弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

よかにせ

私は旧島津領の生まれである。ゆえに話す言葉は、ほぼ薩摩弁であった。ほぼ薩摩弁としたのは、鹿児島城下と他の地域では微妙に違いがあるからで、鹿児島城下が薩摩弁の標準語であれば、他の地域はその地域毎の薩摩弁であったからだ。イントネーションは島津領全域で大体似ていたと思う。幼い頃は祖父からよく西郷隆盛の話を聞いた。祖父は西郷を「南洲先生」と呼んで敬愛していた。また時には親しみを込めて「せごどん」とか、「さいごうどん」と呼んだ。西郷の話をする時の祖父は実に楽しそうであった。会ったこともないのに、まるで自分自身が西郷の傍に仕え、さも見てきたように西郷の偉大さを誇らしげに語るのだった。下級藩士から陸軍大将まで上がった西郷隆盛は、鹿児島のみならず南九州最高の人であることを、小学生の私に祖父は滔々と話して聞かせた。しかし、祖父が本当に好んだ西郷像とは、島津斉彬の密命に暗躍したり、戊辰の役での参謀とか、新政府においての参議とか陸軍大将としての西郷ではなくて、地元にいるときのおはしょりに兵児帯姿で、犬を連れて歩く、気儘の西郷であった。祖父の西郷への敬愛ぶりは、西南の役の話に及ぶと落涙するほどであった。暗澹たる気持ちになり、まことに寂しげに西郷の悲運を嘆いた。西郷隆盛は維新の立役者の一人として表舞台に立っても、他の連中とは明らかに違っていた。引くことを弁え、負けることの意味を誰よりも知っている男であった。祖父の影響で私の描く西郷隆盛像は、国家の英雄とか、維新の元勲ではなく、薩摩の一民政家であり、民の味方であった優男である。西郷隆盛は「よかにせ」であった。こういう大きくて包容力のある男を薩摩では「よかにせ」と呼ぶ。近頃は器量の良いいわゆるイケメンを指して「よかにせ」と呼んだりするが、本来は西郷のような豪快で、情に脆く、心優しい薩摩男子を「よかにせ」と言った。

私は日本史が好きで、少しばかり学んでみてはいる。幼い頃から歴史に関心があったのだが、本当にのめり込んでゆくのは、祖父から聞いた西郷隆盛大久保利通ら維新の志士たちの話がきっかけである。日本史への入り口は幕末なのであった。今でもやっぱり幕末が一番面白い。時空を遡ってどこかの時代にゆけるならば、私は迷わずに幕末維新へとゆくだろう。幕末維新ほど目紛しく事が展開する時代はなく、あれほどダイナミックに日本が大転換した時代はない。故にこの時代は、日本史上もっとも多くの偉人が次々と現れている。彼らは皆それぞれにドラマを創った。ドラマは単なる筋立てではなく、それを本気で実行しようとした。私は歴史上の人物であんまり偉大すぎる人とか、世間一般に認知されている人物、またヒーローに祀り上げられている人物には関心がもてない。どちらかと云えばヒール役とか、影武者とか、隠然たる力で世を操るような老獪な人物に惹かれる。幕末においてもそうであったが、ここのところ少しずつ考えが変わってきている。やっぱりあのご両人の凄さというものに、今ようやくというか、改めて気づかされている。坂本龍馬西郷隆盛である。幕末維新のヒーローはそれぞれいるだろうが、ヒーロー投票があれば坂本龍馬西郷隆盛のご両人が他を圧倒するだろう。司馬遼太郎さんの影響が多分にあるに違いない。ご両人は現代人に格別人気があって、事実眩しい。

土佐では豪快で気骨のある男を「いごっそう」と呼び、薩摩では「よかにせ」と呼ぶ。「いごっそう」と「よかにせ」は微妙に違う部分があるが、共通点も多いように思う。坂本龍馬はいごっそうで、西郷隆盛はよかにせであった。ご両人が現代人に眩しいヒーローであるのは、未来を見据えた行動力と、根っからの正直者であったからだろう。即ちご両人は真面目に時代と向き合ったのだ。人間が単に真面目であるというわけではなく、時勢を読み、五十年、百年先の日本を真面目に想像して、思考し行動したということである。西郷隆盛西南の役で自ら人柱の如く立ったのは、決起の士族たちや、新政府の大久保利通らに範を示したのみではなく、その後の日本が直面する対外戦争を見越して、争うことの愚かさということを、新時代を生きる日本人に見せようとしたのではなかったか。戊辰の役での無情な殺戮を、目の前でつぶさに見てきた西郷には、ずっと忸怩たる想いが胸中を支配していた。その想いに押し潰されそうに生きることは、辛かったであろう。西郷亡き後、躍進を遂げた明治日本は、日清戦争日露戦争で奇しくも辛勝した。そのあたりから日本の勘違いが始まる。そうして勘違いしたまんま泥沼の昭和戦争に突入する。その呪縛は昭和二十年まで続いた。

戦後日本は経済大国となり、別の道で大躍進を遂げた。が、今はどうか。世情は何とも世知辛い。一見華やかで豊かになったようだが、中身はまことに空虚であり、潤いのない、まさに浮き世が展開している。世界中で戦争はくり返され、子供達が泣いている。日本国内は貧富の格差が広がり続け、ある部分ではバブル以上に、右向け右の個性のない人種が蔓延り、少しでも異質であるとされた者を村八分にして陰湿にいじめる。親が子を虐待し、子が親を殺す。必要としているところに金は廻らず、どうでもよい無駄なところに湯水の如く金が流れてゆく。二十一世紀を生きる日本人を西郷はどう見ているだろう。龍馬や大久保はどう見ているだろう。明治百五十年という節目であった今年も、まもなく終わる。平成という時代もあと四ヶ月余り。我々現代人は、幕末維新のヒーローに憧れているばかりではなく、彼らを手本にして一人ひとりが行動を起こさねばならない。私の祖父のあたりまでは真の「よかにせ」はいたと思うが、今は絶滅寸前なのではないだろうか。

「南洲先生、今ん日本はどげんじゃろうかい?今ん日本に、よかにせはおらんとじゃなかろかい?どげんじゃろうかい。せごどん。」

 

なおすけの平成古寺巡礼 本山慈恩寺

八月に山寺を訪ねた夜、山形在住の知人と食事をした。彼は寒河江の人で、生まれてからずっと山形を出たことがない。車でわざわざ山形市内まで出向いていただき、また美味い蕎麦を味わった。食事の後、とっておきの場所があるからと、夜のドライブに連れ出してくれた。山形市から西へ五キロほど走ると、白鷹丘陵にあたる。背後に朝日岳を控えたこの丘陵は、一番高い白鷹山(標高994m)を中心とし、他の山々を含めた丘陵一帯が、県民の森として整備されている。県民の森は、山形市南陽市山辺町、白鷹町の二市二町に跨いだ広大な公園で、ここの山上からの夜景が素晴らしいと云う。寒河江はこの丘陵よりもっと北になるらしい。車は、いろは坂のようなヘアピンカーブをぐんぐん登った。丘陵には大小多くの湖沼があり、車窓からも大きな沼が見えた。てっぺん近くに樹々が開けた場所があり、そこからの夜景は話のとおり美しかった。眼下には明滅する山形市街の灯が、まことに程良い夜景規模で展開している。東京などの大都市は明るすぎて煩い夜景であり、私にはなんとも大味に感じるが、山形の夜景は私好みの豊かな夜景である。目を上げると満天の星空が広がっていた。時折、物凄く近くを流れ星が走り去る。夏の夜空でも流星がこれだけはっきり見えるのに私は嬉々とした。昔、真冬の甲府盆地でこれと似た夜景を堪能した。上にも下にも綺羅星が輝いていた。私は風景も一期一会だと思っている。あの日以来あんな景色は二度と見れまいと思ってきたが、山形へやってきて再びその景色を眺められた。夜の山形盆地は何かに守られるように、安心して眠りに就こうとしている。昼間は小雨が降って蒸し暑かったが、夜はすっきりと晴れて心地良い。夜の山形はもう秋の気配であった。

山を下りながら、「明日は最上川下りをして、慈恩寺へ行こうかと思います。」と私が言うと、慈恩寺は彼の家から目と鼻の先にあるため案内してくださると言う。願ったり叶ったりで、誠に図々しくもお願いした。

翌朝ホテルを出て、ひとまずは奥羽本線で村山まで行き、タクシーで船着場のある碁点橋まで向かった。最上川下りは何箇所かにあるが、私は村山の碁点橋から長島橋までのおよそ十二キロを五十分かけて、碁点、三ヶ瀬、隼と云う三つの難所をゆく急流下りを選んだ。舟下りの運営会社とタクシー会社が協力して、村山駅からワンコインで船着場に連れて行ってくれた。運転手さんは、「このところ最上川の水量が低いから、大丈夫かな。」と言う。水量が低いと危険なので運航中止もあるらしい。先日の台風では橋桁の直ぐ下まで水が上がったらしいが、急流ゆえに引くのも早いのだろうか。最上川は暴れ川で、一雨降れば轟々たる音で逆巻きながら流れてゆくが、あっという間に日本海へと至る。船着場に行ってみたら予定通り舟は出るとのことでホッとした。屋形舟のような座敷舟に、客は私と三人の親子連れのみ。ほとんど貸し切り状態なのはありがたかった。

舟はゆるりと下りだした、水嵩が少ないとはいえ、やはり羽州の母なる大河最上川。流れは早く、舟が時々蹴る波飛沫はまことに豪快であった。護岸工事がほとんどされていない緑溢れる岸辺を横目に、舟は翡翠の如く流れゆく。水は清冽にして雄渾。進行方向には葉山(標高1461m)が見えつかくれつし、遥か西方、雲の向こうには出羽三山(主峰月山1984m)があろうことを想像しながらの舟旅は、これ以上ないロケーションで旅情を駆られる。ガイドのおじいさんが、また何とも言えず味のある語り口で、山形弁を織り交ぜながら、最上川の歴史を語る。ゆるりとした話を聴いていると、暑さも忘れて眠くなってきた。様々な語りの中で私の興味をそそったのは鳥の話であった。川面から顔を出す岩の上に黒羽を広げて休んでいるのは川鵜。たくさんいる。何でも昔は川鵜は東北にはいなかったそうだが、最近はよく見かけるらしい。確かに東北には鵜飼いはない。これも温暖化の影響であろうか。動植物は少しずつ北上しつつある。本物の翡翠も姿を見せてくれた。岸辺には時々大きな青鷺がジッと川面見つめて立っていたかと思うと、急に飛翔して、舟の上を滑空していった。おじいさんの話では、青鷺が集まってくると雨になると、昔から伝承されているらしい。水嵩が増して、川上から青鷺の餌となる魚が多く流れてくるのだろうか。今でも最上川流域で暮らす人々にとって、青鷺や川鵜の動向が気候や空模様を知る上で、大切な手がかりになっていることに私は感心した。自然の呼吸に逆らわずに暮らしているのだ。有史以来最上川は、この地域の人々が生きてゆくのに欠かせぬ川であった。飲み水、稲作、畑作はもちろん、魚も採った。舟運は平安時代から始まったらしいが、時代が降るに連れて物流の大動脈となり、酒田から北前船が出るようになると、出羽国のみならず、北の大動脈の役割を最上川は担っていた。地産の米、大豆、小豆、紅花は西回り航路で上方や江戸に大量輸送され、戻り船では、塩、魚、茶、上方や江戸の文化が届けられた。最上川は吾妻山に源を発して、右往左往を繰り返しながら、羽州を潤して、酒田にて日本海へ注いでゆく。

やがておじいさんの最上川舟歌が始まった。最上川舟歌は、盛んであった舟下りを彷彿とさせるが、男歌なのに、どこか切ない節回しで、聴きながら最上川を下ると、それが実感として胸に迫ってくる。そこにはきっと雪深いこの土地で、命懸けの仕事をしていた男達と、無事の帰りを待つ女房や、酒田にいる女達の気持ちが込められているからではないか。最上川と共に生きて、働いてきた人々の姿が瞼に浮かぶようであった。舟は巨巌を超える碁点を越え、周囲の岩礁により鳴門の渦のように流れが逆巻く三ヶ瀬をスリル満点ですり抜けてゆく。隼は最上川最大の難所で、近くまで行って見せてくれるが、さすがに越えることは安全を考えると困難とのこと。下船して対岸の公園からその場所を見せてもらったが、浅い段々の岩肌が見えており、水量が低いのにその先は黒々とした淵で、急な早瀬になっている。此処を越えるのはまさに命懸けであったろう。

おくのほそ道をゆく松尾芭蕉は、山寺を後にして、最上川を下っている。私の拙い文章なんかより、端的にわかりやすく最上川の情景を感じることができよう。

最上川は、みちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん、はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ひまに落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

五月雨をあつめて早し最上川

現代人は舟下りを観光として楽しむが、かつては大事な交通機関であった。とは言うものの、松尾芭蕉はずっと歩いてきたおくのほそ道の旅路で、ここでかの最上川を舟下りできることを、本当に喜び、曾良と二人楽しんだに違いない。この一句には、彼らの浮き足立つ様子がよく反映している。人は川に対してある種の憧れを抱いている。芭蕉も同じで、最上川に対する想いは深い。後に酒田に到達した芭蕉は、最上川をもう一句詠じた。

暑き日を海に入れたり最上川

これぞおくのほそ道の最高の句であると私は思う。今回は行けなかったが、この句の追体験はいつか酒田に出向いて果たしたい。

ありがたいことに船着場まで知人が車で迎えに来てくれた。ここから寒河江慈恩寺までは、車で三十分くらいらしい。途中また蕎麦を食べる。慈恩寺も蕎麦が有名で、美味い店がたくさんある。寒河江と云えばさくらんぼも有名だ。さくらんぼの旬は初夏であるため、私の行った頃はもぎたてをいただくことは叶わなかったが、知人が道の駅に連れて行ってくれたので、さくらんジェラートやゼリーを食べることができた。お土産で月山の栃餅を買って、帰りの新幹線で食べたが、これが実に美味かった。歯応えある餅とほのかな甘さの餡子が絶妙で、私は取り寄せしようと思っている。

余談が長くなったが、昼下がり慈恩寺に到着した。慈恩寺は、慈恩宗本山となっている。この寺を知るまで慈恩宗のことは知らなかった。寺伝によれば、行基が諸国行脚してこの地の景勝を聖武帝に奏上、勅命により印度僧婆羅門が天平十八年(746)に精舎を建立したのが始まりとされる。婆羅門は行基の推挙で東大寺大仏開眼供養の導師を務めた菩提僊那のことである。この真偽はともかく、古い文献には慈恩寺の平安期のことが記されており、かなりの古刹であることは間違いない。藤原期にはこの地に広大な荘園を有した摂関家の庇護を受け、法相宗の寺として弥勒菩薩を本尊とした。その後、天台、真言、修験、時宗と多くの宗派が入ってきたが、法相の教義がこの寺の真髄にある。慈恩寺の慈恩とは、法相宗の祖である慈恩大師からであり、何より本尊はずっと弥勒菩薩である。鎌倉以降は地頭の大江氏、室町以降は最上氏が慈恩寺を庇護した。その最上氏によって寺域は拡大、保証され茅葺の立派な本堂や、三重塔も建立された。江戸期にもその勢いは継承されて、幕府からはみちのく最高の二千八百十二石を寺領とすることを許されている。が、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れた明治の初め、寺領はほとんど接収され、かつて四十八あった坊舎は、ほとんどが帰農した。それでも今は十七の坊舎が残っている。坊舎は今は完全な寺ではなく、農業をはじめ何らかの仕事を持ちながら、寺を兼ねているようだ。その本山が慈恩寺なのである。慈恩寺が慈恩宗として独立したのは戦後のことで、今は三院十七坊の本山である。

重厚な茅葺の本堂、山門、三重塔、薬師堂、鐘楼、伽藍は小高い丘の斜面に不規則に並ぶ。堂宇はいずれも端正ながら、太く逞しいみちのくの質朴な気骨が垣間見える。小ぶりだが実に優美な薬師堂、澄んだ音色の釣鐘を下げる鐘楼、今は本山としての威厳よりも、寒河江の街を見守るように、包むように静かなる寺は在る。慈恩寺と云う寺名に背かない。

私たちは本堂に上がった。外陣には古色蒼然たる茅葺の本堂からは想像できないほど、鮮やかな色彩の天井画が残っている。外陣の端には四体の鎧兜が座っていた。春に当寺で行われる慈恩寺舞楽で、若者がこれらの鎧兜を身に付けて、刀剣を振りかざしながら勇壮に舞うと云う。舞楽四天王寺から伝来したらしいが、邪気払いと豊作を祈念した祭祀なのであろう。同時に今も昔も雪国に春を告げる祭であって、人々は楽しみにしている。舞い手や舞楽の演奏者は一子相伝であると云う。慈恩寺を本山とする坊舎の人々が継承する慈恩寺舞楽は、国の重要無形文化財に指定されている。同行してくれた知人の先輩は、慈恩寺舞楽の舞い手を務めるらしく、鎧兜を纏った姿はあたかも野武士を彷彿とさせるとか。これらの鎧兜は最上義光が三重塔を寄進した際に贈ったのではないかと思う。山形のヒーローは何と言っても最上義光である。母なる最上川の名を氏とした、最上氏最高の人物である最上義光は、経世済民に心を砕き、慈恩寺弥勒菩薩にも殊の外帰依したと聞く。その義光が、慈恩寺舞楽を大切にしなかったはずはない。鎧兜とは何となく薄気味悪いモノだ。私の曽祖父の家にもあったが、幼い頃はその部屋に入ることを躊躇った。が、慈恩寺の四体の鎧兜からはそんなモノは感じなかった。きっと聖なる祭で晴れ舞台に上がるからであろう。神仏と人々を守護する武者たちである。 

本堂内陣へと入る。まず驚いたのは、秘仏の本尊弥勒菩薩がおわす厨子須弥壇が漆黒に輝いていて、まことに立派であったことだ。さすがにみちのく随一の古刹である。須弥壇には前立ち本尊の弥勒菩薩が少年のような面差しで、手を合わせる者を見つめている。仏前には、今朝摘まれたばかりの蓮の花が生けられていて、芳しい香りが内陣に漂っている。少し小ぶりのこの蓮は、慈恩寺蓮と云い、他の蓮に比べて開花が少し遅く、晩夏に花ひらく。慈恩寺の近くには、慈恩寺蓮の群生する池があって、今を盛りに美しく咲き誇っていた。一時この蓮は途絶えかけたらしいが、地元の人の努力で、今また可憐な花をたくさん咲かせている。厨子の周囲は菩薩や天部のほとけたちが守護しているが、それらがすべて圧巻の彫像であった。みちのくらしい荒削りさは皆無で、柔和で線のはっきりした姿は、近畿地方に見られる様な典雅さを備えている。それもそのはずで、寺の人によれば、これらの仏像は、摂関時代以来、京都をはじめとした西国の仏師の手になるそうだ。須弥壇だけでなく、須弥壇の下や須弥壇の奥の部屋、回廊にまで、多くのすばらしい仏像が、まるで博物館のように安置されている。慈恩寺は京都や奈良の名だたる寺院に匹敵する仏像の宝庫なのである。仏師が此方へ来たのか、彼方で製作して運んだのかは知らないが、平安、鎌倉、南北朝、室町と時代時代の特色がよく表れた美しいほとけたちである。中で私の目を惹いたのは、十六歳の聖徳太子であった。髪を鬟に結った凛々しい立像で、一文字に引いた口元には少年の立志と迷いが同居している。崇高さの中に、親しみを感じることのできる聖徳太子である。弥勒菩薩阿弥陀如来聖観音、天部、聖徳太子弘法大師がこの一堂に祀られているのは興味深い。これらの仏像群は慈恩寺が経てきた歴史の変遷を如実に示している。

本堂を出て、薬師堂へ上がる。小ぶりなお堂には、鮮やかに黄金が残る薬師三尊像と、その背後には薬師如来を守護する十二神将が並んでいる。穏やかな薬師三尊とは対称的に、十二神将は躍動感に満ち満ちており、拝する者を元気付けてくれる。十二神将は兜に十二支を載せていて、めいめい干支の守護神でもある。この十二神将は平成四年に海を渡った。ワシントンの彫刻展に展示されて、その精緻さに世界の人々をも驚嘆させたと云う。慈恩寺は仏像の宝庫と予々聞き及んでいたが、これほどの見事な仏像群が、山形の奥座敷の様なこの場所にひっそりとあることに私は感動した。戦乱や天災で失われずに済んだのは、寧ろ雪深いこの場所であったからである。慈恩寺のほとけたちは、この地に根差して生きる人々を護り、その人々によって守られている。

帰りがけ私は知人にお願いをして、慈恩寺裏手の山に登った。車で林道を上がると、てっぺんが開けていて展望台になっている。ここは山王台と呼ばれている。山王は日吉大社山王権現である。察するに慈恩寺に天台が入ってきたときに、鎮守として山王権現を祀ったのであろう。少し彷徨いてみたが、社らしきものは見つからなかった。ひょっとすると慈恩寺の境内のどこか、もしくは今も残る坊舎のどこかに祀られているのかもしれない。山王台からの眺めはすばらしかった。北から南面を広々と眺めると、滔々たる寒河江川の流れが横たわり、その向こう遥か彼方まで山形盆地全体が見渡される。東には山形市街から蔵王の峰々、南にはそろそろ穫り入れが近い黄緑色の稲田と、さくらんぼ畑が点在する美しい寒河江の街並、西の月山はさすがに見えなかったが、時々雲間の間からこちらを見下ろしているであろう。この地形を改めて見てみると、慈恩寺が天然の要害に建っていることがはっきりとわかる。推測だが、慈恩寺は大江氏や最上氏にとっては、いざという時の出城だったのではあるまいか。そして慈恩寺もかつての威容から想像して、率いた坊舎共々、浄土真宗寺内町のような一大コミュニティを形成していたのだと思う。盆地と云う地形は、夏は酷暑、冬は極寒というまことに厳しい自然環境であるが、こうして高所から俯瞰すると、巨大な掌の内側に守られているように思う。私は京都盆地甲府盆地でも同じようなことを感じた。その度にこの巨大な掌は、神の掌、或いは、ほとけの掌ではないかと思えてくる。慈恩寺はその掌のど真ん中に在る。足下から慈恩寺の鐘が聴こえてきた。鐘の音は風にのって山形盆地のずっと奥まで染み渡ってゆく様だ。こんな気持ちの良い所はそうはない。この抜けるような風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育んだに違いない。山形は偉大なり。偉大な風景が、偉大な人々を創造する。この風景に勝る場所など東京にはない。私は山形盆地に「威張るな東京」と言われた気がした。

青春譜〜さらば普門館〜

吹奏楽部員にとって秋は別れの季節である。体育部は概ね夏の大会で引退するが、吹奏楽部は十月から十一月に吹奏楽コンクールやマーチングコンテストの全国大会があるし、全国大会に出場しなくても秋には各地で演奏会や文化祭が開かれるから、それらの晴れ舞台が終われば、最上級生は引退する。この頃に引退式を兼ねて、定期演奏会が開かれる。春先の卒業式前後に定期演奏会を行う学校もあるが、私の通った中学校、高校ともに定期演奏会は十一月であった。送る方、送られる方、悲喜交々である。先輩達の引退を本気で寂しがる者、一見寂しそうに見せても、腹中では目の上のたん瘤がいなくなることに快笑する者様々である。私の場合、中学では尊敬するT先輩が引退することが寂しくてならなかったが、高校では目障り?な三年生が居なくなり、ようやく自分達が仕切れることに心中で北叟笑んだ。もちろんそこには、最上級生となる責任、不安、期待が混在していたわけだが。

先日、普門館に行ってきた。まえに普門館のことは書いた。普門館立正佼成会の所有するホールで、かつては全日本吹奏楽コンクールの会場であった。吹奏楽の甲子園と呼ばれ、吹奏楽経験者やファンには聖地とされている。東日本大震災後、耐震性に難があるとかで、使用中止となり、吹奏楽の甲子園は名古屋のセンチュリーホールに移った。普門館は残念ながら、来月から解体される。そのため立正佼成会の粋な計らいで、今月一週間だけ内部が無料開放された。何と楽器を持ち込み演奏しても良いとのこと。普門館は私の自宅から目と鼻にあり、散歩でよく通る場所である。二、三度吹奏楽コンクールを観に行ったが、ステージには上がったことはない。ここの本選ステージに上がれるのは、厳しいコンクール予選を勝ち抜いた最高峰の楽団のみである。その場所に最後の最期に立てるのみならず、演奏できるとなれば、行かぬ手はない。私はブラバン経験者のクラリネット吹き、サックス吹きの友人を誘ってでかけた。

土曜日のこととて、行ってみると大行列が出来ていた。肌寒い夕方であったが、老若男女が集い、今か今かと入場を待っている。まるでこれからコンサートが開催されるかの様である。入れ替え制で三十分待ったが、ついにその内部に足を踏み入れた。あの黒光りするステージの床の上に、私たちもついに立った。まさかこの歳で、楽器を持ってここへ来れるなんて。しばらく茫然としていたが、それもそのはずである。ステージ前方に広がるのは五千もの観客席である。あまりに大きすぎて声も出ない。誰も座っていなくてもこの緊張感。ここが満席ならばと冷汗する。そして最も後方は遥か彼方に霞んでいる。高い高い天井を眺めれば、プロントサウルスだってこの中に入れそうだと思った。 

普門館は昭和四十五年(1970)に建設された。立正佼成会の集会や講演会の会場であるため、大型バスが何台も駐車でき、一帯は佼成会の聖堂などの施設が林立して公園の様になっている。大人数が大移動する吹奏楽コンクールを開催するには、まことに適した場所であった。普門館では数々のコンサートも開かれており、日本のクラシック音楽吹奏楽の発展期を盛り立ててきた名ホールである。帝王カラヤンも、ベルリンフィルを率いて二度やってきた。最初の公演では、大ホールゆえの音響の悪さが不評であったため、二度目の公演でカラヤンは反響板を置くようにアドバイスしている。この時はベートーベンの第九で、音源も残っており、「普門館の第九」と呼ばれて、伝説となっている。ベルリンフィルの他にも、ウィーン交響楽団ボストン交響楽団など錚々たる楽団が普門館で公演した。仏教では、すべての人に門をひらくことを普門と云うとか。普門館は文字通り世界に開かれたホールであった。

今宵は存分にこのステージを堪能する。青春只中の中高生や大学生がいる、今も変わらぬ青春を謳歌する大人達がいる、そして私の様に吹奏楽を引退してからずいぶんと時間が経った人々がいる。この今は現役引退した人々が、実は一番ここに居ることを噛み締め、喜んでいたりする。私もそうだ。普門館と云えば、最高峰なんだもの。私たちの青春時代はそうであった。思い切り普門館で演奏する者、反響板に謝辞送辞の言葉を綴る者、まるでホールに飲み込まれそうにただ佇む者。皆が思い思いに普門館との別れの時を過ごしている。そして某ツイッターの呼びかけで、楽器を持って集いし人々で、「宝島」を合奏した。「宝島」は何度もリフレインして合奏されたが、この楽しい曲が、別れの曲になっていることは、皆が解っている。私には楽しい曲ゆえにかえって寂しく思えてきた。ひとつのホールが解体されるにあたり、かつてこれほど多くの人々が集い、別れを惜しみ、涙すら流すなんてことはなかったであろう。それは懐古と惜別の涙である。「解体しない方向で何とかならなかったのかな」と何度も思ったが、惨事が起きてからでは遅いと云うのもよく解る。惜しまれながらの今が、一番の引き時であったと思う。さらば普門館。ありがとう普門館。私達はいつまでも去り難く、普門館のステージに立っていた。続。

 

 

なおすけの平成古寺巡礼 山寺

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉五指絶唱の一句だと思う。元禄二年(1689)、おくのほそ道をゆく芭蕉は、出羽国に入り、尾花沢にて立石寺名刹であることを聴いた。寄り道で山寺へやってきて、この名句が生まれたのは、いかにも良き筋立てだが、実は芭蕉は初めから山寺のことは知っていて、巨巌の群れに響き渡る蝉の声を、旅の途中から浮かべていたのかもしれない。当代一流の数寄者たる芭蕉ほどの人物ならば、そこまで思考し、計算していたのではとも思ってしまう。あくまで私の想像にすぎないが。私は芭蕉の足跡を順不同で少しずつ辿っている。今回は出羽国へやってきた。この句が生まれた山寺と、芭蕉が舟を駆った最上川。いざ追体験の旅へ。

晩夏、朝一番の新幹線で山形へ向かう。今年の夏も暑かったが、この日は次々と襲来する台風の影響で雨であった。山形はこれが初めてである。これまで失礼ながら、山形は東北六県で一番地味な印象であった。が、それは大きな間違いであった。最上川が豊穣の地を創造し、山海の地味に溢れ、出羽三山鳥海山蔵王など神山に囲まれた山形は、羽州ならではの純朴さで振舞う人と、その人々ゆえの優しい信仰が息づいている。あの広大な山形盆地の風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育むに違いない。

 立石寺を訪ねることが最大の目的であるが、少し時間があったので、山形城の周りから城下を散歩した。山形城には霞ヶ城の異名がある。山形盆地では春は霞がたなびき、秋は朝霧に包まれることもあろう。濠端を奥羽本線が南北に走っている。濠は深く、石垣は高いが、最上義光が造った城は、今はずいぶんと小さくなって霞城公園として整備されている。追手門外には最上義光記念館があった。徳川初期に最上氏がいなくなってから、山形藩は徳川の御家門や譜代大名が治めた。鳥居氏、保科氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏らが、何代かで交代で入っている。これほど藩主が代わったところも珍しい。徳川時代を通じて十三度も藩主が代わったらしいが、殿様は老中や若年寄など幕閣の要職にあり、ほとんどお国入りはしなかった。幕府はここを準天領のような扱いでいたのだろう。山形は羽州の真ん中にあって、米沢や仙台の監視ができる。さらには北前船の西廻り航路の拠点酒田にも、遠からず近からず目を光らせるには絶好の場所であった。奥州が政治、軍事、経済、流通で結託しないためにも、頻繁に藩主交代がされたのではないかと思う。

最上氏の菩提寺へも行ってみた。霞城公園から東南に二キロほど、城下の外れに寺はあった。光禅寺と云う。寺は住宅地と高校の間に在るが、長い参道や境内地の広さからして、さすがに大大名最上氏の菩提寺であると感心した。最上義光の墓は本堂裏手の墓地にあった。墓は白く太い石の五輪塔で、堂々と静かにたっている。いかにも雪深い地を必死で治めた、しかしながらどこまでも清廉潔白に経世済民に心を砕いた最上義光を彷彿とさせる。最上義光は、戦国末期出羽を統一し、信長や秀吉政権下では表向き軍門に下るも、虎視眈々と自身の足場を固め、家康の頃には一目置かれる存在となっていた。奥州の関ヶ原ともいえる慶長出羽合戦で、上杉氏を撃退した最上氏は、羽州五十七万石を統治することになった。義光は、山形城の建設に着手し、城下を商人の町として整備する。年貢や地子銭などの税を免除し、その後もずっと繁栄する市を開かせ、領内を復興していった。領民にも寛大慈悲で人気を集めたと云う。最上川を治水し、酒田港の再開発、庄内平野の開墾、羽州街道も整備した。最上義光の時代に、江戸期の山形と羽州の基盤はほとんど出来上がっていたといってよいだろう。が、最上氏は義光一代限りの栄華であった。最上騒動により義光の死後わずか九年で改易となる。つまらぬ家督争いが発端であったが、或いは幕府の策謀であったかもしれない。

山形駅から仙山線に乗り換えて、十数分で山寺駅に到着。駅のホームから立石寺の全景が見渡された。遥か上空に五大堂が見える。これから彼処まで登るのかという期待と不安が過る。仙山線と寺の間には立谷川が巨岩の隙間を急流しているが、おかげで山形市内よりだいぶ涼しい。 晩夏ゆえ、山形市内ではまったくなかった蟬の声も、この山麓からは煩いほどに聴こえてくる。これならばと胸が高鳴る。山形は蕎麦処である。この旅行中三度も蕎麦を食べた。門前にも蕎麦屋が軒を連ねている。その一軒に入り登山前に腹ごしらえ。東京の蕎麦と違い、野趣溢れる太麺で、蕎麦の味がしっかりしている。美味かった。

 立谷川の橋のたもとに対面石と云う巨巌があって、寺伝では円仁がここへやってきて、山人の頭である磐司磐三郎と対面した場所であると云う。山人は先住民であり、このあたりを狩場とした連中だろう。円仁は磐司磐三郎と交渉して、此処に立石寺を建立する許しを得た。空海高野山を開くときも、似たような説話がある。おそらくは、磐司磐三郎のずっと先祖の代から、ここは聖地であっに違いない。山の神を祀り、死人はここへ埋葬された。山内の到るところに侵食によってぽっかりあいた穴は、古代からの墓であると云う。山人の村は川の反対側にあって、川向こうは葬送の地であり、神の住む境域で、川が結界であったはずだ。聖地と俗地が地形的にこれほどはっきりとわかる場所もない。こうして貞観二年(860)、立石寺は開山された。実は円仁はこの地までは来ておらず、弟子の安慧に天台宗道場の建立を託したとも云われる。事実当寺は開山は円仁で、開祖は安慧である。が、これも真偽は構わない。

 蕎麦屋を出て、根本中堂へ参拝する。延暦寺寛永寺と同じく、立石寺も総本堂は根本中堂と云う。そういえば今の寛永寺の本尊薬師如来の脇侍日光月光両菩薩は、元禄時代に幕命によりこの寺から移された。内陣の本尊は秘仏厨子を護る仏像群も素晴らしいが、根本中堂で見逃したくないのは、灯籠の一筋の明かりである。延暦寺根本中堂に灯る、最澄が灯した「不滅の法灯」を分灯したものとかで、その灯は千年以上も一隅を照らしているとか。信長が比叡山を焼き討ちした際、延暦寺の法灯は消滅したが、再興の折に、ここの法灯を分灯したため、結果不滅の法灯は絶えていないらしい。私はこういう話を聴くたびに、日本仏教ならではの浪漫を抱く。真偽などはどうでも良いのである。

 寺は日本各地に大小七万以上あるらしいが、山国日本は山寺が多い。日本仏教は伝来してから、土着の神々とあまり争うことなく、共存してゆくことを選んだ。これは、日本古来の神々の側も同じであったし、寧ろ此方側から彼方側へと積極的に近づくこともあった。ことに山岳信仰とは深く強く結び付き、本地垂迹はここから派生した。山は神々のおわす聖地であり、先祖の霊魂の行くところとされたから、寺社が建立されるのは必然である。人々は神や霊魂を崇め奉ると同時に畏怖した。祟りを恐れ、供養と魔封のために鎮魂(たましずめ)を儀式し、そうした場所に寺が建立された。時代が降るにつれて、寺社は山麓から里へと下りてくるが、寺に山号があるのは、山にあった頃の名残であり踏襲であろう。 私もずいぶん山にある寺を訪ねてきたが、山形の立石寺はついぞ機会がなかった。立石寺は通称「山寺」と呼ばれる。五木寛之さんは百寺巡礼で山寺中の山寺であると書いておられるが、私も同感である。実際日本には、立石寺よりも遥かに高地にある山寺や、もっと峻険な場所にある山寺もある。しかし立石寺の長い歴史と、あまりに有名な芭蕉の足跡、そして津々浦々にまで知られた通称を考えれば、私も立石寺こそ第一番の山寺としたい。

 山寺は東北随一の古刹であり、陸奥比叡山とも呼ばれる。由縁は天台宗第三代座主の慈覚大師円仁を開山とし、一説で円仁はここへ葬るよう遺言した。山上には円仁の入定窟があるとされる。慈覚大師円仁と云う人は、東北の各地に足跡と影響があった。中尊寺毛越寺瑞巌寺など東北の名だたる寺の開山はほとんどが慈覚大師となっている。一般に大師と云えば弘法大師が第一に思い浮かぶが、東北では大師と云えば慈覚大師と云われるそうだ。円仁は、延暦十三年(794)、下野国都賀に生まれた。円仁がこの地の生まれだったことが、のちに都から隔絶した東国や陸奥においての布教活動に力を入れた理由が知れよう。九歳で岩舟の大慈寺に入り、十五歳で叡山に登って最澄の門下となった。最澄は円仁の才覚をすぐに見抜き、期待して側に置いた。円仁は最澄の東国行脚に付き従い、下野では懐かしの大慈寺に師と共に入ったであろう。そして東国や陸奥の窮状を最澄にも訴えたに違いない。最澄は諭すようにゆっくりと優しく、しかし目を逸らさずに円仁に説いたであろう。最澄の信ずる仏法が、僻地にまであまねく届くように、円仁をその伝道師とするべく育てた。比叡入山から十四年、敬愛した最澄は遷化した。

しかし円仁は悲しみに暮れる暇などなかった。師の精神の核心たる「一隅を照らす人」をつくることに深く感銘を受けた円仁は、自らその一人となり、中でもっとも明るい人になろうとした。そしてその教えの継承に尽力した。およそ十年間入唐し、天台教学と天台密教を学び、帰国するや天台座主となる。入唐中に著した日記「入唐求法巡礼行記」は、天台教学の伝書としても、紀行文としても名著であるが、「求法」という言葉に、最澄が果たせなんだ天台密教の法の伝授を切に求めた円仁の心境が表れている。各地に天台の学問所兼、天台僧の養成道場とする寺を建立した。立石寺比叡山の別院として建立し、陸奥における中心としたのである。東北の比叡山はここに誕生した。円仁は比叡山で没したらしいが、遺言で遺骸は山寺へ葬るように言ったとされる。弟子たちは、遺骨を首から上と胴体に分骨し、胴体を山寺に運んだ。はるか上空の納経堂の間下の巌窟に埋葬されたと云う。この話は伝承であったが、昭和になって、入定窟が調査された際、何体かの遺骨が見つかった。そのうち一体は、首のない遺骨で、首は木像であった。伝承は本当であったと騒がれたが、専門家の意見は分かれている。遺骨の真偽はともかく、円仁が遺言したのは本当だろうと私は思う。比叡山最澄の寺ならば、山寺は円仁の寺である。円仁は徳川家康よりはるか昔から、日光よりはるか北の山から、この国を見守ってきたのだ。

寺は山全体を境内とする。この山を宝珠山と云い、立石寺山号にもなっている。宝珠山は、高さ四百メートルほどの巨大な凝灰岩の岩山である。長い年月をかけて侵食が進み、あちこちに巨巌、奇岩、洞穴が露わになっていて、山としても存分に魅力がある。立石寺はその名のとおり、石の上に立っている。今はりっしゃくじと云うが、昔はりゅうしゃくじと云った。根本中堂を出て右手に寺を鎮守する日吉神社があり、宝物館や常行堂がある。その先に「關北霊窟」と掲げた山門があった。ここからが真の山寺である。威儀を正してその門を潜る。あたりはすぐに鬱蒼たる森で、すぐに石段が始まる。一段一段登る度に、煩悩が一つ一つ消え去ると云う。岩肌剥き出しの宝珠山は、高山ではないが、五大堂や奥之院に到達するまでおよそ千の石段を登る。千段はキツイだろうと覚悟していたが、途中、姥塚、円仁の御手掛石、蝉塚、弥陀洞など、見所毎に休める場所もあって、一気に登るわけではなく、思いの外楽であった。弥陀洞は巨大な一枚岩で、見る人の心が清ければ阿弥陀如来に見えると云う。じっと目を凝らして見た。見える。私にも阿弥陀様がはっきり見える。これは嘘でも冗談でもない。あの日のあの時の私には確かにその姿が見えたのである。私はこういうことはあまり信じないし、実際似たような場所でも一度も見えた試しはない。その私が言うのである。確かにあの時、阿弥陀如来を見たと信じている。もっとも次に訪れた時は、もう見えないのかもしれない。

私はゆっくりゆっくり登ってゆくが、何人かの大学生が、汗だくになりながら上半身は裸で、走り去っていった。巨巌巨石が累々と折り重なり、圧倒的景観。途中、道幅がわずか四寸(十二センチ)という場所があり、こうしたところを見ても古くから修験道が盛んであったに違いない。いずれここも世界遺産になるかもしれない。大自然の威厳とそれを畏怖し信仰した人々の面影が、岩壁に映し出されているような錯覚がした。仁王門を過ぎると視界が開けた。冷風が次から次に吹いてくる。辺りは圧するように鋭い岩が聳り立つ。立石寺という名に背かぬ、偉大なる眺めである。

山寺でもっとも心動かされた風景は、開山堂から納経堂へのアプローチである。目も眩む断崖絶壁で、片側は手すりもない崖である。その先に大きな皹の入った岩山が屹立しており、平な場所に円仁を祀る開山堂、岩山の先端に赤い色をした端正で小さな納経堂が、まるで山寺を照らす灯台のように建っている。積年の憧憬が今目の前にあった。見晴らしはどこまでも高く、広く、重畳とした山並みを、鳥になって俯瞰できる。この上にある五大堂からも、その眺めを存分に味わった。嗚呼ついにここまで来れたか。感慨無量であった。このままここから大空へ羽ばたきたい気分である。 そして奥之院まで到達して、大仏様を拝んだ時、ようやく少し興奮が鎮まったのである。余談だが、かつて山寺には滑り台があったらしい。私も詳しくは知らないが、聞くところによれば、五大堂付近から三百メートルあまりを一気に滑降したとか。しかし、あまりに急峻で、怪我人が後をたたなかったらしく、昭和四十年代前半には廃止されたそうだ。寺に滑り台とは前代未聞でまことに面白い発想である。廃止されて当然といえばそうだが、あまり型や枠に囚われないのは、羽州人の気質なのではないか。

話はおくのほそ道に戻る。芭蕉もここまで辿り着いた。その時の印象と、この句を詠じた気分をかく記している。

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七、八里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

おくのほそ道前半のハイライトである平泉を過ぎ、尿前の関、尾花沢で一息ついた芭蕉曾良。このあと最上川を下り、出羽三山を経由して酒田から日本海側の越路を南下してゆく長丁場を前に、立石寺へ立ち寄ることで、旅の覚悟ができた。同時に陸奥随一の古刹にて薬師如来へ道中の無事を祈ったであろう。盛夏の蝉しぐれは、煩いほどであったかもしれないが、それが芭蕉にとっては身を清める滝飛沫のように降り注いできた。或いは岩は芭蕉自身であって、彼の心身に沁み入ってきたのであろう。それは蝉の声だけではなかったかもしれない。私はこの一句から、様々なことを想像する。芭蕉がおくのほそ道で立石寺を訪ねたことが、この旅の止め石になっているように思う。止め石とは、自らの逸る心、焦り、暴走をとどめる重石である。稀代の数寄者のみが到達できる境地がある。だが、自由に流れ、流されて生きてゆくには、時に止め石や重石が必要だ。西行もそうであった。西行を思慕する芭蕉もまたそうであったと思う。

私はなるべく人気の少ないところを探して、傍の石に腰を下ろした。東京や山形市内ではすでに蝉の声は聴こえない八月の終わり、山寺は全山でまだ元気に蝉が鳴いてくれていた。蝉しぐれは、巨岩や岩窟に油滴のように染み込んでゆく。私は芭蕉曾良と同じ旅の空の下にいた。

 

茶の正月

明日から早くも霜月である。年毎に早さが増すのは、私も人生の白秋にさしかかっているからか。一生を春夏秋冬にわける思想は、古く中国から入ってきた。青春、朱夏、白秋、玄冬。これは風水の青龍、朱雀、白虎、玄武と同じである。つまりは人の一生も四神相応と符合しているという考え方であろう。青春がいくつからいくつで、朱夏がいくつまでなんていうことは、当世各々次第だろう。これまでの我が人生を省みると、私にとっての青春とは音楽であった。幼い頃に習ったピアノに始まり、このブログでも綴っている吹奏楽がもっとも青春と呼ぶに相応しい。高校を卒業し、上京してからはMr.ChildrenGLAYをはじめ、足繁くライブに通った。私自身もコピーバンドで下手な歌を唄っていたこともある。それほどに楽器を奏で、歌うことが楽しかった。大げさに言うと、その瞬間だけ青い悩みは消え失せた。楽器も歌も腹式呼吸である。ブレスして身体中に酸素を取り込むと、脳天から爪先まで活性化された。生きていると本当に実感できたのである。

その次は馬であった。馬といっても乗馬ではなく競馬である。学生の頃、叔父に連れ出されて初めて府中競馬場に行った。それからは友人と毎週のように府中や中山へ通ったが、私には競馬は単なるギャンブルではなかった。サラブレッドの速さ、気高さ、美しさに心底惚れて、馬券購入は二の次で好きな競走馬を応援した。競馬の歴史、血統を研究して、パドックでじっくりと馬を観察し、展開を予想する。人馬一体と云うが、騎手や関係者と同様に、レースが始まると私はその馬に乗っていた。これが私の朱夏であった。競馬に対する想いは生涯無くなることはないが、ネットが普及して、馬券も容易に買える今、以前ほどは競馬場にも行かなくなった。私は競馬の浪漫から下馬したのである。ダービーや有馬記念などの大レースは買うが、昔ほど競馬に浪漫は求めなくなかった。熱は冷めたのかまだよく解らない。が、私には競馬以外にもやりたいことや、知りたいこと、行きたい場所がたくさんあるのである。

そして白秋がやってきた。今、私がもっとものめり込み、何よりも優先することが茶の湯である。茶道の稽古を始めて今夏で三年目に入った。 私が日本史に関心を持ってから、折々で茶の湯が登場した。そのためずっと気になっていて、いつか自身も稽古に通いたいと思ってきた。しかし若い頃は稽古に通う機会も、稽古をする踏ん切りもつかないまま、遥か遠くから憧れていた。結局四十を少し前にしてようやく、今の先生に出会い、表千家に入門したのである。二年以上稽古をしているが、今でも一々あたふたとしてしまい、家元が仰る「淡々と水の流れるが如く」とはなかなかゆかない。が、稽古を辞めたいと思うことはなく、茶の湯は何よりも今の私の生甲斐となった。

先日から「日日是好日」という映画が公開されている。作家の森下典子さんが原作で、三十年以上になる森下さんの茶道経験と、茶道に対する想いを味わうことができる。私は原作も読んだが、茶道経験者ならば、誰しもわかるような言葉、動き、思考がちりばめてあって共感するところが多かった。それを映画ではどう表現するのか半信半疑であったが、さすがに大森立嗣監督は、原作の良さを存分に引き出しながらも、映画ならではの茶の世界を創り上げていた。先生役を樹木希林さんが演じられたが、私が普段の稽古で、私の先生に習うことをそのまま言われている気がして、可笑しくもあり、冷汗をかいた。映画の効果もあってか、私の先生のところにも体験入門に来る人が増えている。少しばかり先輩の私は、その日体験に来る方の前で点前をし、一服差し上げる。それが自身の稽古でもある。私も入門する前は同じように体験した。「お点前のいろは」はまったく無知でも、点てられた熱い一服の茶の味は、今でも舌に残っている。何にせよファーストコンタクトは重要である。無論、体験入門までに抹茶を飲んだことは何度もあったが、これから入門するかもしれない稽古場で初めていただくお茶の味は、その後の自分の茶道や、茶の湯感を方向付ける場合もある。たとえ入門されない人にでも、美味しいお茶を味わっていただきたい。一期一会とは茶道の根本であり、それは長年の経験者も初体験の者とて変わりはない。主客皆でその日その時のその座を創り上げる。稽古であっても点前をするからには亭主として、その座を心に残るシーンにしたいと私は思っている。

とはいえ、稽古中は先生からの厳しいご指導の下、手の位置、足の運び、道具の置き場、手前の順序等、何度やっても間違ってしまう。一度指摘されたことは二度と間違うまいと思い、しっかりと復習するのだが、次回の稽古ではその指摘されたことはできても、また違ったところで間違う。以前はできていたことが、急にできなくなったり、忘れてしまうこともある。だから稽古なのである。何度も何度も稽古をして、自然と自分の体や手が動くようになるために稽古をするのだ。茶道の型、流派の型というものをしっかりと自分のものにするために。修練には時が必要だ。私のように四十から始めるよりも、飲み込みや吸収が早いはずの若い頃から始めたほういいに違いないが、先生はありがたくも稽古を始めるのに年令は関係ない言ってくださる。一番は根気なのであると私は解して、これからも稽古に励みたい。

 立冬のやってくる十一月は、茶の正月である。その年の初夏に採れた新茶を、茶壺で寝かせ、立冬の炉開きに合わせて、茶壺の封を切って、新しい茶を挽く。半年間寝かせた茶は、青臭さが抜けて、まろやかな甘みと静かな深みが出る。これを「閑味」と云う。茶壺の中には、和紙の袋に包まれた極上の濃茶と、それを保護するように薄茶となる茶葉が詰められている。茶壺の口は和紙を丸く切って蓋をし、更に和紙で封印されている。余談だが、徳川時代は宇治で収穫された茶を将軍家に献上するため、茶壺を籠に乗せて東海道中山道を下った。これを「御茶壺道中」と云い、行列は時に千人を超えることもあった。街道筋は並の大名行列以上に警備され、行き違う大名も道を譲らねばならなかった。将軍が口にするものゆえ、厳戒態勢が敷かれたのも当然のことだろう。家康と秀忠の二元政治の頃は、江戸と駿府それぞれに献上されたと云う。

茶壺の口を切ることを「口切り」といい、立冬の候、家元はじめ各所で「口切の茶事」が開かれる。口切の茶事は茶人にとって、もっとも大切な茶事であり、殊に「口切の炉正午の茶事(正午に始まる茶事)」は、もっともあらたまった茶事とされる。ゆえに、茶人にとっても、霜月こそが正月なのである。立冬まであと僅か、去年口切りした茶も僅かとなった。風炉も中置きとなって、客の方へ火が少しずつ近くなる。また押さえた風炉の灰は、あえて崩して、搔き上げ灰にされる。こうしたしつらえを「名残」と云うが、私は名残こそが、利休居士のわび茶の真髄のように思う。名残の頃ほど、まことに静かで、寂しい候はない。しかし寂寞とした中でも、まもなく炉開きという緊張感があるから、決して心身は弛緩しない。茶人の正月から一月の初釜にかけて、華やかな茶事や茶会が催される前に、束の間の静けさを存分に堪能したい。私は名残も好きである。

青春譜〜ゴールド金賞〜

いよいよ明日から、日本の吹奏楽界最高峰の大会である全日本吹奏楽コンクールが開催される。吹奏楽コンクールは昭和十五年(1940)に創設されたが、戦争中は中断された。戦後、時勢ようやく落ち着いた昭和三十一年(1956)に再開された。今年で66回目、平成最後の吹コンである。今年は十月二十日が中学校の部、二十一日が高等学校の部、二十七日が大学の部、二十八日が職場一般の部の予定。中学と高校が名古屋国際会議場センチュリーホール、大学と職場一般は尼崎のあましんアルカイックホールで行なわれる。このシリーズを半年前に書き始めたが、あの頃に課題曲や自由曲の選定をして、地区大会、支部大会を勝ち抜いてきた学校や団体が、ついに最高の晴れ舞台へ上がるのだ。ここまで辿り着いただけでも素晴らしいことだが、ここまで来たら最高峰の中で一番の栄誉を得たい。さすがに全日本はどの学校、団体もハイレベルな演奏をする。時には中高生でもプロの楽団やオーケストラを彷彿とさせるし、聴衆を沸かせ圧倒する。私はここまで来ることは出来なかったが、皆の気持ちはとてもよくわかるつもりだ。ここにしかない眺め、ここでしか味わえない空気と緊張感、ここだからこそ響かせることができる音。それを存分に味わえる彼らが羨ましくてたまらない。

演奏する彼らはどんな想いで、あのステージに立つのであろう。確かに長い人生において、これまでの練習も、本番のステージも、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。でもあの時、あの場所で、あのメンバーで無我夢中となり演奏したことは、ほとんどの吹奏楽部員にとって、かけがえないのモノであり、此の世を生きる糧となっているはずた。それほどに濃密な時を、栄冠に向かって歩んできたのである。ゆえに青春なのである。私のその青春は高校生で終わったが、大学や一般団体でまた見たい、或いはまだ見ぬ高い景色を求め続け、毎年コンクールに出場している人もたくさんいる。それが勝ち抜けではない吹コンの面白さである。実は五年前までは、三年連続本大会に出場すると、翌年は予選すら出ることができないという悪しき慣習があったが、私はコンクールだって、自分がもういいと思うまで、何度でも大いに楽しんで良いと思っている。

コンクール出場団体のすべての演奏が終わると、少し時間があって、審査結果が発表される。当初は1位、2位、3位と順位をつけ、優勝旗が贈られたこともあったようだが、第18回大会から金賞、銀賞、銅賞で評価されている。支部によっては前年度に上位大会に進んだ団体にシード権を与え、地区大会や都道府県大会を免除し、支部大会からの参加を認めているところもある。また、上位大会への代表校選出も審査員が話し合いで決めたり、金賞団体から最優秀を選ぶ場合もあったりと統一感がない。全日本吹奏楽連盟には強い権限はないのだろうか。各地区で、コンクールとは別の優劣を競う大会が開かれたりもしている。支部や地区独自のカラーが出せるのは良い事ではあるが、それにより他の支部ならば選出されたかもしれない学校や団体があるかもしれず、評価に差が生じることはないのだろうか。少々疑問に思うところだ。コンクールの審査員は9人いて、技術と表現をA〜Eの5段階で評価し得点化する。その得点の上位順から金賞、銀賞、銅賞のいずれかの賞が決まる。ただし、9人の審査員のうち最も高い評価をした審査員と、最も低い評価をした審査員の評価は除外される。つまり最高点と最低点間の評価を行った7人の審査員の評価となるのである。公平性を確保するためにこの様な審査方法になったと云う。

大会会長の講評のあと、いよいよ審査結果発表。発表者は、金賞と銀賞を区別できる様に、金賞には頭にゴールドをつけて「ゴールド金賞」と読み上げる。私が吹奏楽部の頃は、金賞はA金賞、銀賞はB銀賞、銅賞はC銅賞と読み上げていたが、いつの頃からか「ゴールド金賞」となっている。この「ゴールド金賞」という声を聴きたくて、厳しくツライ練習を経て、あのステージに立つのである。「ゴールド金賞」が読み上げられた瞬間の、該当の学校や団体からの大歓声は、部外者である観客にとっても感動的な瞬間である。ここで全てが報われるのだ。今年はどの学校、団体が歓喜の「ゴールド金賞」を聴けるであろうか。吹奏楽部員にとっても、関係者や家族にとっても、そして私たち吹奏楽ファンにとっても、全日本吹コンの前夜は眠れない。が同時に至福の時でもある。

五月の回でも、吹コンとは中高生にとっては甲子園であると書いた。私が毎年、神無月になると心逸るのは、吹コンがあるからだ。吹コンが終わり、来月のマーチングコンテストが終わると、冬がやってくる。そして最上級生との別れもやってくる。続。

ほとけのみち 建仁寺

京都祇園。日本一の花街は、今や世界中にその名を知られている。京都を見たくば祇園へ行けとでも言わんばかりに、いつでもこの町には人が溢れている。祇園で働く人々は、この町を祇園町と呼ぶ。昔から京都には多くの花街が存在してきたが、今は五大花街といって祇園町、宮川町、先斗町上七軒、島原が往時の面影を残しているが、中で祇園町は最大最盛を誇る。かつては西の島原と東の祇園町で競い合ったという。しかし島原は幕末の大火で徐々に廃れてしまった。今では新撰組長州藩士の出入りした角屋などの茶屋が観光名所にはなっているが、花街としての存在感は祇園町には遠く及ばない。歴史は祇園町よりも島原の方がはるかに古いが、明治維新天皇が東京へ行幸され、連れて都人たちも東下すると、閑散とした京都は花街の灯も消えてしまった。だが、タダで転んでしまう京都人ではない。あの手この手を尽くし、明治も情勢が落ち着いてきた頃には、祇園町にはかつての活気が戻ってきた。その後は日本一の花街へと発展してゆくのである。祇園町はかつて、ほとんどが建仁寺や八坂神社の境内であった。時の政権や、政治情勢、宗教統制により寺社域は縮小されて、祇園町は拡大していった。

日本には延暦寺仁和寺建長寺寛永寺など時の元号を寺名とした寺がいくつかある。建仁寺建仁二年(1202)の創建。建仁はわずか三年しかない。その間に鎌倉幕府の取り巻きは目紛しい展開を見せる。源頼朝の急死で、鎌倉幕府は二代目の頼家が僅か十八歳で後を継いでいたが、母である尼将軍政子の傀儡であって、頼家には実権などなかった。もっとも始めのうちは頼家もはりきっていた。頼朝を凌ぐ独裁将軍を目指した頼家は、自分の信頼する家来以外目通りを許さず、御家人から反発を買ってしまう。事態を重く見た母政子は、北条氏以下の御家人を動かし、頼朝時代から続く重臣による合議制を復活させ、頼家の思う通りにはさせなかった。こうして執権北条氏が出来上がり、鎌倉幕府の体制は皮肉にも棟梁たる源家を差し置いて整備されていったのである。後に室町幕府八代の足利義政も東山に隠棲し銀閣を建立したように、頼家も忸怩たる思いをひた隠しにして、建仁寺を建立することにしたのではないか。六波羅探題の北にあるこの辺りの土地を寄進して、ちょうど南宋から臨済禅を修得し帰朝した栄西禅師に建仁寺を開かせている。或いは頼家は、世を疎い臨済禅に帰依し、自らも出家を望んだのかもしれないが、北条幕府はそれを許さなかった。失意の頼家は、比企能員の変によりわずか一年で将軍職を追われた。建仁寺をはじめ寺社寄進に心を傾けたが、建仁寺の完成を見ずに、元久元年(1204)、伊豆修善寺で死んだ。二十一歳であった。病死とも、毒殺とも、暗殺とも云われている。これがまた後にまで尾を引いてゆき、弟の三代実朝の死にもつながってゆく。

臨済宗建仁寺派大本山建仁寺は、京都で一番古い禅寺だと云う。境内に一歩足を踏み入れると、私が訪れた蒸せ返るような真夏の日とて、禅寺らしいピリッとした空気が漂っている。勅使門から池を越えて三門、本堂にあたる法堂、その奥に方丈。一直線に配された伽藍は、臨済宗の大寺院では馴染みの光景だが、いつ見ても洗心清浄の気分を呼び起こす。その原型がここ建仁寺にある。勅使門は平重盛か敦盛の六波羅邸の門を移築したものとかで、だとすれば平安末の遺構か。建仁寺の辺りを小松町というが、重盛は小松殿とも呼ばれていたから、平家滅亡後に六波羅を接収した鎌倉幕府によって、平家の供養も兼ねて建仁寺へ寄進したのかもしれない。左右対称の美しい三門は、静岡の安寧寺から移築されたもので、「望闕楼(ぼうけつろう)」という扁額が掲げられている。望闕とは御所を望むと云う意味だとか。裳階の付いた端正な法堂は、江戸中期の明和二年(1765)の再建。本尊は釈迦如来座像、迦葉尊者と阿難尊者が脇侍である。法堂内部に入ってまず目を惹くのは、天井の巨大な双龍であろう。建仁寺創建八百年を記念して、小泉淳作氏によって描かれた。一般に禅寺の法堂には龍が描かれていることが多いが、古色蒼然と歳を重ねた龍たちには、確かに禅堂の厳粛さを感じるが、建仁寺の双龍からは色彩の鮮やかなところからも、活力漲る若い龍が、あたかも競い合うように昇天してゆく様にただ圧倒されるばかりではなく、見る者を強い磁力で共に引き上げてくれそうな気配がある。動静を掴みづらい現代人は、ここでいったん始点に戻されるであろう。

建仁寺の伽藍は、京都一古い禅寺としての威厳を見せながらも、祇園町と宮川町という花街に寄り添うようにある姿に、一種独特の閑雅さを纏っている。それがもっともよく表されているのが、方丈であろう。方丈とは禅寺の住持の住まいのことだが、ゆえにどこの禅寺も個性溢れる空間となっている。建仁寺の方丈は、元は広島の安国寺にあったものを、慶長四年(1599)に安国寺恵瓊が移築したもので、室町時代の面影を存分に感じさせる。低く伸びやかな屋根は白鳥が翼を広げたような秀麗さ。方丈前の大雄苑と呼ばれる枯山水の白砂利が、さらにその白さを照り映えさせている。方丈の縁に腰を下ろしてみると、枯山水はあたかも本当の湖のようで、清冽な水音が聴こえてきそうである。方丈は五年ほど前に改修されて、屋根も創建当初の杮葺になったことで、いっそう優美な趣きとなった。昭和九年(1934)の室戸台風で方丈は倒壊し、安国寺恵瓊が海北友松に依頼した五十面の襖絵は、残念ながら掛け軸になってしまったが、雲龍図や竹林七賢図などは複写されている。複写とはいえその迫力には息を飲んだ。室戸台風の後、橋本関雪によって海北友松にも負けない圧巻の襖絵が描かれている。方丈奥の小書院には平成二十六年(2014)に、染色画家の鳥羽美花さんによって描かれた襖絵があり、これは必見である。淡い群青が少し入っているように見える「凪」、その反対側は一転して鮮やかな濃淡のコバルトブルーで描かれた「舟出」。水墨画の新境地を間近に触れた思いがして、絵心なき私でも感動した。ここにも動と静がある。

建仁寺には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」もある。風神雷神図は、元々は建仁寺末寺で右京区宇多野にある妙光寺に蔵されていたもので、京都の豪商で歌人でもあった打它公軌(うだきんのり)が、妙光寺を再興し、記念に親交のあった宗達に依頼したものである。今では本山の建仁寺が所蔵し、世界中に知られている。この有名な屏風について私が語ることは何もない。尾形光琳をはじめ多くの絵師が、風神雷神図を模写しているが、やっぱり私は宗達風神雷神図が一番だという思いでいる。まことに建仁寺日本画の一大美術館であり、中世から現代までの絵師たちの競演を楽しむだけでも、来て良かったと思うであろう。

禅はインドから宋に伝わり、宋によって教義が深められた。寧ろ日本に伝わる禅とは中国で生まれて、日本で育まれたと思う。やがて宋では臨済、曹洞、法眼、潙仰、雲門の禅宗五家にわかれ、独自の禅の世界を展開してゆく。中国禅の祖は達磨大師とされるが、その達磨の禅の継承者の一人が、達磨から三百年ほど後の臨済義玄である。臨済宗臨済とはこの坊さんの名である。江戸時代に白隠の法嗣の一人である東嶺円慈の著した「五家参詳要路門」には、「臨済宗は機鋒を戦わして親疎を論ずるを旨と為す」とある。機鋒とは切っ先のことで、親疎すなわち誰とでも機鋒を戦わすという、好戦的な禅であるが、無論本当に切っ先を交えるわけではなく、禅問答による交戦である。が、これが武家に好まれたことは納得である。禅は悟りを開くことを主眼とするが、禅語録を題として師から弟子へ、弟子から師へ問答を行う。これを公案と呼び、宋代に公案体系なるものがまとめられ、微妙に変化しながら継承されている。それはあくまで悟りであって、知識や論理ではない。日本の二大禅宗臨済と曹洞の大きな違いはこの部分であろう。曹洞は坐禅をしても何も考えない。只管打坐し、無我の境地へ入る。臨済公案を考えて坐禅する。しかし、目指すところはどちらも同じで、悟りなのである。事実道元も、若い頃には建仁寺で修行していた。

日本の二大禅宗は、臨済宗武家が天下を掌握する鎌倉幕府以来代々の天下人の帰依を受けたせいか、敷居が高くて、ましてや五山制度ができると、なおさら高尚な色合いが強く出ていた。一方の曹洞宗武家から庶民にまで末広がり、臨済宗に比べると簡素で入りやすい印象がある。建仁寺京都五山の第三位とされる。改めて述べることもないが、五山とは寺格のことで、もともとは中国で五山制度ができ、日本では鎌倉時代北条貞時がそれに倣い臨済宗の五山制度をつくった。だがこの頃や南北朝時代までは、大徳寺臨川寺が入ったり出たりと曖昧であったが、足利時代になり、尊氏が建立した天龍寺と、義満が建立した相国寺が加えられ、というよりも尊氏や義満が権力にモノを言わせて推し進めたことで、現在の臨済宗五山が確立し、南禅寺を別格として、以後は不動となった。

五山の上 南禅寺

京都五山     

第一位 天龍寺 第二位 相国寺 第三位 建仁寺 第四位 東福寺 第五位 万寿寺

鎌倉五山

第一位 建長寺 第二位 円覚寺 第三位 寿福寺 第四位 浄智寺 第五位 浄妙寺

五山制度は確かに権門と癒着して寺格を保ち、勢力を広げたが、一方で五山文学など禅林文化、文芸の発展、また漢文学の研鑽や外交文書の起草などにも大きく貢献したことも事実である。 建仁寺もそうした大学や研究機関としての役割を担っていた。それは栄西が開山した当初からで、天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。が、これは多分に当時の日本仏教界の勢力図が現れていたからであろう。創建から五十年ほどして蘭渓道隆建仁寺に入ると、鎌倉幕府の後ろ楯もあり、兼学ではなく純粋な禅堂となる。

さて栄西について触れねばなるまい。明菴栄西は永治元年(1141)、備中国吉備津神社権禰宜の子として生まれた。神官にはならず、八歳で父の薦めで倶舎論を読み、十一歳で吉備の安養寺に入り、十四歳で出家し比叡山へ登る。叡山では天台教学を学び、さらには伯耆大山寺へ登り密法を修養した。以後は叡山と吉備を往来しながら、博多へも赴き商人李徳昭から宋国の禅宗について聞いた栄西は入宋を志して、あらゆる伝手を頼りながら、仁安三年(1168)ついには平家の庇護のもと入宋を果たした。彼の地では後に東大寺再興に尽力する重源と出会い親交を深めた。ともに天台山へ登り、多くの天台教学を学び、重源と同航して帰国した。叡山で栄西を見込み育てた天台座主明雲は、平家と癒着し、平家滅亡後、後白河院木曽義仲討伐を企てるも失敗、義仲によって捕縛され斬首された。栄西は最大の理解者と庇護者をいっぺんに失うも、ここからが彼のしたたかなところで、治天の君たる後鳥羽院に巧みに取り入り、神泉苑での雨乞い祈祷を成功させ信頼を得、紫衣まで賜った。前回の入宋では天台教学を学ぶも、半年間と短期滞在であり、そもそも禅宗に心惹かれていた栄西は、どうしても再度入宋したかった。そしてこの機を逃すまいと、文治三年(1187)、四十七歳で再び入宋する。今度こそ禅を学び、臨済禅に辿りつくのである。インドにも行こうとしたらしいが、さすがに叶わず、結果宋国に五年間滞在し帰国。帰りの船中での栄西を想像するに、禅宗の本場宋国で過ごし修養した己に対して、並々ならぬ自信を携えて、意気揚々とした気分であったに違いない。風と波しぶきを蹴る船の舳先で腕組みをし、帰国したらどう臨済禅を広めようかと考え込む栄西の姿が目に浮かぶようである。こんなに行動力があり、実行に移すのはこの時代は僧侶くらいのもので、重源とて似た様なものだ。成功した僧侶は、皆、絶大なるスポンサーを得ている。空海の時代からそうであった。スポンサーもまた彼らには投資しても余りある価値を感じていたのであろう。

帰国した栄西は、空海がそうしたように九州に滞在するが、やがて上洛して「興禅護国論」を著して、後鳥羽院に奏上する。「興禅護国論」には、これまで天台や真言等の修行のひとつと考えられてきた禅を、新しい仏教宗派であると主張するもので、禅宗の独立宣言とも云われる。禅は釈迦の時代からの中心教義であり、インドや宋国で盛んである禅を、日本にも広めて、国家安泰にせねばならないと力説する。禅宗はすべての仏道に通じ、禅を日本の国教とするべきだとまで言った。栄西は、日蓮と同じ様な強硬な姿勢で権門に切り込んでゆく。しかし後鳥羽院の反応はあまり良くなかった。そうと知るや、栄西はすぐに鎌倉へ赴き、直に頼家や、北条政子への取り入りに成功する。鎌倉幕府からの帰依をうけて、幕府や東国の御家人武士のための新しい仏教として、日本の臨済宗は開かれていった。その最初の拠点が鎌倉の寿福寺であり、京都の建仁寺である。栄西は他の宗派の開祖と違い、あまり尊崇されていない印象があるが、それは後に臨済宗が今に連なる多数派に分かれていったことが起因しているのかもしれない。また、空海ほどのカリスマ性はなく、あくまで臨済禅の伝道者であり、栄西自身もそのように生きたからであろう。しかし、日本臨済宗の祖であることは事実である。建保三年(1215)七十五歳で入滅。日本各地を行脚し、二度の入宋、臨済禅の布教に努めた満ち足りた生涯であった。

栄西には臨済宗の確立の他に、もう一つ大きな仕事がある。それは茶の普及である。仏教伝来の頃から我が国でも茶は飲まれてきたが、それは団茶などの発酵茶であって、現在私たちが飲む茶とは色、香り、味わいが異なるものであった。しかし、あまり日本人好みではなかったようで普及はしなかった。緑茶は中国でも飲まれていたが、日本人が緑茶を愛飲するようになるのは、栄西が広めてからである。緑茶はまったく日本の風土、気候、水に適し、日本人の風習、味覚、嗅覚にピタリと合った。緑茶といって現代の我々が想像するのは煎茶であろうが、この頃は碾茶であった。碾茶をひいたら抹茶になる。栄西は宋の禅堂で茶が眠気覚ましとして飲用されていることに感心し、栽培法を学び、帰国時に苗を持ち帰った。そして建仁寺で飲用を始め、広めていった。親しく付き合った栂尾高山寺の明恵にも茶を薦め、明恵もすっかり茶の魅力に惹かれて、高山寺で栽培するようになる。そこから、宇治へと栽培地が広がり、京都は茶の一大生産地となるのである。

栄西は「喫茶養生記」を著して、茶には覚醒作用のみならず、様々な薬効があることを懇切丁寧に解説している。栄西は鎌倉三代将軍実朝に喫茶養生記を献上。鎌倉でも喫茶の習慣は広がり、茶は禅宗と権門との絆となって、やがて室町時代から安土桃山時代にかけて茶の湯文化が大成されてゆく。方丈の裏手には、秀吉の北野大茶湯ゆかりの茶席「東陽坊」が移築され、静謐な佇まいで建っている。建仁寺では栄西の誕生日である毎年四月二十日に四頭茶会が開かれる。これは古式に則った禅宗の茶会で、四人の正客が各八人の相伴客を連れて席入りする。まず、栄西禅師へ焼香と献茶が行われ、抹茶の入った天目茶碗が客に配られる。供給僧(くきょうそう)と呼ばれる雲水たちが、浄瓶(じんびん)というティーポットのような口の細長い金属製の瓶を持ち、注ぎ口に茶筅を指して入ってくる。正客から順に湯をついで、立ったままで茶を点てるのである。私は映像でしか拝見していないが、茶の湯の原形ともいえるこの茶会にはとても関心がある。四頭茶会は建長寺円覚寺など他の禅寺でも時期や主旨を別にして開かれている。禅堂の茶に対する親しみと敬意が込められたこの密やかな茶会に、いつか参加させていただきものである。不束ながら私も週に一度は茶の湯の稽古に通っている。私にとって建仁寺茶の湯文化発祥の寺として極めて大切な場所。

栄西禅師曰く「茶也末代養生之仙薬、人倫延齢の妙術也」〜喫茶養生記冒頭より〜

この言葉に忝ない想いを致し、私はこれからも茶道に邁進したいと思う。