弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一待賢門院璋子一

平安朝最強の専制君主となられた白河院は、その揺るぎない権勢における実害を身内にまで及ぼされ、さらには平安朝の終焉を導くきっかけを御自ら作られてしまわれる。堀河天皇崩御されて五歳で皇位を継がれた鳥羽天皇は、祖父白河院の薫陶は受けたが、いくつになられてもその強大かつ隠然たる祖父の傘下を抜け出すことは叶わなかった。常に白河院の裁断を仰ぎ、院の目を気にしながら、政も御所での暮らしもまことに窮屈この上ないものであった。むろん後宮白河院が意のままに操っていた。鳥羽天皇中宮となられたのが待賢門院璋子で、白河院が娶せた。待賢門院璋子は、父が藤原北家閑院流権大納言藤原公実、母が左中弁藤原隆方の娘光子である。閑院流は御堂流全盛の折は公卿ではあったが、摂関は望むべくもなかった。公実は御堂流に翳りが見え始めると鳥羽天皇の外舅である自分こそ相応しいと若年の藤原忠実に代わり摂関の地位を欲した。が、大臣も経験していない一公卿に過ぎない公実が摂関になることはさすがに無理があると源俊明が諫めたと云う。そして公実の野心はついに叶うことはなかった。公実は鳥羽天皇の即位直後に死去している。しかし野望はその子らに引き継がれていった。それは妻の光子が堀河天皇鳥羽天皇の乳母であったことが大きな助力となったことは想像に難くはない。後に次男実行は太政大臣、五男実能は左大臣、そして末娘の璋子は鳥羽天皇中宮となる。さらにこの栄華を反映してか、実行は三条家、三男で権中納言通季は西園寺家、実能は徳大寺家を興している。いずれも璋子が中宮となり、白河院の絶大なる寵愛を受けながら、後に崇徳、後白河と二人の天皇の母となる璋子の権勢によるものであると拝察する。

白河院崩御されるまで治天の君であられたが、晩年は異様なお振る舞いも多々あられた。その最たるものが璋子への情愛であろう。母の光子が鳥羽天皇の乳母ととして禁中に仕えていたため、璋子は生まれてすぐに白河院の寵妃祇園女御の養女となり、院の御所で暮らすようになる。白河院は孫のように可愛がられた。権力を掌握された白河院も「天下三不如意」と称されたのが、山法師(叡山とその僧兵)、鴨川の水、双六の賽である。この三つは白河院とて思うとおりにはできないことであったと云うことだが、事実そうであった。叡山は強訴と称して度々朝廷に逆らう気配を見せ、鴨川もよく氾濫した。時代の終焉に訪れる不吉な出来事、例えば天変地異や飢饉、そして武士階級の台頭の萌芽など、時勢混沌とした中、権力は白河院の手中にまだあった。しかし、相当な精神の持ち主でなければ、耐久も困難であったと思う。その中でこの頃に白河院が最大の生き甲斐とされたのが、璋子であった。才色兼備な理想の女性に仕立てあげようと心を尽くされた。白河院は心から璋子を愛しておられ、ちょうど『源氏物語』の光源氏が紫の上を育てるようにして璋子を愛しまれた。そして璋子が少しずつ大人びてくると、白河院はついに手をつけられたのである。時に璋子は十三歳、白河院は六十歳。相思相愛の関係となられ、鳥羽天皇中宮となったあともその関係は続いていた。白河院は孫の鳥羽天皇の御代ではさらに強力な院政を敷かれたが、璋子の中宮冊立をその重石とされたのである。

かくして白河院の地位は確固たるものとなったが、鳥羽天皇はまだ幼く元来病弱であられたことが、自らの皇統を継承すると云う課題はいぜんとして白河院の手に負わされていた。老狂とも云える白河院によって王権内部には新たな矛盾ができてしまった。白河院鳥羽天皇と璋子、二人の少年、少女を王権構成の要とされた。璋子は当初は摂政忠実の子忠通に嫁がせようとした。しかし自らがあまりも璋子を溺愛するようになったため、摂関家へ手放すのが惜しくなり、自らの手元すなわち禁中に留めおくことにした。もっとも摂関家の側にも日次を理由として婚儀を遅らせてきたと云うが、これは院と璋子の噂を耳にして遠慮したのかもしれない。これには白河院が嫌悪感を示しながらも、黙殺されているところをみても推察できる。結局、璋子は鳥羽天皇に入内し中宮となられた。二人の間に誕生された第一皇子顕仁親王である。が、実際の父は白河院であると云うのが定説である。このあと鳥羽天皇を継がれて崇徳天皇として即位されるが、鳥羽天皇は系譜上は息子である崇徳天皇を、「子でありながら、同時に祖父白河院の実子である」とされ、「叔父子」と呼ばれ疎まれたと云う。ここにも平安王朝が終わる火種がひとつ生まれていたのである。このことは次回以降さらに詳しくみてゆこう。さらに問題を複雑にしたのは、同時期に摂政となっていた藤原忠実の娘泰子を鳥羽天皇の妃に迎える話が出たことである。『愚管抄』にもその記述があるが、実はこれは誤りで、実際には白河院御自身が泰子を欲されたのではないかという歴史家の見方もある。前にも少し触れたが、後年、この泰子を鳥羽天皇が妃にしたいと白河院の意向を聞かずに忠実に打診したことが露見し、白河院は激怒され、忠実は罷免されるのである。余談であるが、白河院が忠実を鳥羽天皇の摂政に就けたのも、外戚関係がないからで、政のすべては院の意向によって決定するという形を見せ付けるためでもあった。ここから摂政関白は公家の最高職でありながら、実権が低下してゆくのである。それは目に見えて明らかであったから、白河院崩御の後は忠実や忠通は復権に向けてあの手この手で執念を燃やすことになる。が、今は、まだ白河院の絶頂であった。

鳥羽天皇中宮となった待賢門院璋子の人生はまさに波乱万丈であった。平安末を代表する女性として建礼門院徳子と双璧とも云えよう。鳥羽天皇とは二歳年長であり、天皇にとっては祖父の愛妾とわかっていながらも、聡明で美しい璋子へ終生憧れて惹かれておられたに違いない。大らかで何事にも動じない、まさに完璧な貴族の女性であった。後に、崇徳天皇後白河天皇の御代は国母として後宮に君臨する璋子に、ある種の嫉妬心もあった。鳥羽天皇とはそのようなお人であった。それは幼少期より陰謀渦巻く歪みきった禁中においてお育ちになれば当然であった。しかし、専制君主白河院後宮トップの祇園女御の大きな傘の下でぬくぬくと、またのびのびと成長した璋子はまさに天真爛漫なところが備わっており、それは誰をも惹きつけた。白河院鳥羽天皇のみならず、璋子は禁中において多くの男性と関係を持ったとも云われている。その一人がかの西行法師であった。

西行は俗名を佐藤義清と云う。僧名が円位で、西行とは号である。元永元年(1118)佐藤康清の嫡男に生まれ、十八歳で左兵衛尉となった。そして鳥羽天皇崇徳天皇に譲位されて院の御所に御入りになると、鳥羽院北面の武士として仕えるようになる。北面とは、院の御所を警固するために白河院政時代に設けられた制度で、院の御所の北面に近衛兵として詰めていた。北面の武士は弓馬の道に優れ、眉目秀麗で、詩歌管弦にも通じたものであることを条件とした。時には院の枕席に侍ることもあったと云う。西行北面の武士を勤めると同時に、璋子ともゆかりのある徳大寺家の家人も勤めていた。どこかで自由奔放に振舞う璋子を見かけることもあったのかもしれない。若い佐藤義清は璋子に一目惚れし、生涯をかけてただ一人の女性として愛した。いつのことかは知らないが、たった一夜、璋子と義清は結ばれた。ここから義清は恋と云う病に冒された。璋子に求愛し続けたが、遊びであった璋子には無碍にされた。恋に苦しみ抜いた挙句についに出家に至る一因であるとも云われている。『源平盛衰記』にはこうある。

さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある上臈女房を思懸け進らせたりけるを、あこぎの浦ぞと云う仰を蒙りて、思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へ准へて、有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。

申すも恐ある上臈女房こそ璋子のことなのであろう。恋焦がれる義清に璋子はある古歌を贈っている。

伊勢の海あこぎが浦に引く網も たびかさなれば人もこそ知れ

伊勢のあこぎの浦は伊勢神宮へ捧げる神饌の漁場で、殺生禁断の海であるが、そこで夜な夜な網を引いていた漁師が、密漁が発覚して海へ沈められたという逸話が元にある歌だ。璋子はこの歌に自らと義清を重ねて、しつこく誘ってくる義清に、逢瀬が重なれば、やがて人の噂になると諭されたのである。

義清の出家の原因は親友の佐藤載康の急死であるとも云われるが、この事に無常観を感じつつ、人生の儚さを思い、道ならぬ、叶わぬ恋の虚しさが大きく影響したことは間違いない事実であろう。その因は待賢門院璋子なのである。私もこれを支持している。義清には妻子があったが、あるとき叶わぬ恋に心身疲労困憊となった義清は、前後不覚に陥り、帰宅するとじゃれ縋る幼い愛娘を縁の下に蹴り落とし、世捨て人となった。出家し西行となってからも、待賢門院璋子の面影は西行の瞼の奥に死ぬまで残っていた。それこそが稀代の数寄者であり、遁世者の先駆けであり、平安王朝のみならず、史上最高の大歌人西行が誕生するきっかけであった。ここに恋に破れて涙を呑んだ西行の歌をいくつか挙げたい。

面影の忘らるまじき別かな 名残を人の月にとどめて

弓張の月にはづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん

数ならぬ心の咎になし果てじ 知らせてこそは身をも恨みめ

青葉さへみれば心のとまるかな 散りにし花の名残を思へば

待賢門院璋子への想念が、西行の歌作の原動力であったことはたしかであると私は思っている。