弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一天孫降臨一

日本の歴史の中には、常に天皇の存在があった。神の国とは言わないが、国家の中心には天皇がおわし、時には親しく政を行い、時には精神的支柱、或いは文化的支柱とされた。明治以降は一世一元となり、まさしく天皇の代替わりが時代の節目となっている。明治維新後、天皇は現人神と奉られ、国家元首であり、日本軍の大元帥であった。うまく利用されたとも云えるが、そんな簡単な事でもないことも事実である。戦後、天皇は日本国と日本国民統合の象徴と憲法に明記された。この四月に退位される今上陛下は、これまでのどの天皇よりも民衆の傍に寄り添われてきた。五月に皇太子さまが即位されたら、百二十六代天皇となられる。これから退位礼、即位礼、大嘗祭など、皇室にとって重要なる儀式が数多行われる。私は昭和から平成にかけての皇位継承をよく覚えている。中学生であったが、昭和天皇崩御から、今上陛下の即位礼、大嘗祭までを好奇心旺盛に追った。それが日本史を紐解きたいと云うきっかけのひとつともなった。三十年前の代替わりは、昭和天皇崩御と云う暗い雰囲気の中で厳粛に行なわれた。今上陛下や皇族方は一年間喪に服される。こうした状況で新時代が幕を開けたが、決して華々しく平成が始まったわけではなかった。これは明治から大正、大正から昭和も同じであった。譲位による代替わりを除けば、いつも新しい御代を迎えるのは似た雰囲気であったと思う。

言うまでもなく神代の天皇は、日本神話の延長線上に在って、在位期間や没年齢を見ても、現在はっきりと記録が確認できるのが、第二十六代継体天皇からであると云うのが定説である。が、八幡神たる応神天皇や、世界最大の墳墓に眠る仁徳天皇とて、私は伝説をまったく信じないわけではない。何らかの足跡があるが故に、伝説や伝承は生まれたはずであり、ましてや天皇の事である。良きも悪しきも様々な事が語り継がられて当然であろう。しかしここでは神代についてはあまり深く掘り下げることはしない。私自身の智識など浅薄であって、ここに時間を割くと一生かかってもわからないことばかりだからだ。神代についてはあくまで知られている範囲でのみとしたいが、賢しら口に申すわけではなく、いずれ皇位継承のきっかけとなりし入り口を、ほんの少しだけ覗いてみたい。

天之御中主神(アメノミナカヌシ)ら創造神に始まって、神代七代の最後の二神である伊耶那岐(イザナギ)、伊耶那美(イザナミ)の国産みと神産み、そして死んだイザナミを追い黄泉の国へゆき、その黄泉の国から逃げ戻ったイザナギが、穢れを落として洗い清めたところで、天照(アマテラス)、月読(ツクヨミ)、素戔嗚(スサノオ)が生まれ、アマテラスは高天原を治めて最高神となるが、日本の天皇はその子孫であるとされる日本神話の王道を基にして、話を紐解くことにする。そうでないと、諸説の検証となってしまうし、終わらぬ検証は、門外漢の私には不可能であるからだ。余談であるが、このイザナギイザナミの国産みから神産み、黄泉の国の話は大変可笑しくもあり、或る意味では恐ろしく気味が悪い。そして女性は不浄の存在であると単刀直入に表し、長い間の女性蔑視につながる話になっているとも云えよう。これが現代まで続く日本人特有の陰湿極まる様々な差別や、虐めに連なっていったのだとすれば古事記とは哀れである。が、何も悪気のみで書かれたわけでもあるまい。

深田久弥は「日本百名山」の「白山」の項で、日本人と山についてこう書いている。日本人のふるさとの山への憧憬と望郷の念を、これほど的確に著した文章はないので引用したい。

「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。」

深田久弥のふるさとの山は白山であったが、私にとってふるさとの山は霧島山である。私の生まれ育った日向国は、神話と伝説の宝庫で、寺よりも社の数が圧倒する。高千穂、霧島、西都、青島、鵜戸など神話や古代史の舞台が数多あって、幼少より歴史好きの祖父に連れられて歩き、祖父からよく耳にしたのが、ニニギノミコトの話であった。紙芝居や絵本でも神話を見聞きし、天孫降臨の話は幼いころから何度も何度も聞かされてきた。私の家からは、遥か西北に霧島山が望まれた。霧島山の山容は、正しく「山」という漢字そのままである。確かに神山の風格を備えてい、私は朝に夕に無意識のうちに心中で遥拝した。霧島山とは宮崎県と鹿児島県に跨る霧島連山の総称で、主峰は韓国岳である。二番目に高いのが高千穂峰だが、山容の美しさは霧島山随一で、都城盆地を真っ直ぐに見下ろしている。その崇高なる姿に、あの山には神様がいて守られていると思った。火山の岩盤が育くんだ霧島烈火水という水は美味い。私は霧島烈火水を飲んで育った。全国的に有名になった焼酎も、霧島烈火水で造られている。霧島烈火水は畜産、米、野菜、そして茶の栽培に恩恵を与えている。高千穂峰には天孫降臨の神話が伝承されている。私の想像する天孫降臨の想像図は、狩野探道の描いた天孫降臨そのままである。金銀の八重棚引く雲に乗って天降る神々の姿は、単に神々しいとかいう言葉で表せない。ニニギノミコト以下、付き従う神々は、髪を鬟に結い、服装は我々が想像する古代人のような白衣を着ている。その姿はおよそ武神のイメージとはまったく違う。が、手には剣や槍を携えていて、やはり一丁事あれば迎え撃つ、というよりも圧倒的軍事力を誇示し、地上の抵抗は許さぬという無言の威圧を感じる。この絵が描かれた時代背景が多分に影響したことは想像に難くはないが、実際に古代人の最強勢力が他勢力を屈伏させ、古代国家を統一する姿とはこうであったかもしれないとも思わせる。天降りの決定的瞬間が、或る意味あれ程写実的に描かれた絵はあるまい。神々はまさにこの絵に影向している。

古事記上つ巻の天孫降臨の章には、この場面が古事記らしくまことにさらりと記されている。

筑紫之日向之高千穂之霊じふる峰に天降りましき(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけにあもりましき)

この場面はまさしく古事記全体の核心となるシーンであって、私はこの一説を正当化するために、古事記は書かれたと言って過言とは思わない。天孫降臨古事記のハイライト。ここまではあくまで序章であり、この後は天孫降臨の後日談を語りつつ、本質は天皇家の権威固めの章とも云える。天照大御神アマテラスオオミカミ)は、子の天之忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)の子、つまりは孫の瓊々杵尊ニニギノミコト)を、高天原から遣わされた。降臨の場所が高千穂峰である。高千穂とは、途轍もなく高い場所の意で、遥か高天原から天孫が降りたつ場所に相応しいとされた。日本には富士山をはじめ、標高千七百メートルほどの高千穂峰より遥かに高い山があるのに、何故ここであったのか。大陸から近く、温暖な南九州は暮らしやすく、水も豊かで、山海の滋味が溢れ、作物もよく実った。古代遺跡からして、畿内より早くから拓けていたのだとも思う。邪馬台国は何処かという話は尽きないが、私は九州説に賛同している。そんなところに、神韻縹渺たる美しい山容で立つ霧島山に、人々が神を拝んだことは当然のことである。天孫ニニギノミコトは、アマテラスの神勅を受けて、三種の神器を携え、天児屋命(アマノコヤネノミコト)をはじめとした八百万の神々を従えて、猿田彦(サルタヒコ)の先導で高千穂峰に降臨してきた。天児屋命は中臣連の祖神、つまりは藤原氏の祖神で、春日大社大原野神社にも祀られているが、記紀成立時の天皇と臣下の勢力図がここにも透けて見えてくる。天孫降臨の地は諸説あり、ここからずっと北の西臼杵郡高千穂町にも天孫降臨の伝説があるが、私の浅はかな想像をさらにたくましゅうすれば、雲海のベールが町を包み、天の岩屋もあり、神々を生き写しつつ奉納される夜神楽が盛んな高千穂町こそが、本当の高天原でありはしないかとの思いに駆られる。少なくとも私には「日向之高千穂之霊じふる峰」は、霧島山以外に考えられない。そのルートは高千穂町から高千穂峰へと南下したのではないかと私は思う。

高千穂峰のてっぺんには、天の逆鉾が突き刺さっているが、今あるのはレプリカで、明治時代に落雷か何かで失ったと云う。天の逆鉾イザナギイザナミが国産みの時に、渾沌とした大地を搔きまわした鉾で、引き上げた時の最初の雫が高千穂峰になったとも云われる。その鉾がそのまま突き刺さっているのが、天の逆鉾である。本物は地中深く埋もれているとも聞くが、真相はどうあれ、一説では奈良時代にはすでにあったらしい。幕末、寺田屋事件のあと、西郷隆盛の勧めで、霧島温泉に湯治に来ていた坂本龍馬は、高千穂峰に登って、かつてあった天の逆鉾を引抜いたと、姉の乙女に手紙を送っている。戦前には霧島山聖蹟として尊崇され、容易に登山することは叶わなかったらしいが、今はそんなことはない。私も登山遠足で数度登った。霧島山の中ほどには、高千穂河原と呼ばれる場所があり、霧島神宮の古宮址がある。ここでは毎年十一月十日、天孫降臨御神火祭が厳かに行われており、天孫降臨の聖地としての面影を多分にとどめている。

 ニニギノミコトは地上にて木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)と結ばれた。そして第二子の火折尊(ホオリノミコト=山幸彦)から、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)が世継ぎとなり、そのウガヤフキアエズから初代神武が誕生する。記紀にはそう記されている。以来、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭…今上陛下まで百二十五代続いてきた。仏教伝来があり、大化改新があり、壬申の乱があり、大仏開眼、平安遷都、摂関院政時代、武家の台頭、南北朝の動乱、室町、戦国、織豊、そして徳川時代まで、時に存続の危機に瀕したこともあったが、日本史の節目節目で天皇はその存在感を示した。スメラミコト、大王、大君、天子、帝と敬称され、天皇と云う敬称が定着したのは、明治維新後で、戦前までは聖上、御上とも敬称された。

新井白石は「古史通」で、神は人なりと言ったが、天孫降臨の瞬間こそが、皇位継承の第一歩であり、皇統の原型とも云えるのではないかと私は思う。譲位による代替わりは、徳川時代後期の光格天皇以来二百二年ぶりのことである。そもそも当世において、天皇代替わりを拝見できることはそうそうない。二度目の私も、三度目はわからないから、やはりこの歴史的な出来事を、前回から三十年を経た今の私の目で、十一月の大嘗祭までをつぶさに拝見し、折角なのでここに書いてみたいと思う。皇位継承を見つめることで、日本や日本人にとって皇位継承とは何なのかを考えてみたい。