弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(一)

去年、坂東三十三観音巡礼を結願した。巡礼記は別途書くつもりだが、とにかく関東平野を廻り巡ったことは、私にとって生涯の財産と成り、同時に関東の広さと奥深さに深い感銘を受けた。関東一円を巡ったついでに、私は長年気になっていた北関東の寺社の多くを訪ねる機会を得た。此度は、印象に残ったそのいくつかに触れたいと思う。北関東は首都圏に含まれるが、南関東に比べて、人も時間も齷齪していない。日本最大の平野の雄大な風景を枕にして、寺社は坂東らしく質朴であり、どっしりと落ち着き払って見える。

 白河関に行った朝、その足で八溝山に行った。途中で、栃木県大田原市に在る那須神社、黒羽大雄寺、臨済宗の古刹雲巌寺に立ち寄る。大田原市は、下野国の大田原藩と黒羽藩があったところで、奥州街道において坂東最北の地として枢要な地であった。ゆえに徳川時代には外様とはいえ、細かく領分し、幕府に従属させた。これが幕末までは一応成功したといえるだろう。大田原市内には由緒ある寺社が今も数多く点在する。まずは那須神社に向かう。大田原市の臍の様な場所に鎮座する那須神社は、正式には金丸八幡宮という。八幡神といえば源氏の氏神であり、古来より武家に崇拝されてきた。この社は那須与一と関わりの深い神社だと伝わる。今、神社に隣接して那須与一伝承館まである。源平争乱の屋島で、弓矢の名手として義経に指名された家来の那須与一宗高は、平家方の舟に立てられた扇の的を見事に射抜いて魅せる。この時ばかりは、源平双方破れんばかりの拍手喝采で、源氏は箙を鳴らして喜び、平家は舟板を叩いて称えた。平家物語の見せ場の一つである。与一は弓に鏑矢を掛け、扇の的を見据えた。ここで己が的を外せば、源氏にも自分にも未来はない。我が一矢をもって趨勢が決まると思った。そして、瞼を閉じて祈念した。

「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて給ばせ給へ これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず 今一度本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな 」

と心の中で呟いた。風が止んだ。凪も止まった。瞬く間であった。鏑矢は金色に輝く扇の日の丸を射抜き、静寂の夕凪に扇がはらはらと舞い落ちていった。この時、源平の盛衰は定まったのである。史実でも伝説でも構わない、文学的にはまさしく的を得た場面である。私は中学の古典の授業で、この一文を覚えてから、那須与一のことが気になっていた。中世に那須氏は下野国北部一帯を統治した。那須与一はその祖と云われるが、そもそも与一自身が実在したのかも謎で、出生地も定かではない。だが、後日談から湧いた那須与一像は、那須一族の誇りであり、今もって大田原市民の自慢なのである。神社は街道筋にあるため、周囲は車がよく走るが、境内へ一歩入れば森閑としている。まず参道が良い。一の鳥居から二の鳥居まで長い一直線で、端から端までは霞んで見える。流鏑馬も行われるらしいが、林間の一本道には、如何にも勇猛果敢な坂東の騎馬武者が、颯爽と走ってきそうな雰囲気がある。一説によれば、社としては仁徳時代(313年〜399年)の創建の古社で、延暦年間に坂上田村麻呂蝦夷討伐の折、八幡神を勧請したと伝わる。その後代々この地の領主に厚く信仰された。江戸期の領主黒羽藩も例外ではなく、風格漂う楼門は寛永期に黒羽藩が寄進したとか。このあたりでは珍しいのが楼門前に架かる石橋で、神域に威厳を添えている。この神社の格式と、昔から貴賎を問わずに大切にされてきたことを語るような佇まいである。社殿は簡素だが精緻な彫刻があって、社殿を取り囲む木塀は一部朽ちかけているものの、この規模で造られた事を考えれば、やはり崇敬篤き神社であったことがわかる。

 中世、下野一帯を支配した那須氏はこの地で連合組織を作った。主家たる那須氏のほか、那須一族の盧野、伊王野、千本、福原の四氏と、重臣の大関、大田原の二氏である。合わせて那須七騎と呼ばれた。六氏は、主家那須氏とは持ちつ持たれつの関係で、時に反抗もした。その那須七騎の一つ大関氏が、徳川幕藩時代に黒羽藩一万石を治めた。その城址那須神社から東へ少し行ったところにあり、その城内に菩提寺の大雄寺もある。高校野球で有名な作新学院は、幼稚園から大学まであるが、元は黒羽藩の藩校作新館であった。特に一昨年の夏の甲子園を優勝した作新学院高校は、日本一の生徒数を誇る大規模な学校で、今も文武盛んである。黒羽藩は小藩ながら江戸後期には若年寄まで務めた由緒があるが、動乱渦巻く幕末において、こうした異例人事は珍しくもない。会津藩京都守護職を筆頭に、勝海舟幕府陸軍総裁、北陸敦賀にて天狗党を討伐した田沼意尊は、田沼氏では意次以来久々に表舞台に登場する。(もっとも田沼家は意次失脚後も代々若年寄を務めてはいる)。新撰組も、彰義隊も、見廻組も、遊撃隊も、封建泰平の世ならばあり得ない組織である。思えば北関東は、上野国下野国の諸藩は、幕末の最終局面ではほとんどすべてが官軍に寝返っており、此処、黒羽藩も倒幕に傾いている。おそらく幕府は、事前に若年寄というアメを与えて懐柔を図ったのだろう。しかしその恩は報われなかった。黒羽藩は小藩でも、上野、下野の他藩と一連托生し、力を蓄えた。その藩主大関家の菩提寺が大雄寺なのである。寺は黒羽城址に閑雅な趣で建っている。創建は応永四年(1404)。森の中の緩やかな坂道の参道を昇ると、どっしりとした茅葺の本堂が現われる。野趣溢れる寺の佇まいは、いかにも坂東に似つかわしい。昔話の世界に惹き込まれたような、美しい大屋根は、武家菩提寺という厳しさよりも、禅の古刹としての風格が漂う。本堂を取り囲む茅葺の回廊は、寺というより学校の様で、明るく開放的で良い。背景には城山の緑と紺碧の晴天。茅葺の寺は方々で見てきたが、こんな雰囲気の良いお堂はなかなかない。北関東にはこうした寺が、まだまだたくさん隠れているのである。

禅宗は我が国に伝来して以来、日本独自に発展を遂げた。禅は日本の風土、日本人の性格にまことに適した宗派であったと思う。臨済禅は、宋から栄西によって我が国にもたらされ、鎌倉にて萌芽し、京にて広められた。その後、鎌倉幕府室町幕府に庇護されて、武家の仏教としての地位を確立した。現在、臨済宗は多くの宗派に分かれていて、京都五山鎌倉五山の各派、南禅寺派大徳寺派妙心寺派、向嶽寺派、永源寺派、方広寺派、仏通寺派、興聖寺派、国泰寺派がある。中で妙心寺派は、最大派閥である。日本の臨済宗寺院の総数は六千余りだが、実に三千五百ヵ寺以上が妙心寺派だと聴く。なるほど日本仏教の一大勢力に違いない。その妙心寺派に属し、越前の永平寺、博多の聖福寺紀州の興国寺とともに、日本禅宗の四大道場と云われるのが、東山雲巌寺である。門前には武茂川という急流が流れており、いかにも清冽な瀬音が、寺の足下から境内全山を包みこんでいる。禅の道場とはいえ、坂東の果ての山中に、このように立派で美しい寺が現れたことに私は歓心した。朱塗りの橋を渡ると、石段の上には堂々たる山門が、訪う者を迎える。確かに厳粛な禅刹であって、かつては多くの雲水が、日夜厳しい修行に勤しんだことを彷彿とさせる。私の様な興味本位の無頼の徒は、驚懼して山門を潜らねばならない。それにしても静かである。今でも修行の寺に違いなく、観光寺院ではない。人知れず、しかしどっしりと在る雲巌寺には、風と鳥の声のみが時折しじまを切るが、境内には庭仕事をする寺男がひとりいるばかりで、参拝者はおろか雲水一人見かけなかった。雲巌寺の本尊は釈迦牟尼仏で、釈迦三尊を祀る仏殿が本堂にあたる。仏殿はてっぺんに宝珠を頂く様式で、禅刹には珍しいものだろう。山奥に密かに祀られている美しい御仏は、こうして書いている今も、そしてこれからも、あの場所で優美に座して、雲水を先導し、衆生を守護している。仏殿から少し登ったところに方丈や禅堂があって、山の斜面を巧みに利用した伽藍となっている。雲巌寺の創建は大治年間(1126~1131)と云われ、叟元和尚の開基とされる。開山は高峰顕日で、寺格を整えたのは夫人が高峰顕日に帰依し、自らも禅の影響を受けた北条時宗である。時は移り天正六年(1578)年には、無住妙徳が住職となって妙心寺派となった。 天正十八年(1590)、秀吉の小田原征伐で、烏山城那須資晴は抵抗し、城攻めの際、領民は雲巌寺にて匿われたと云う。小田原北条氏もこの寺を庇護したため、豊臣方は堅牢な要塞と判断し、火を放った。以来荒れ寺となっていたが、江戸期に復興し、 芭蕉奥の細道で立ち寄った寺でもある。芭蕉は黒羽に二週間あまり滞在し、那須神社にも行っているし、おそらく大雄寺も訪ねたであろう。名所旧蹟、その土地の名の知れた神社仏閣をくまなく廻っていることには、改めて感心するし、根っからの旅人であり、数寄者であった。境内には住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑がある。奥の細道には次のように記されている。

当国雲巌寺の奥に仏頂和尚の山居の跡あり。

 竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば 

と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと雲巌寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある気色にて、谷道遥かに、松、杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。

 木啄も庵はやぶらず夏木立 

と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。

仏頂和尚は芭蕉と昵懇の臨済僧で、参禅の師であったとも云われるが、この時はもう亡くなっていたのではなかろうか。昔、芭蕉は仏頂和尚から自らの和歌を、庵に松の炭で岩に書き付けたことを聴いていて、それを見るために雲巌寺を訪ねた。その話を道中に誰かに話したのか、芭蕉曽良を案内する若者の連中がいた。卯月が陰暦の四月で、陽暦では初夏であるが、その頃でもこのあたりは陰気で寒い場所であると語る。十景とは雲巌寺十景のことで、霊石の竹林、海岸閣、十梅林、竜雲洞、玉几峰(たまきみね)、鉢盂峰(はちうみね)、玲朧岩(れいろういわ)、千丈岩、飛雲亭、水分石(みまくりいし)のことらしいが、今その十景がどこなのかは私にはわからず、芭蕉もさしたる興味は示さずに十景のみで片付けている。仏頂和尚の山居跡は、仏殿の方丈のさらに上の山中にあるというが、さすがにそこまで探そうとは思わなかった。が、山の木啄さえも、仏頂和尚の徳を慕い、その庵に穴をあけることはないのだと詠んだ芭蕉は、大切な友人であり、禅師であった仏頂和尚への尊敬と、手向けの一句を捧げるために、ここまで足労したに違いない。芭蕉は歌枕の地を訪ね、名所旧跡に歓喜感涙しながら奥の細道を旅をしたが、雲巌寺は、俳人としてよりも、自らの想い出を振り返りつつ、師を偲ぶために訪ねたように思われてならない。芭蕉は人間関係を極めて大切にしていた。名うての数奇者であり、当代一の俳人であって、伊賀者とも噂される松尾芭蕉の、まことに情け深い一面をここに見たように思いがする。