弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一前九年•後三年の役一

藤原頼道が関白を降りた翌年、治暦四年(1068)後冷泉天皇崩御された。後冷泉天皇に皇子はおられず、異母弟の皇太弟尊仁親王践祚後三条天皇として三十五歳で即位された。頼道の後は弟の教通が関白を七十三歳と云う高齢で継いだ。しかし、天皇との外戚関係はなく、加えて頼道、教通の娘は誰も皇子を産んでいなかった。後三条天皇の父は後朱雀天皇だが、母は三条天皇の皇女禎子内親王である。藤原氏の娘ではなく、皇族の女性を生母とする天皇は、宇多天皇以来百七十年ぶりのことであった。『愚管抄』には後三条天皇が「外戚関係のない摂関家など何ほどでもない」と豪語されたとある。外戚の威権から解放された後三条天皇大江匡房ら学識者を側近として重用され、脱藤原摂関家を目指して積極的に親政を推進される。もっとも天皇も側近たちも摂関家を敵視していたわけではない。が、親政が始まると摂関家の影響力に翳りが見え始めたのは否めない。後三条天皇は多くの治績をあげられたが、中でも荘園整理事業と公定枡の制定は有名だ。ことに荘園の整理には力を入れられ、太政官に記録荘園券契所を設置し、専従の役人を置いて、荘園整理の徹底を図られたのである。当時、全国に荘園が広がり、国司による徴税が滞り国家財政に支障をきたすようになっていた。そのため後三条天皇は「延久の荘園整理令」を発せられ、天皇の代替わりごとに荘園を整理して、新たな荘園の設置を制限し、違法性のある荘園は停止して公領として回復させた。こうした政策は、膨大な荘園を手に入れることで権勢を築いた摂関家の首根っこを抑える効果があった。この政策は後世その性格を変えながらも再三復活し、あたかも天皇親政を象徴する事業とみなされるに至った。さらには皇室経済の強化を図り、各地に勅旨田を設定、後三条院勅旨田の名で後世まで伝えられた。もっともこれらの政策は後朱雀、後冷泉天皇の御代から始まっており、後三条天皇は父帝と兄帝の意思を継がれて、摂関家の力が弱まってきた背景を見計らい、総仕上げをなされたのである。そして、いまひとつが十年前に焼失した大内裏の再建事業で、その中心たる大極殿後三条天皇の御代に落成した。

摂関家の隆盛も斜陽となってきた。藤原道長は生前、摂関を頼道から弟の教通へ、教通から頼道の子へと云う継承を望んでいた。頼道は父の遺言どおり教通へ関白を譲り、その際に息子師実への継承を含ませておいた。しかし、教通は自らの息子の信長へ継がせたい気持ちが次第に大きくなってゆく。当然であろう。しかし思わく通りとはいかず、頼道が八十三歳で死去すると、翌年には教通も八十歳で死去。関白は予定通り師実が引き継いだ。

後三条天皇の親政は順調に思われたが、御在位はわずか四年半のことで、三十九歳で退位され、二十歳の東宮貞仁親王に譲位された。これが白河天皇である。上皇となられた後三条院は、ただちに院庁を開かれ、院司と呼ばれる職員が任命された。院庁は上皇の家政を執り行うものだが、後三条院は白河天皇を後見して国政を主導する考えがあったとも云われる。摂関家を抑制して政治を進めようとされた、この時を院政の始まりとする説もあるのだが、後三条院は譲位されて半年もたたぬうちに崩御されたため、真意は定かではない。一方で、後三条院は摂関家に対して反感はもたれたが、親政を強行されたとは云えず、政治体制としては後朱雀、後冷泉のそれを受け継いだに過ぎないとの説もある。むしろ摂関家の力を弱めたのは摂関家内部の対立であって、たまたま後三条天皇の御代にそれが明るみとなった。いずれにしても時代の節目、変わり目であったことは違いなく、いよいよ平安時代が末期へと入るのである。

藤原道長が世を去った頃からその序章は始まり、動乱の始まりを象徴するかのような出来事が、東国を舞台に勃発した。上総、下総一帯を支配下に置く平忠常が反乱を企て、安房守を焼き殺した。朝廷は追討使を派遣、内乱は数年続いた。甲斐守源頼信がようやくこれを鎮めたが、火種は東国各地に残っていた。かつて平将門が起こした内乱の火種は百年以上経っても燻っていた。さらにこれより四半世紀のち、今度はみちのくを舞台に大乱が起きる。かつて蝦夷から大和朝廷に帰順した俘囚の長安倍氏は、侵攻を繰り返しながら再び奥州の支配権を拡大していった。

話を少々遡る。律令制が整い始めた頃より、奥州は畿内勢力の憧れの地であった。権力者は広大で肥沃な大地を求めて、みちのくの原住民を蝦夷と蔑称し、極めて強引なる手法で侵略した。しかし蝦夷大和朝廷の想像以上に強かった。桓武天皇坂上田村麻呂に派兵を命じ、阿弖流爲率いる蝦夷をようやく平定したが、平定までには二十年もかかっている。阿弖流爲は身柄を拘束されて平安京へ護送され、田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑された。そもそも完全なる武力鎮圧ではなく、和睦であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。蝦夷の強さを思い知った朝廷は、その後は静観していた。が、平安後期になると土着の豪族安倍氏がみちのくの独立を画策し、北上川流域に防御壁や城砦を築いた。安倍氏は朝廷への貢祖をせず、いよいよ事態を看過できなくなった朝廷は、ついに安倍氏討伐のために陸奥藤原登任を大将とし、軍勢を差し向けるが、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒、登任は更迭され、代わって源頼義陸奥守に任じられた。頼義は武勇の誉れ高く、安倍頼時は恭順したが、すぐさま軍門に下るというわけにはいかず、膠着状態が続いた。頼義は刺客に襲われたが、これが頼時の息子貞任の仕業であると讒言され、頼義は貞任を引渡すよう求めたが、頼時はこれを拒否、ここに再戦となり安倍氏は滅亡した。これが奥州十二年合戦の前半戦、すなわち前九年の役である。この乱は十年近くも続いたが、実際の合戦は一年にも満たない。

安倍氏は倒されたが、その後も小競り合いは各地であって、鎮火せぬまま燻り続けた。散々に抵抗された上、朝廷はみちのくを完全に支配下に治めることはできずにいた。その様な大乱世に藤原清衡が生まれた。辛い幼少期を過ごしてきた清衡の心中には、朝廷に対する遺恨と警戒が、強く植え付けられたであろう。しかしこの経験は清衡を強く育んだ。清衡の父経清は国司として陸奥に下向した。出自は藤原秀郷の傍流の坂東武士であるらしい。よって中央政権の藤原氏とはまったくの別流である。経清は安倍氏から妻を娶り、天喜四年(1056)、嫡男清衡が生まれた。父は前九年の役では源氏に反旗を翻したため、処刑されたが、母が源氏に味方をした出羽国清原武貞と再婚したため、七歳の清衡は助命されたのである。安倍氏から奥州の覇者は清原氏に代わった。

しかし、今度は清原一族で骨肉の争いが始まる。後三年の役である。清原武貞には正妻との間に真衡という嫡男がいて、武貞亡き後家督を継いだ。また清衡には異父兄弟の家衡もいた。この頃、源義家陸奥守になった。真衡はかねてより不仲であった叔父の吉彦秀武を討つべく義家に願い出た。許しを得ると出羽へと出陣した矢先、吉彦と気脈を通じていた清衡と家衡兄弟は、真衡の拠点を襲撃した。しかし、用心深い真衡は事前に察知し、守りを強化、義家の援軍もあって、クーデターは失敗した。清衡はこれまでかと思ったが、なんと真衡が急死してしまう。私の推測に過ぎないが、ここまで話が出来すぎているのも、或いは清衡と義家は結託して、真衡を暗殺したのではあるまいか。いずれにしろ義家はこれ以上の争いを避けるべく裁定し、清衡と家衡に陸奥の六郡を与えたが、今度は家衡がこの裁定を不服とし、清衡を憎むようになる。ついに清衡の館を襲い妻子を惨殺したが、清衡は危機一髪で逃げ延びて、義家に助けを求めた。こうして清衡と家衡の兄弟で戦い、最終的には兵糧攻めに成功した清衡と義家に軍配が上がるのである。これが後三年の役である。終結後、清衡は清原の名を棄て、父経清の姓である藤原に帰することにした。ここに奥州藤原氏が始まるのである。

このあと奥州藤原氏の栄華は、基衡、秀衡と三代百年に渡り続き、その都平泉は、京都に匹敵する大都市として中央と一線を画す。奥州藤原氏は仏法を敬い平泉を中心に仏国土を創造した。その燦然たる名残は中尊寺毛越寺に見られる。おくのほそ道をゆく芭蕉も平泉を訪れた。

夏草や兵どもが夢の跡