弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一スメラミコト一

天皇と云う尊称が慣わされたのはいつ頃ことだったのか。どうもはっきりしないらしい。学説も大きくは推古天皇以降とする説と、天智天皇から天武天皇にかけてとする説に二分されていると聞くが、天皇と呼ばれる以前には、大王と呼ばれていたことは間違いないとか。大王と書いてオオキミと呼び、天皇と書いてスメラミコトと呼んだとも云うが、これも意見が分かれている。私には訓読みの方が、いかにも神々から継承されてきたという感じがする。天皇には様々な尊称があり、天孫であることを示すヒノミコがもっとも古そうである。次いでスメミマノミコト、スメロギ、スメラミコトなど、統治に由来する言葉が当てられた。この後、アキツミカミ、アラヒトガミなど神聖さを表すもの、中国的表現に由来する聖、万乗、天子、皇帝、帝王、帝、聖上、至尊も使われるようになる。さらには御所に由来する御門、禁裏、宸儀、乗り物に由来する乗與、或るいは御上、主上、今上、当代、当今なども時代ごとに広く天皇の尊称とされた。中で私が注視したいのが、スメラミコトという尊称で、スメルとはすなわち統べるの意ではないかと思う。だとすれば、天皇の尊称としては日本の統治者たるにもっとも相応しい。天皇と云う尊称は、奈良朝の何事においても漢風の時代の賜物なのである。ちなみに、これまで女帝は十代八人(皇極と斉明、孝謙と称徳は重祚)存在したが、主にはヒメノスメラミコトとか、ヒメノミコトと尊称された。スメラミコトは天皇大和言葉として記紀にも記述されている。

 初代神武天皇から第二十五代武烈天皇あたりまで、神代の天皇はその存在自体がはっきりしないところもあるが、すべてが想像のみでは神話は成り立たない。半信半疑で読むからこそ、神話は面白いのである。神武天皇という尊称は奈良時代に奉じたものとかで、古事記上つ巻の最後に登場する神武天皇の記述では「若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)」とあり、またの名を「豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)」、またの名は「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」とある。カムヤマトイワレビコが今日でもよく知られているが、これは神武東征の意味を多分に含んでいる。「倭」は大和の古い書き方であり、「伊波礼」は大和の桜井に古くからある地名「磐余(いわれ)」であろう。継体天皇や用命天皇が暮らした皇居は磐余のあたりにあったとされる。カムヤマトイワレビコの名は、九州から大和に東征し、大和朝廷が発足していったことを示している。略してイワレビコとも云う。

古事記中つ巻の冒頭にはこのようにある。

神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬の命とニ柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、

いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」

とのりたまひて、すなはち日向より発ちて、筑紫に幸行でましき

ここから神武東征とその道のりが述べられてゆく。神武東征の道程はよく知られているが、ざっと記しておくと、日向から宇佐を経て、筑紫の岡田の宮に一年滞在し、阿岐の多祁里の宮に七年、吉備の高島の宮に八年滞在した。こうして力を蓄えながらさらに東へ。海路瀬戸内を淡路を経て浪速に向かい、河内に入り、紀ノ川を越えて熊野へ至る。この間、河内では生駒の豪族登美の那賀須泥毘古と戦い、熊野へ入る途中も葛城あたりの豪族と交戦し、熊野では大きな熊が現れ、神武天皇と付き従う兵士たちは気を失う。この熊というのも九州の熊襲のような存在であろうか。熊を充てたのは後の熊野信仰に通ずる布石に違いない。意気揚々と日向を発し、宇佐、筑紫、安芸、備後を配下にして勢いよく東征してきた。ここまでもはっきりと神々の居るルートを通っており、宇佐も吉備も従えて東征者の権威を高めてゆく。それにしても足かけ十五年以上かけてゆっくりと進軍するところが、かつては急進的な変化を好まなかったであろう日本人らしい。いつから日本人は事を急くようになったのか。きっかけは仏教伝来か、大化改新だったか。或いは明治維新以降なのか。それはまた別に考えるとしよう。

浪速から熊野で神武軍がやや劣勢になってしまうのは、いかにこの地が強大な力を有する神、すなわち土着の豪族がいたかが知れる。同時にこのあと大和へ昇り、平定する神武軍が、より強き者に立ち向かい、それを降してヒーローに奉る伏線ともいえる。その後、神武軍の元に、熊野の民「高倉下(タカクラジ)」が一横刀を持って現れた。

高倉下の申すに、「おのが夢に云はく、『天照大御神、高皇産霊(タカミムスビ)の神二柱の命をもちて、建御雷タケミカヅチ)の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし。その葦原の中つ国は、もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降らさね』とのりたまひき。ここに答へまをさく、『僕(やっこ)降らずとも、もはらその国を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂に穿ちて、そこより堕し入れむ。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に献れ』と、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉をみしかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて献らくのみ」

高倉下は熊野の住人で、夢でアマテラスとタカミムスビタケミカヅチを呼び、葦原の中つ国の平定を命ずるが、タケミカヅチは自らが平定に降らずとも、自らの太刀を地上に堕とし、天孫の子孫、すなわち天の御子たるイワレビコに献上させれば良いと説く。果たして高倉下が夢から覚めると、その通り天より降された太刀が倉に突き刺さっていた。それを神武天皇に献上すると、熊野の山々の樹木が倒れ、敵を蹴散らし、神武軍の兵士らも目覚めた。さらにこの高倉下の神託を受け、タカミムスビ高天原より遣わされた八咫烏の導きで、熊野から宇陀を経て、行き先々で悉く勝利し、破竹の勢いで大和磐余へと入った。葦原の中つ国とは高天原と黄泉の国の間、すなわち地上のことである。ついにイワレビコは天の御子として、葦原の中つ国の平定に成功した。そして磐余より少し西へ行った橿原の地に居を定め、初代天皇として即位されたと云う。

 ちなみに日本書紀には、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)、磐余彦尊(イワレビコノミコト)、磐余彦帝(イワレビコノミカド)、とあり、どうしても大和と強く結びつける必要があったことが、しつこく語られていることからも察せられる。日本書記では他に、彦火火出見(ヒコホホデミ)、狭野尊(サヌノミコト)ともあるが、究極は、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)であろう。ハツクニシラス、すなわち天下を始めて馭したスメラミコトというわけである。いわば始天皇であるが、一方古事記の中つ巻では、崇神天皇の項で「初国知ラシシ御真木ノ天皇」と記載があり、御真木の天皇とは崇神天皇のことで、初めてこの国を統治なされたの意という解釈もある。古事記神武天皇の項では、ハツクニシラスの言葉は出てこない。日本書紀では神武、崇神どちらもハツクニシラススメラミコトとあるのは、何故であろうか。スメラミコトの尊称は今も存在するが、使われることはない。せいぜい奈良朝最後の光仁天皇までで、中国かぶれして、平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安遷都を成した桓武天皇以降、スメラミコトと尊称されることは稀になり、天皇、帝、天子、お上、主上などが主流となってゆく。桓武天皇桓武帝と呼ぶに相応しい。

イワレビコの緩急織り交ぜた東征の成功により、スメラミコトが誕生した。このあと二代綏靖、三代安寧と皇位は継承されて、一度も途切れることなく今上陛下まで続いてゆく。記紀に登場する天皇は、崇神、仁徳、応神あたりから少しずつ輪郭を現し、継体からはその存在が多いに高まり、欽明、敏達、用明、崇峻でかなりはっきりとしてくる。そして次の推古女帝より、いよいよ皇位継承を巡るドラマが、神話ではなく実話としてダイナミックに展開してゆく。皇位継承は日本史の背骨になるのだ 。