古と戦い、熊野へ入る途中も葛城あたりの豪族と交戦し、熊野では大きな熊が現れ、神武天皇と付き従う兵士たちは気を失う。この熊というのも九州の熊襲のような存在であろうか。熊を充てたのは後の熊野信仰に通ずる布石に違いない。意気揚々と日向を発し、宇佐、筑紫、安芸、備後を配下にして勢いよく東征してきた。ここまでもはっきりと神々の居るルートを通っており、宇佐も吉備も従えて東征者の権威を高めてゆく。それにしても足かけ十五年以上かけてゆっくりと進軍するところが、かつては急進的な変化を好まなかったであろう日本人らしい。いつから日本人は事を急くようになったのか。きっかけは仏教伝来か、大化改新だったか。或いは明治維新以降なのか。それはまた別に考えるとしよう。

浪速から熊野で神武軍がやや劣勢になってしまうのは、いかにこの地が強大な力を有する神、すなわち土着の豪族がいたかが知れる。同時にこのあと大和へ昇り、平定する神武軍が、より強き者に立ち向かい、それを降してヒーローに奉る伏線ともいえる。その後、神武軍の元に、熊野の民「高倉下(タカクラジ)」が一横刀を持って現れた。

高倉下の申すに、「おのが夢に云はく、『天照大御神、高皇産霊(タカミムスビ)の神二柱の命をもちて、建御雷タケミカヅチ)の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし。その葦原の中つ国は、もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降らさね』とのりたまひき。ここに答へまをさく、『僕(やっこ)降らずとも、もはらその国を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂に穿ちて、そこより堕し入れむ。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に献れ』と、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉をみしかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて献らくのみ」

高倉下は熊野の住人で、夢でアマテラスとタカミムスビタケミカヅチを呼び、葦原の中つ国の平定を命ずるが、タケミカヅチは自らが平定に降らずとも、自らの太刀を地上に堕とし、天孫の子孫、すなわち天の御子たるイワレビコに献上させれば良いと説く。果たして高倉下が夢から覚めると、その通り天より降された太刀が倉に突き刺さっていた。それを神武天皇に献上すると、熊野の山々の樹木が倒れ、敵を蹴散らし、神武軍の兵士らも目覚めた。さらにこの高倉下の神託を受け、タカミムスビ高天原より遣わされた八咫烏の導きで、熊野から宇陀を経て、行き先々で悉く勝利し、破竹の勢いで大和磐余へと入った。葦原の中つ国とは高天原と黄泉の国の間、すなわち地上のことである。ついにイワレビコは天の御子として、葦原の中つ国の平定に成功した。そして磐余より少し西へ行った橿原の地に居を定め、初代天皇として即位されたと云う。

 ちなみに日本書紀には、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)、磐余彦尊(イワレビコノミコト)、磐余彦帝(イワレビコノミカド)、とあり、どうしても大和と強く結びつける必要があったことが、しつこく語られていることからも察せられる。日本書記では他に、彦火火出見(ヒコホホデミ)、狭野尊(サヌノミコト)ともあるが、究極は、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)であろう。ハツクニシラス、すなわち天下を始めて馭したスメラミコトというわけである。いわば始天皇であるが、一方古事記の中つ巻では、崇神天皇の項で「初国知ラシシ御真木ノ天皇」と記載があり、御真木の天皇とは崇神天皇のことで、初めてこの国を統治なされたの意という解釈もある。古事記神武天皇の項では、ハツクニシラスの言葉は出てこない。日本書紀では神武、崇神どちらもハツクニシラススメラミコトとあるのは、何故であろうか。スメラミコトの尊称は今も存在するが、使われることはない。せいぜい奈良朝最後の光仁天皇までで、中国かぶれして、平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安遷都を成した桓武天皇以降、スメラミコトと尊称されることは稀になり、天皇、帝、天子、お上、主上などが主流となってゆく。桓武天皇桓武帝と呼ぶに相応しい。

イワレビコの緩急織り交ぜた東征の成功により、スメラミコトが誕生した。このあと二代綏靖、三代安寧と皇位は継承されて、一度も途切れることなく今上陛下まで続いてゆく。記紀に登場する天皇は、崇神、仁徳、応神あたりから少しずつ輪郭を現し、継体からはその存在が多いに高まり、欽明、敏達、用明、崇峻でかなりはっきりとしてくる。そして次の推古女帝より、いよいよ皇位継承を巡るドラマが、神話ではなく実話としてダイナミックに展開してゆく。皇位継承は日本史の背骨になるのだ 。

 

 

青春譜〜チューニング〜

今でも時々、中高時代の夢を見る。吹奏楽部でクラリネットを吹いていた頃の夢である。もう二十五年以上も前で、初めて楽器を吹いてから三十年は経っているが、あの頃、吹奏楽に明け暮れた日々が、よほど脳裏に焼きついているのだろう。現役の頃より楽器を奏でる夢は繰り返し見てきた。ほとんどがコンクール本番や演奏会の夢だが、たまには練習中の夢もある。だいたいが途中で目覚めてしまうのだが、目覚める度、目には共に励んだあの頃の皆の顔が残像し、耳には奏でし音が残存する。その度にしばし茫然とし、それから無性に楽器を吹きたくなる。いつまでこんな夢を見るのかわからないが、青春の欠片を拾っては落とし、落としては拾っている気がする。そのパズルは永遠に完成することはないだろう。それはわかっているが、もう二度と戻れないあの頃を追憶することが、人が少しずつ老いを受け入れてゆく過程においては必要なことではないかと思う。そんな事を想いながら、この青春譜を書いている。

私は中学でも高校でも三年生になると吹奏楽部でトレーナーという役を務めた。トレーナーは外部から専門の人を招いて、指揮者の補佐的指導を行う場合もある。具体的には音楽表現以外に、全体の演奏技術の向上、個別指導や基礎トレーニング、指揮者不在時は代指揮者となる。部員がトレーナーを担う場合もあり、その場合は主に合奏前の全体のチューニングを行う。合奏前にはまず個々でロングトーンをして、基礎音階を吹奏し楽器を温めてゆく。楽器も自分の心身も温まってゆくと、徐々に楽器と自分がひとつになってゆくのを感じる。合奏前に時間があれば、個人やパート練習で譜面をさらったりもする。楽器は季節により音の幅の広がる速度が微妙に変わる。木管楽器金管楽器も気温の変化で収縮するのだ。ましてクラリネットは木製、或いは合成樹脂製のため、他の楽器に比べて気温や湿度による影響はとても大きい。合奏前のチューニングは非常に重要になってくる。絶対音感の持ち主ならば、相当に緻密にチューニングできるのだろうか?美空ひばりさんは、バンドのたった一人の微妙な音のズレを瞬時に聞き分けて指摘されたと云う。それはさておき、絶対音感など持ち合わせない私は、チューナーやチューナー付きキーボードを駆使して(要するに自分の耳と機械に頼りながら)、バンド全体のチューニングをした。吹奏楽で行うチューニングでは、B♭の音が基本となる。オーケストラではそれより半音低いAの音でチューニングをする。吹奏楽ではクラリネットやトランペットなどB♭管が主流のため、B♭で全体を合わせるのだ。一方弦楽器は開放弦がAであり、管楽器も弦楽器に合わせてAでチューニングをする。オーケストラでは第一ヴァイオリンのコンサートマスターがステージ上で最終チューニングを担当するが、吹奏楽でも基本的にファーストクラリネットの最上級生がコンサートマスターの役割をする。場合によっては、トレーナーがコンサートマスターを兼ねて、合わせてゆくこともあり、私もファーストクラリネットであった三年生の時は、自らトレーナー兼コンサートマスターとなった。合奏前には一人ひとりB♭音をロングトーンし、トレーナーがチューナーを442Hzに設定して、チューナーの針が真ん中を指せばチューニング完了。が、これも一定ではなく、一度合ってもまたズレることしばしばあるし、先に述べたとおり、季節ごとに変わる。私が思うに冬よりも夏の方が比較的チューニングし易い印象がある。冬場は楽器がなかなか温まらないし、温まって冷えるのも早いからだろう。そんな時は個別にロングトーンをしたり、マウスピースやリードを取り替えたり、菅の長さを微妙に調整することもある。ここまでくると奏者もトレーナーも職人の如し。しっかりと音を合わせ、チューニングする事がトレーナーの重要な仕事であり、チューニング万端となって、楽団を指揮者へと渡す。責任があるゆえに緊張もするが、大変やりがいもあって、トレーナーになった時はうれしかった。

皆を誘導して、音をまとめることに苦労したせいか、夢でもっともよく出てくる場面が、演奏前のチューニングのシーン。チューニングがなかなか合わずに、何度も音を合わせるのに四苦八苦し、結局合わずに本番となって、冷や汗をかきながら演奏するなんていう夢もある。実際はそんなことはなかったのだが、思えば余程神経を尖らせていたのだろう。それほど音を合わせて、全体が美しいハーモニーを奏でることに、私のみならず、個々が心を砕いていたのである。それは意識することもあれば、まったくの無意識のうちにということもある。吹奏楽部員はそれを何となくわかっていて、いつの間にかそんな能力が個々の身についているのである。日々の練習や努力によって、ただでは決して得られない大きな力を授かるのだ。楽器や全体の音を敏感に感じるようになる。チューニングの良し悪しがわかるようになる。楽器を奏でるスキルのみならず、音楽を表現する者としての技術や能力を自然と備えてゆくことが、或る意味において吹奏楽に携わりし者の凄さなのである。スポーツでも、茶道でもそうしたモノはある。その道をゆき、極めんと欲すれば、自ずと精進し、その道をゆく者にしか備わらない力が、神より与えられるのだと私は信じている。吹奏楽にもそれはある。彼らをよく見てほしい。そして彼らが得た特別な力は、演奏の時に満開に花開き、私たちを散華の中に誘うであろう。続。

なおすけの平成古寺巡礼 江戸深川

広重の「名所江戸百景」が好きで、複製ではあるがすべて所蔵している。江戸の様子、江戸人の暮らしを垣間見るには、「江戸名所図会」とともに必須である。名所江戸百景のお気に入りの場面は数多あるが、中で一番美しいのが、「深川洲崎十万坪」である。この絵だけは一見すると江戸を描いた感じがしないのだが、よく見ればやっぱり江戸としか思えないところが良い。「名所江戸百景」でもっともダイナミックな作品だ。真冬の雪空を滑空する鷹が画面上に大きく描かれ、荒涼たる開発途上の深川洲崎を見下ろしている。鷹は、餌を探すのか、人を睨んでいるのか知らないが、遠くには筑波の峰が見え、まさしく鳥瞰図である。深川より先の洲崎、今の東陽町や砂町あたりを俯瞰した場面であろうが、あの時代、このあたりが未開地であり、いかにも江戸の果てであったことがはっきりとわかる。

寒中、友人を連れて深川を散歩した。私は江戸情緒が残る深川を歩くのが好きだ。隅田川対岸の日本橋人形町に比べたら敷居が低く、親しみやすい印象を受けるのは、ここに暮らす人も多いからであろう。深川はオフィスよりも商店や住宅が目立つ。江戸という町を大まかに見て、江戸城より東南は下町、西北は山手。今や日本橋や銀座は下町というイメージが薄らいでいるが、本所や深川はいかにも東京の下町の暮らしや文化が残り、その匂いは些かも衰えてはいない。中で深川は江戸の抜け殻が、たくさん見つかる町。現代東京の下町の双璧をなすのが浅草と深川であるが、江戸期、浅草や深川は御府内ではなく、江戸郊外の歓楽地であり、新興住宅地であった。特に本所や深川は城下とは隅田川を隔てており、「川向う」と呼ばれた。現代東京でいえば、ちょっと前のお台場とか、若洲のあたりと想像したらいい。寒村江戸が拡大の一途を辿るのは寛永期からで、江戸庶民が闊歩した深川は、江戸の新興住宅地の先駆けであった。家康は江戸入府以来、この地の埋め立て、干拓、造成を深川八右衛門ら数人の摂津人に託した。彼らは漁師の元締や庄屋である。人が住み始めて、村の名前はすんなりと深川村となった。深川が幕末までさほど幕府の干渉を受けなかったのも頷ける。ここは庶民が一から創造した町なのだ。江戸城下の川向うには、庶民に対しての自由の大地を与えることが、徳川幕府の飴と鞭の撫民政策であったと思われる。深川、本所、向島などの川向うは撫民政策の特区であったと云えよう。

清澄白河から門前仲町まではちょうどいい散歩コース。江戸はベネチアをも凌ぐ水都であった。ことに本所深川は掘割が縦横無尽にあって、まことに交通運搬に至便なところであった。このうち動脈と云えるのが、北十間川、竪川、大横川、横十間川小名木川仙台堀川である。中で小名木川は本所と深川の隔てにあって、川幅、水量ともにもっとも大きい。小松川のあたりで旧中川より分流し、東から西へと流れ、隅田川に注いでいる。河口には広重や北斎も描いた萬年橋がかかってい、橋を渡ると芭蕉ゆかりの地がある。芭蕉は一時このあたりを住まいとし、ここから奥の細道の旅路へと向かった。隅田川沿いには芭蕉銅像あり、芭蕉記念館あり、芭蕉も参禅したと云われる臨川寺がある。芭蕉庵の跡地にはささやかな芭蕉稲荷が建っているが、尾張屋金鱗堂の切絵図では、幕末頃このあたりに紀州家の下屋敷があり、邸内に芭蕉古跡と記されている。このあたりは江戸中期以降に紀州家に与えられ、紀州家が邸内に稲荷を勧請し、維新後に紀州家の土地から町に却った時に、芭蕉稲荷と呼ぶに至ったのであろう。

清澄庭園から清澄通りを挟んで、資料館通りという小路に入る。清澄庭園紀伊国屋文左衛門から大名家、三菱岩崎家へと渡り、後に東京都に寄贈された。資料館通りに入ると左手に大きな甍の霊巌寺がある。霊巌寺には白河楽翁の墓があり、清澄白河の白河とは白河楽翁に因む。白河楽翁こと松平定信は、寛政の改革を行った江戸中期後半の老中で、老中就任前には、宿敵田沼意次と政争を繰り広げた。定信は宝暦八年(1759)、徳川御三卿の一つ田安家に生まれた。十代将軍家治には世子家基がいたが、安永八年(1779)に十八歳で急死、俄かに将軍継嗣問題が浮上する。この期を見逃さなかったのが、同じく御三卿の一橋治済であった。治済は稀代の策謀家である。御三卿は将軍家の家族同様と見做されたため、必然、時期将軍をたてる筆頭と暗黙された。八代吉宗が起し、九代家重の時分に御三卿が整えられてからは、御三家は家格こそ御三卿より上でも、将軍継嗣を出す親藩としては一歩外に出されてしまった感がある。治済はこれを傘に我が子家斉を時期将軍に擁立するために動く。御三卿のうち清水家は当主や家臣団の出入りが激しく、実質は田安家か一橋家から時期将軍が擁立されるのは、この時代の幕閣の周知であった。田安家当主治察は病弱であったが、弟の定信は爽健かつ英邁と評判であった。いずれ将軍に推す声もあり、定信自身もその気であった。これを危惧した治済は、時の権勢者田沼意次に働きかけ、定信を白河藩松平家に養子縁組させることに成功する。定信はこの時より意次を恨んだ。 治済の思惑通り、治察は早逝し、事もあろうに田安家には治済の五男斉匡を送り込み、どう転んでも、治済の子が時期将軍となることが必定となった。果たして十一代家斉が将軍となって、その後見役として治済は凄まじい権勢を誇る。家斉に田沼意次を罷免させ、松平定信を幕閣に迎えて老中首座とした。これは私見であるが、家斉の将軍就任と同時に治済にとって意次は不要の駒となった。寧ろ邪魔者となった。飛ぶ鳥を落とす勢いで、権勢を手にした意次は、田沼時代と呼ばれる一時代を自らの才覚のみで築きあげた。意次は江戸期において、もっとも革新的な改革者であった。米経済から貨幣経済への転換を試み、株仲間を公認し、蘭学をはじめとした学問の自由を推奨した。こうした改革者の下では、治済や家斉とて、いつ引きずり降ろされるかわかったものではない。したたかな策士である治済が、そんな事を考えなかったはずはないのである。紀州家の下級藩士から、家重小姓となり、とんとん拍子で最高権力者となった意次の眩しさは、御三家譜代門閥の保守派からは疎まれいた。意次は極めてしっかりとしたビジョンを持っていたのだが、世が世であって、それは旧態以前へ回帰を願う保守派の力も、今の我々には想像がつかぬほど強大であった。その保守派の急先鋒に育っていたのが、松平定信であった。治済は密かに定信と連携して、田沼意次の追い落としを企てたものと思う。折しも天明の大飢饉が起こり世は荒んでいた。およそ二十年に及ぶ田沼政治にも翳りは見えていたのである。ここで颯爽と現れた定信は、吉宗の享保の改革を参考にして、貨幣経済から米経済への回帰をし、農村復興のために農村に資金援助をして、江戸に流入していた百姓を帰村させた。田畑の再開墾や子供の養育のため幕府の公金を貸付たり、旗本御家人の札差からの借金を帳消しにした。石川島には人足寄せ場を設けて無宿者を収容し、職業訓練と江戸の治安維持を図った。学問も朱子学以外の学問を異学として、基本的には禁止し、幕府の役人も朱子学を学んだ者に限り登用、湯島聖堂学問所を、幕府直轄の昌平坂学問所に改めている。出版も厳しく統制し、山東京伝蔦屋重三郎は風俗を乱すとされ罰せられた。この頃、ロシアのラクスマン蝦夷根室に通商を求め来航、しばしば日本近海に外国船が現れるようになったことから、定信は海防にも力を入れて、自ら相模や伊豆の沿岸警備を視察し、強化に努めた。こうして定信は、田沼政治から政策の大転換を半ば強引に推し進めた。が、これを心から歓迎したのは一部の保守派のみで、自由を謳歌した田沼時代からしたら、粛清ばかりで、人々は窮屈な世となったことを嘆いている。

白河の清きに魚のすみかねて 元の濁りの田沼恋しき

このあまりに有名な落首は、当時の人々の皮肉とか鬱憤とかのみならず、いつの世も為政者が裸の王様であることを如実に示していると私は思っている。もっとも定信政治のすべてがまちがっていたわけではない。天明の大飢饉白河藩は、ただ一人の餓死者も出していない。これはひとえに定信の指導力の賜物である。定信の治世は意次よりずっと短く、わすが六年で改革は頓挫し、失脚した。藩政に戻り、後に隠居して楽翁と号した定信は、度重なる屋敷替えや火災に遭い、流転の日々を送る。深川洲崎の地にも洲崎海荘という隠居屋敷があったことが縁で、死んだあとはここ霊巌寺に埋葬された。霊巌寺寛永元年(1624)、浄土宗の僧霊巌により開かれた。元は日本橋近くの霊岸島にあったが、明暦の大火でこの地へ移転してきた。増上寺を中心とした浄土宗関東十八檀林の一つで、江戸期を通して大寺院であった。また江戸六地蔵の第五番とされ、今も境内には笠をかぶりどっしりとしたお地蔵さんが鎮座している。

霊巌寺門前を資料館通りと称するのは、近くに深川江戸資料館があるからだ。この資料館には、ここらあたりに来たらぜひ立ち寄ってほしい。内部には江戸の町家暮らしの一部が再現されていて、規模はさほではないが、とても忠実に江戸人の暮らしが垣間見られる。私は何度もこの江戸の町を訪れているが、いつ来ても楽しい。ここで江戸人の暮らしにほんの少し触れてみると、いかに我々現代人が無味無臭の寒々しい世を生きているかを痛感させられる。我々は人と人との交わり希薄な寂しい時代を泳がされているのだ。

このあたりは霊巌寺を中心とした寺町で、出世不動尊など大小が点在している。雲光院は慶長十六年(1611)、阿茶の局の発願により建立された。阿茶の局は家康の側室で、甲斐武田氏の家臣の娘である。未亡人で家康との間に子は恵まれなかったが、豪胆かつ才覚に富んでいたことから、家康は常に手元に置いて寵愛し、秘書のような役割を果たしたとされる。正室築山殿を早くに殺めた家康は、その後秀吉に押し付けられた朝日姫を後添とするも死別、その後は生涯妻を娶らず側室を侍らせたが、阿茶の局は半ば正室同然の扱いを受け、周囲も自然にその成り行きに任せていた。それほど阿茶の局とは、家康にも周囲にも、一目置かれて然るべき人物であったのだろう。大坂の陣では徳川軍の和睦行使を命じられており、徳川初期にこれほど政治的に活躍した女性は阿茶の局と春日局をおいて他にはいない。徳川将軍家の大奥の礎を築いたのは春日局だが、阿茶の局はそのはじめの地固めを成したとも云える。家康亡き後、元和六年(1620)、秀忠五女和姫が後水尾天皇に入内するにあたり、阿茶の局は傅役の老女として宮中に近侍し、従一位を賜る。寛永十四年(1620)、八十三歳で亡くなり、深川の雲光院へ葬られた。雲光院は阿茶の局の戒名である。家康の側室となるまでは苦労の多い日々であったが、果ては位人身を極め尽くした彼女は、何を思ってこの地に眠るのであろうか。

資料館前にある深川めしの店に入った。この店は何度めかだが、炊き込みとぶっかけ二種のあさり飯が食べられる。大工が食べた炊き込み、漁師が食べたぶっかけと云うのが店の売り文句である。実際どうであったのかは、営業妨害になるから詮索はしないが、江戸庶民のほとんどが、炊き込みより調理が楽で、ちゃっちゃと掻っ込めるぶっかけを好んだに違いない。味はどちらも確かで、炊き込みはアサリの香がたっていて、ぶっかけは濃いめの味噌との絡みが絶妙。どちらも旨い。選べと云われたら迷う。ゆえにどちらも一膳ずつ楽しめる膳を頼んだ。深川めしは江戸人のソウルフードのひとつだが、江戸人が食したのはあさりよりもアオヤギやハマグリが多かったと云う。アサリが一般的になったのは明治中頃から大正にかけてで、江戸前の良いアオヤギがとれなくなったからではないか。 清澄白河には最近自家焙煎を楽しめるカフェが点在する。美味いらしいが、私はまだいっぺんも飲んでいない。コーヒーは飲んでみたいが、ブルーボトルカフェはいつも人で溢れかえっていて、とても入る気になれない。たぶんこれからも飲む機会はなさそうである。この日もごった返すカフェを素通りして、深川ゑんま堂へ参った。

ゑんま堂から門前仲町はもうそこである。門前仲町は、永代寺の門前町で、深川が賑わい始めてから、今日まで発展を続けている。今、一体は門前仲町と富岡と云う町名だが、古地図によると永代寺の周りは、永代寺門前町、或いは富岡門前町と云い、西側が永代寺門前山本町、通りを挟んで反対側が永代寺門前仲町とある。周囲は掘割に囲われて武家地はない。いずれにしろ永代寺、富岡八幡宮、そして江戸三十三間堂まで加えた広大な寺社域と一体化した大門前町であったことが窺える。ここが深川の中心地であり、深川発展の要であった。深川には江戸最大の岡場所があった。江戸で幕府公認の公娼は新吉原のみで、その他はすべて非公認の私娼であった。岡場所という呼び方には諸説あるが、吉原の原に対して、岡と呼ばれたとも云う。江戸の岡場所は、深川、本所、根津、芝、音羽四ツ谷など寺社門前町には付き物で、精進落としなどと称して、旦那衆や武家の家来たち、時には淫行の僧や神官にまで持て囃された。大名や旗本の子息もお忍びで通い、非公認とはいえ、取り締まりは形ばかりの緩きもので、幕府は暗黙していた。が、松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革の時は、さすがに憂き目に遭うほどの厳しい取締りをしたらしいが、嵐が去れば不死鳥の如く蘇った。寺社の参詣人を当て込み茶店が出来て、いつの間にかそこで働く女たちが遊女となり、水茶屋とか料理茶屋になったのだろう。寺社側も土地を貸して収入を得ていたし、上納金もあったから、堂々と軒先での商売を許していた。深川には岡場所が七箇所あって、仲町がその中心であった。最盛期には遊女五百人あまり、芸者は三百人あまりいて、ことに深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ名を馳せた。辰巳芸者は男勝りの気風の良さを売りとし、薄化粧に黒羽織、素足を晒して、髪もすっきりと結いあげていた。芸者は決して色は売らなかったが、何もかもが豪奢で虚構の吉原とは正反対で、地味で自然なところが江戸人には人気があったと云う。寧ろ、江戸人の好みをよく知り尽くしていたといえる。チャキチャキの江戸っ子たちは、吉原よりも深川を愛し、北国の傾城太夫よりも、深川の辰巳芸者を愛した。辰巳とは江戸城から見て、辰巳の方角にあるゆえだ。

永代橋は元禄十一年(1698)の架橋である。赤穂義士も吉良邸から泉岳寺への途上、永代橋を渡っていった。それまでは深川の渡しを使うことが一般であった。もっとも江戸期を通して付近には渡しがたくさんあっただろうし、昭和の中頃まで、隅田川にはいくつかの渡しが残っていた。門前仲町のあたりはかつて永代島と呼ばれる島であった。だんだんの埋め立てで、掘割に囲われた町となり、掘割も埋められた今は島の面影はない。そういえば豊島も湯島も、昔は島や半島のような土地であったわけで、江戸が水の都であったのは、深い入江や湿原ばかりの不毛地帯であった場所が、うまいこと開拓開発されたからである。日本において江戸ほど大開発が敢行され続けた土地はなく、それが大成功をおさめたところはない。それは今もって継続中であり、未来都市のモデルケースでは世界でも群を抜いている。永代島には鎮守として砂村から八幡神社が勧請された。富岡八幡宮について、詳しくは前にも書いたから省きたいが、一昨年、宮司家の骨肉の争いのせいで一時期は参詣人が離れたと聞いたが、この日は前と同じように盛大な骨董市が立っていて、ようやく元の賑わいを取り戻しつつあるように感じた。

深川には江戸三十三間堂もあった。富岡八幡宮の東に三十三間堂町があり、南北に細長いお堂に千手観音を祀っていたが、京都の三十三間堂のように千体の観音像があったわけでない。江戸三十三間堂徳川家光の命より、浅草に建立され、元禄期に深川へ移転した。専ら武芸奨励のため、通し矢を行う競技場として、建立された感が強い。「名所江戸百景」にも「深川三十三間堂」とあり、細長いお堂は画面いっぱいに入り切れていない、広重お得意の手法で描かれている。おかげでその規模が察する。天下の総城下町江戸では京都以上に通し矢が盛んであった。江戸三十三間堂も、廃仏棄釈の煽りを受けて明治五年(1872)に取り壊された。ここに今、三十三間堂があったなら。私はいつも想像する。本当に廃仏棄釈とは惨たらしい。たぶん後の震災や空襲で焼けたかもしれないが、いかにも残念の極みである。跡地には碑が建っているが気づく人も稀で、今では八幡宮裏の数矢小学校の名にのみ、その残像をとどめるにすぎない。

富岡八幡宮別当寺として寛永元年(1624)に永代寺は創建された。富岡八幡宮徳川幕府から厚い崇敬を受け、庶民にも慕われて江戸最大の八幡宮になると、門前町は大きく成長していった。同時に永代寺も隆盛し、最盛期には富岡八幡宮を凌ぐほどの力を持ち、深川を代表する寺、いや江戸でも指折りの巨刹になった。今の深川公園はすべて永代寺境内であった。多くの塔頭が立ち並ぶ姿はさぞや壮観であったろう。大栄山金剛神院永代寺と云う名前からして、いかにも大寺院であったことを彷彿とさせる。永代寺では成田山不動明王の出開帳が、元禄十六年(1703)から安政三年(1856)にかけて十一度も開かれた。成田不動の江戸出開帳は、江戸期に通算十二度開かれたが、このうち十一度が永代寺であった。成田不動は初代市川團十郎が、子宝祈願をして二代目團十郎が授かった縁で、市川宗家から崇拝され成田屋という屋号にもなっている。團十郎不動明王に扮した芝居も大当たりして、江戸庶民の間でも成田山詣が盛んになり、目黒不動などの五色不動も賑わった。それ以降不動信仰はピークに達し、永代寺は不動信仰の中心地となる。出開帳の時はいつにも増して大変な人出で、門前町も大いに栄えたのである。爛熟期の江戸を象徴するような寺と門前町を抱えた永代寺も、明治の神仏分離令で大打撃を受け、ついには廃寺となってしまった。明治政府は東京に在ったいかにも江戸らしい遺産を、悉く容赦なく潰している。が、庶民の信仰の力とはそう簡単に廃れない。不動信仰の花は種を落としていたのである。明治十一年(1878)、不動堂が再建されて成田山東京別院となった。今の門前仲町はこの深川不動堂富岡八幡宮門前町として、全国に知られている。

現在の深川不動堂は、実に「今の日本仏教」を体感できる。旧本堂を遺しながら、前衛的な新本堂が平成二十三年(2011)に完成した。外観には不動明王梵字が無数に埋め込まれ、およそ寺の本堂には見えないが、それが参詣者の関心を惹く。内陣は掘り下げてあり、そこでは定時に護摩焚き供養が行われている。堂内は何処もかしこも不動明王像ばかりで、ただただ圧倒されるが、不思議と威圧とか押し付けとかは感じない。面白いのがクリスタル回廊。ここは本堂左手から入り、大きな数珠を繰りながら、本尊の真下を通り抜ける回廊で、壁には一万体ものクリスタルの宝塔が埋め込まれ輝いている。よく見れば宝塔の中には一つ一つに小さな不動明王が座しており、信者でなくともここを歩く者は心身清まる思いがし、ありがたい気持ちに駆られるであろう。寺も時代ごとに変わってゆかねばならぬ。いや変わらぬところと、変わるところが混在してこそ、現代から未来へと寺が生き残る最大の術であろう。同時に我々が寺を訪れて何かを見て、何かを感じて、何かを考えて、何かを得るには、時代にマッチした姿勢や佇まいが、ことに現代人には求められている。深川不動堂はそれを存分に叶えてくれるし、仏教に触れ、思いをめぐらすきっかけを与えてくれる。永代寺も唯一残っていた吉祥院と云う塔頭を、明治二十九年(1896)に再興して現在に至るが、今では深川不動堂塔頭の様に、参道の傍に慎ましい佇まいである。しかしかえって、でしゃばらない楚々とした今の永代寺が私には好ましい。この深川の地にも相応しいと思う。深川はずっと神仏混淆の聖地である。きっとこの後もそれは揺るがぬであろう。