弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜課題曲と自由曲〜

全日本吹奏楽コンクールは、毎年十月に開催される。全日本を目指す団体は、概ね二度の予選を通過せねばならない。第一関門の都道府県予選は、ちょうど夏の甲子園の頃に始まり、勝ち抜くと、夏休み明けまもない九月に支部予選がある。支部は北海道、東北、東関東、東京、西関東、北陸、東海、関西、中国、四国、九州に分けられる。支部予選を勝ち抜いて、晴れて全日本の大舞台へと駒を進めるのだ。コンクールは編成によってA、B、Cに分けられる。編成は簡単にいえば人数である。中学が五十人以内、高校、大学が五十五人以内、一般、職場が六十五人以内の大編成がA、三十五人以内がB、少人数の団体のジョイントをCとするが、Aのみが全国大会へいける。コンクール参加団体のほとんどはAであると思ってよい。予選から審査は厳しい。各大会に審査員は九人いて、時代によって審査方法は少しずつ変わってきたが、参加団体は金銀銅で評価される。タイムオーバー等で失格しない限り、参加団体すべて、いずれかの賞を授かるのだ。つまり最低でも銅賞はもらえるわけだ。私は銅賞を貰うくらいのレベルならば、コンクールには出場しなくても良いと思っている。いや、皆がんばっているわけだから、どんな結果であれ、出場することに意義があるという意見も、吹奏楽経験者としては、誠にごもっともと思う。が、コンクールに出場するからには、上を目指すべきだ。志し高くなくば、上手くはならない。それは団体全体も、奏者一人ひとりであってもである。コンクールで上を目指すことは、技術、表現、ハーモニーを限界まで追求することだ。それは個々と全体が上達する最良で、最短の道であると私は信じて疑わない。プロにも負けぬ素晴らしい演奏を披露することこそが、楽器を演奏し、合奏して、聴衆を沸かせる最高の殊勲であるからだ。

 コンクールでは課題曲と自由曲を一曲ずつ演奏する。制限時間は併せて十二分。課題曲は毎年発表され、基本的に五曲あるが、団体で選ぶことになる。課題曲はマーチが二曲と、マーチではない曲が三曲のパターンが多いが、時々によって全曲マーチであるとか、奇数偶数年で変えたりしたこともあった。課題曲は三分から四分前後。課題曲には吹奏楽の魅力がすべて詰まっている。マーチ以外の曲はクラシックの様に壮大な曲あり、ポップス、ジャズ、日本民謡を主題にした曲などあって多彩である。難易度が高く、団体の真の実力が問われる。マーチは難易度は低いが、その分だけ曲解釈の振り幅が広く、かえって難しい場合もある。が、ほとんどの団体がマーチを選択するのも、課題曲を着実に演奏し、自由曲で難易度の高い曲にチャレンジするというのが、吹奏楽コンクールの主流といえよう。毎年春先に課題曲が発表されると、五月頃には課題曲クリニックが各地で開催される。課題曲クリニックは、課題曲の演奏指導会で、まず全国向けクリニックを開き、さらに支部都道府県単位で行われる。課題曲にも名曲は数多あり、吹奏楽経験者や、吹奏楽ファンからも熱烈に支持されている。歴代課題曲は、日本の吹奏楽界にとって枢要なレパートリーとなっている。私も、風紋、交響的舞曲、カーニバルのマーチ、ターブルマーチなどお気に入りの課題曲がいくつもある。それらはいずれ少しずつ紹介したい。 一方、自由曲は六分から七分半前後。各団体が自由に決めるが、多分に顧問指揮者の色が反映される傾向が強い。吹奏楽ならではのクラシックはたくさんあって、リード、バーンズ、ミッチェル、小長谷宗一、兼田敏、松尾善雄などは、私の学生時代には競って演奏された。高校の時の顧問指揮者は、多分にキリスト教色の強い曲を好んだし、管弦楽のクラシックを多用した。コンクールでもヴェルディのオペラ「シチリア島の夕べの祈り」を演奏した。無論、管弦楽曲吹奏楽のために書かれたわけではないから、弦楽器を管楽器で補うのは至難の技で、編曲されているとはいえ、全体の難易度も高く、個々の演奏技術を求められる。実際それをさらりとやってのける楽団もあるが。自由曲はまことにその団体と、指揮者のカラーが如実に表れる。課題曲と自由曲は、フィギュアスケートショートプログラムと、フリースケーティングと思えば、わかりやすいかと思う。

さて、中学一年生の夏、コンクールでは県大会で金賞を獲るも、九州大会へは進めなかった。いわゆるダメ金である。支部大会や全日本へ進めない金賞を、「ダメ金」とか「タダ金」とかいうが、思えばずいぶんと酷い言い方である。それほど実力本位のシビアな世界なのだが、この言い方には中高生は傷つくだろう。コンクールが終わり、九月の初めにマーチングフェスティバルに参加、そのあと私は部活を休むようになった。当時、両親の離婚とか、家庭内の不和があって、暗澹とした気分であった。そのもやもやを何処へどう発散したらよいやらわからず、私の心は自ら吹奏楽から離れていった。今思えば、十三歳の少年には耐え難いことであったかもしれないが、やっぱりトランペットより、クラリネットが吹きたいという気持ちが、日々高まっていったことが最大の理由である。一ヶ月ほど部活を休んでいたら、顧問に呼び出された。やる気はあるのかと叱責を受ける。家の事情など話す気はなかったが、私は何故か涙が流れてきて、その場で号泣してしまった。叱られたから泣けたのでない。自分でもよくわからなかったが、いろいろ我慢していたことが、あのタイミングで決壊したのであろう。一頻り泣いた後、明日から部活へ戻ると約束した。そして、正直にクラリネットへ移籍したいと申し出てみた。先生はしばし考えて、トランペットを続けるように言った。さもありなん、トランペットパートはすでに固定されつつあり、私も及ばずながら一員として、先輩達から指導されていた。今はどうか知らないが、当時の吹奏楽部で、自らの我儘でパート替えを望む部員はいなかった。ましてや、ろくに演奏も出来ないひよっこ一年生である。しかし、私は一歩も退かなかった。パート替えが許されないならば、退部するとまで言ってしまった。何とまあ、不躾極まりない物言いか。思い出せば、汗顔の至りである。最終的に顧問は折れた。私が本気で取り組むならば、クラリネットへの移籍を許すと言われた。無論、それだけは本気であった。あの日あの時の私には、本気になれるものなど、クラリネット以外にはあり得なかった。続。