弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一南都斜陽一

大仏開眼供養と鑑真和上による大授戒を見届けると、思い残すことはないように聖武上皇崩御された。後を継ぎし孝謙女帝が頼りとしたのは、母の光明皇太后と、皇太后の甥の藤原仲麻呂である。頼りとしたというよりも、誰よりも敬い、誰よりも恐れた母の光明皇太后に背を向けることはできなかったのである。仲麻呂藤原武智麻呂の次男で、藤原南家を継いでいた。先に述べたとおり、藤原四家の当主が天然痘の流行で皆亡くなり、橘諸兄らの勢力に押されて、藤原氏は一時衰退しかけたこともあったが、藤原氏出身の光明皇太后の強力なバックアップのおかげで、仲麻呂は徐々に頭角を現し、政と軍を主導していった。藤原氏の力は仲麻呂によって少しずつ盛り返してゆくことになる。そしてついには橘諸兄の勢力を凌ぐ力をつけ、聖武天皇在位後半には政権は諸兄から仲麻呂に変わったのである。

そもそも聖武上皇光明皇后のただ一人の皇子基王は夭折し、二人の子は阿部内親王しかいなかった。聖武上皇県犬養広刀自という妃との間にも安積親王を設けていたが、光明皇后藤原氏を憚って、阿部内親王を史上唯一の女性皇太子とした。その後、安積親王も亡くなり(仲麻呂の毒殺説もある)、失意の聖武天皇は、阿部内親王孝謙女帝として即位させると、天武天皇の孫で新田部親王の子道祖王立太子させ、孝謙天皇の次に即位するよう遺詔した。が、孝謙女帝は父の束縛と母の呪縛に耐えられなくなった。父帝が崩御されると遺詔を反故にし、天平宝字元年(757)道祖王は悪行乱舞目に余ると指摘して廃太子とした。代わって大炊王すなわち後の淳仁天皇立太子させる。大炊王天武天皇の孫であり、父は舎人親王である。大炊王立太子には、仲麻呂の強い推挙があったとされる。仲麻呂は自らの権力基盤を固めるため、大炊王に近づき、亡くした息子真依の未亡人粟田諸姉を娶らせ、自らの屋敷に招いて行在所とした。翌天平宝字二年(758)八月、孝謙女帝は譲位して、淳仁天皇は即位された。これも仲麻呂が強引に事を運んだに違いない。若く薄弱な淳仁天皇は自らを天皇に推し挙げてくれた仲麻呂の言いなりであり、傀儡なのは当時の人々にもよくわかっていた。仲麻呂天皇から恵美押勝という名を賜る。「人民を汎く恵むの美、暴を禁じ強に押し勝つ」という意味があるそうだが、天皇に賜るという形をとりながらも、仲麻呂が自らの権勢を誇示するために自作自演したと云う説もある。仲麻呂は民の苦しみをあまねく聴くために門民苦使を設置したりして撫民政策も行っている。こうして押勝は右大臣にまで昇進し、何事にも唐風の政策を進めてゆく。

押勝に無理やり譲位させられた孝謙上皇は、この様子を苦々しく眺めておられたが、少しずつ再起して、隠然と影響力を行使し始める。孝謙上皇皇位という足枷がとれると、正気を取り戻されたのか、決して慎ましく隠居されたわけではなかった。そして次第に仲麻呂淳仁天皇に対して敵対心を露わにするようになる。そんな時、唯一の後ろ盾であった光明皇太后崩御された。天平宝字四年(760)のことで、孝謙上皇はさすがに気落ちし、塞ぎがちになられる。光明皇太后崩御は、押勝にとっても大きな打撃であり、以降、その権勢に翳りが見え始める。この頃、平城京を改作することになり、近江の保良宮淳仁天皇とともに移られた。近江と云えば、大津京紫香楽宮など、父祖の代から一時的に何かから逃れるような土地である。保良宮は石山のあたりに造営され、およそ二年間臨時の都であったが、唐の制度に倣って北宮と称された。

この頃、孝謙上皇に近づいてきたのが弓削道鏡である。弓削道鏡は、文武天皇四年(700)に河内国で生まれ、若年より仏門に入り、法相宗の義淵の弟子になった。それから東大寺別当の良弁にも師事し、梵語や禅にも通じるようになる。道鏡自身努力家でもあったゆえ、良弁の覚えもよく、早くから宮中の仏殿に入ることを許され、孝謙女帝の頃には禅師と称されるようになる。命がけの皇位継承と、おぞましき権力闘争の渦中に少女の頃から身を置かされてきた孝謙上皇は、心身ともに疲弊しきっていた。一時は生死の境を彷徨われたとも云う。加えて猜疑心が強く信頼できる家族も臣下もいなかった。ここに道鏡上皇の平癒を加持祈祷し、献身的に看病をした。おそらくは仏門のコネを利用して、唐から医者を呼んだり、漢方薬を取り寄せて処方もしたのではあるまいか。そして何より、生涯独身で、権力者として誰よりも孤独であった孝謙上皇は、優しき道鏡の心遣いにすっかり虜となられ、精神的に昇華されてしまわれた。これはヴァージンクィーンと呼ばれたイングランド女王エリザベス一世にも共通する感覚がある。元気を取り戻された上皇は、常に傍に道鏡を置かれ寵愛された。これを不快に思ったのが、最高実力者の恵美押勝であった。押勝淳仁天皇に奏上し、天皇自ら上皇道鏡を退けるように進言した。これに激怒された上皇道鏡を連れて平城京へ環幸、出家されてしまう。同時に天皇の大権たる国家の大事と賞罰を奪い、上皇自ら政を行い、道鏡配下の信頼できる側近を集めて、密かに軍備を整えさせた。

このことを恵美押勝ほどの人物が把握していなかったはずはなく、押勝もまた戦いに備うべく、自らが先頭に立って、兵を集めていた。越前を治める八男の藤原辛加知に命じて、近江と越前の国境にある愛発関の警備を強化した。ところが軍事力のすべてを掌握し、諸国の兵を動員する寸前で、上皇方に密告されてしまい、御璽や駅鈴を奪われてしまう。これで形成は逆転し、押勝の立場は一気に悪くなった。再起を図るべく平城京を脱出した押勝は、越前へ逃れようとするも、上皇軍の吉備真備率いる官軍に主要街道は封鎖されてしまう。吉備真備はこの時七十歳という老齢であったが、唐に渡り軍略を学んでいた。真備はかつては要職を歴任するも、押勝の台頭で野に下っていた人物で、多少なりとも押勝を恨んでいたふしがある。そこに孝謙上皇は目をつけたのだ。こと兵を率いる将としては押勝よりも真備の方が上であった。ここで重要なのは、淳仁天皇を奉る押勝軍が賊軍で、上皇軍が官軍になっていることだ。官軍とはすなわち天皇軍であり、為政者かつ勝者側であることは我が国の歴史上知られたことだ。この時をもって、押勝はクーデーターの首謀者とされ、淳仁天皇も同罪とされたのである。これが恵美押勝の乱である。一時は押勝軍が有利に運んだ場面もあったが、反乱軍とみなされた押勝軍は次第に追い込まれ、天平宝字八年(764)九月、ついに上皇軍は鎮圧に成功する。乱が始まってわずか七日目のことであった。気の毒なのは淳仁天皇で、廃されて淡路の高島へと流された。人は「淡路の廃帝」と呼んで同情した。廃帝という言葉、尊称ともいえないこの響きには、まことに哀愁漂うものがある。歴代の天皇でこれほどの哀れを誘う天皇は、淳仁天皇と平安後期の崇徳天皇しかいないだろう。一説では淳仁天皇が流されたのは、淡路ではなく淡海で、高島も湖北の高島であると云う。竹生島よりさらに北、琵琶湖の最北部には菅浦という集落があり、そこには淳仁天皇が幽閉された離宮があって、土地の人々は代々淳仁天皇を崇拝していると云う。村の鎮守社の須賀神社には淳仁天皇が祀られている。神社のあたりが御陵と信じられているそうだ。この話は白洲正子氏の「かくれ里」にも詳しく描かれていて、私もいつか訪ねてみようと思ってはいるが、何せ遠い場所である。

 淳仁天皇恵美押勝の排斥に成功した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇として再び即位した。不謹慎な表現かもしれないが、まさに皇位に返り咲いたといえる。出家したまま皇位に継いたのは称徳天皇のみである。ここまで来ると称徳女帝の我儘から始まった暴走ともいえ、単に権力闘争と云う言葉のみでは片付かない複雑怪奇な出来事であったと想像させる。すぐさま弓削道鏡太政大臣へ昇進させ、天皇に次ぐ位として法王の尊称を与えた。あまつさえ、道鏡に譲位をすることを画策し始める。それは称徳女帝が推進しようとされたのか、道鏡自身の企てかははっきりしないが、どちらもその気で、実現に向けて邁進したことは明らかなのである。

 称徳女帝は道鏡の虜となり、寵愛した。それは恋ゆえとも思われる。籠の中の小鳥の如く育てられた阿部内親王は、致し方なく天皇となり、文字通りヴァージンエンペラーとしてヤマト王権を背負い、国家と契りを交わした。そこに自分だけを見てくれて、優しい言葉をかけてくれた道鏡が現れた。初めは大いに戸惑ったに違いない。が、同時に惹かれていかれた。初めての淡い想い。初恋であった。歳を経て、権勢のすべてを手にした女帝の初恋である。この想いは、可憐な少女の初心な恋とは違い、時に陰湿で邪悪なるモノまで秘めてしまった。道鏡はそこに付け入るように、称徳女帝に寄り添った。もしかすると道鏡自身も、女帝に対して本気で恋をしていたのかもしれない。歴史は勝者によって作られてきた。すなわち勝者に都合の良い歴史である。であれば、この後に起こるスキャンダルはすべてがでっち上げであった可能性とてある。しかし称徳女帝を止められる人物は誰もいなかった。称徳女帝は道鏡太政大臣に据え、法王と呼ばせて、仏教理念を軸にした政を行なった。すべては道鏡の思うがままであった。道鏡の弟や一門は次々に廷臣になり昇進していった。道鏡政権は六年ほど続く。これには藤原氏ら既存勢力が面白く思うはずもなかった。そして、ついに宇佐八幡の神託事件が起こる。

称徳女帝は、太宰主神と務めていた中臣習宣阿曾麻呂より、

道鏡皇位継承すれば天下泰平である」

との神託があったと奏上を受ける。多分に称徳女帝と道鏡の謀に相違なく、阿曾麻呂はそれを忖度した。昨今騒がれてきた忖度は、この当時には出来上がっていたのである。かくしてこの神託により大和朝廷には大激震が走る。そして、一気に公卿廷臣による道鏡排斥が加速する。これに危機感を抱いた称徳女帝は、宇佐八幡宮に正式に勅使を派遣して、再度神託を得ることにした。女官の和気広虫に命じたが、病弱な広虫はこれを固辞、それで弟の清麻呂宇佐八幡宮への勅使に選ばれた。果たして和気清麻呂は、宇佐八幡宮より神託を持ち帰り称徳女帝に如此奏上した。

「皇国は開闢このかた、君臣のこと定まれり 臣をもて君とする、いまだこれあらず 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ 無道の人はよろしく早く一掃すべし」

これに不快を示された称徳女帝は、清麻呂因幡国へ左遷。加えて和気清麻呂から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)へ改名までさせて、さらに僻地の大隅国流罪にしている。極めて稚拙な行動とも云えるが、これは思うようにならない女帝の精一杯の意趣返しであったし、よく見れば称徳女帝の一途かつ激情的な性格が手に取るようにわかる出来事と云える。結局、どんな手を使ったとしても、この時代にはすでに天皇個人の力は随分と弱くなってしまったのである。天皇親政は夢のまた夢となってゆく。道鏡の目の付け所は間違いではなかったが、それ以上に既存勢力の秩序ははるかに高い壁であった。

神護景曇四年(770)、称徳女帝は崩御された。これにて弓削道鏡は失脚。しばらくは女帝の供養を担い平城京にとどまったが、突如下野薬師寺別当へと左遷され、二年後に彼の地で没している。一時は皇位継承寸前まで上り詰めながら、東国の下野へ文字通り下野した道鏡の失意は容易に察することができる。が、道鏡が左遷だけで終わったことを考えてみると、この神託事件がでっち上げであった可能性も否定はできない。皇統を乱そうとした大罪人として、処刑や流罪にならなかったのは確かに疑問である。が、今それを私が考証する余地はないが、神託事件すなわち道鏡事件は非常に興味津々たる事件であるので、これからも注視してみたい。道鏡は庶人として葬られた。栃木県下野市にある龍興寺には、道鏡の墓とされる塚がある。先年私も行ってきたが、一時権勢を欲しいままにした者の墓とは想像もできないほど慎ましい墓であった。龍興寺は大変良く整備された立派な寺で、道鏡の汚名を晴らすべく、今も努めておられる。近くの下野薬師寺跡をはじめ、周囲には律令時代の面影がうっすらと残っている。かつてはこの辺りが東国の中心であった。。当時は奈良の都からすれば、下野は地の果てであった。下野薬師寺は天下の三戒壇とはいえ、少し北へ行けばみちのくである。道鏡はこの地で何を思ったであろう。それにしても茫漠たる坂東平野には枯れ薄がよく似合う。

和気清麻呂は称徳女帝崩御の後、許されて再び平城京へと戻って、廷臣として奉仕した。光仁天皇桓武天皇と仕え、後に平安京造営に尽力し、公卿にまで上り詰めている。和気清麻呂道鏡という野心家から皇統を守った。楠木正成らとともに歴代天皇より格別の忠臣とされ、各地の神社に祀られている。京都御所の近くには清麻呂を祭神とする護王神社があり、東京の皇居の濠端を大手門から竹橋の方へ歩くと、和気清麻呂銅像が建っている。皇居外苑楠公像とともに今でも皇室を守護しているかのようだ。

青丹よし奈良時代は、終幕に入った。道鏡の出現で政治と仏教の癒着は容易には解けぬほど複雑に絡んでしまった。大和朝廷の政治は腐敗し、それに乗っかった南都六宗をはじめとした奈良仏教は堕落していった。そして称徳女帝の後、徳川時代初期の明正天皇まで、八百五十九年もの間女帝は出現しなかった。