弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一大嘗祭一

明治四十二年に制定された「登極令」は、皇位継承儀礼を大きく四つに分けて定めている。践祚の儀即位の礼大嘗祭改元である。皇嗣すなわちヒツギノミコが皇位を継承することを、古い言葉で「天つ日嗣をしろしめす」と云った。天照大御神を皇祖神としてその神聖なる位を受け継ぐと云う意である。これを漢語では践祚または即位と称した。新天皇は即位すると天神地祇を祀り、践祚の日に高御座に昇られる。天つ神の寿詞を中臣氏が奏上し、神璽の鏡と剣を忌部氏が奉った。新天皇は即位を宣明し、群臣の拝賀を受けられる。この形式は八世紀初め、律令制が整う頃には完成していた。

大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」と称されたが、今では音読みで「だいじょうさい」称している。なお新嘗祭は訓読みで「にいなめさい」か「にいにへのまつり」と称され、或いは音読みして「しんじょうさい」だが、現在は「にいなめさい」が一般的だ。新天皇は実りの秋に新穀を神々に供えて、自らもそれを食する。新嘗祭宮中三殿に付属する神嘉殿にて行うが、大嘗祭は特別に祭殿を拵えて大々的に行われる。大嘗祭を行う祭殿を大嘗宮という。大嘗宮は大嘗祭の度毎に造営され、斎行後は破却して奉焼される。大正、昭和の大嘗宮は京都御苑の仙洞御所内に、平成の大嘗宮は江戸城本丸御殿のあった皇居東御苑内に造営された。今回の大嘗宮も東御苑に造営中で、まもなく完成する。古来、大嘗宮の造営場所は大内裏朝堂院の前の龍尾壇の庭であった。平安末期に朝堂院が焼亡すると、安徳天皇大嘗祭は内裏の紫宸殿の前庭を用いた。その後は再び大極殿の旧地の龍尾壇に建てられた。江戸時代の東山天皇の再興時には、大極殿址も不明になり、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、孝明天皇までそれは続いている。大嘗祭のおよそ十日前に材木や茅を朝堂院の前庭に運び、七日前に地鎮祭を行い、そこからおよそ五日間で全ての殿舎を造営、大嘗祭三日前に竣工したと云う。現在、大嘗宮の規模は大正や昭和の時と同規模とされ、平成もそれを踏襲した。しかし時代を経て、建築様式の変化や用材調達、また技術面の衰退と変化で、古来の大嘗宮のように五日間では造営できなくなり、現在は数カ月かけて造営している。規模は今より小さいのだろうが、それでも五日で完成させていた昔の人々の凄さが知れよう。令和の大嘗宮は、悠紀殿や主紀殿などの屋根が茅葺から板葺になり、さらなる簡素化とコストダウンが図られている。昭和や平成同様に大嘗祭が終われば一般公開されると云うから、私もその目で確かめてまた報告しようと思う。

現在の大嘗祭は「期日報告の儀」から始まり、次ぎに「斉田点定の儀」が行われる。斉田とは神に供する稲穀を耕作するための田のことで、大嘗祭はこれを選定するところから始まるのだ。大嘗祭において供される神饌の内、日本人の主食たる稲については特に重要視されている。大嘗祭の祭祀は同じ所作が二度繰り返されることから、斎田も二箇所あり、それぞれ悠紀(ゆき)、主基(すき)と称される。祭祀を行う場所を悠紀殿、主基殿と称す。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。悠紀と主基の国は斎国(いつきのくに)と呼ばれる。悠紀は畿内より東から、主基は西から選ばれるのを原則とした。宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国備中国冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。明治以降は全国から選出されるようになり、平成では東京を中心に東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟、長野、静岡を含む東側の十八都道県、主基国は西側の二十九府県となった。斉田点定の儀では神殿にて掌典職が拝礼した後に前庭に設営された斎舎にて、国産のアオウミガメの甲羅を古式にのっとって焼き、その亀裂の入り方から卜占する。これにより悠紀、主基二箇所の都道府県が決定する。稲穂が実る秋に「斉田抜穂の儀」が行われ、大嘗祭まで大切に保存される。此度の大嘗祭では悠紀は栃木県、主基は京都府と決まったが、代々この大役を務めることは多大な緊張を伴うであろうし、果たせばこれほど名誉なことはあるまい。斎田の持ち主は大田主と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。それにしても甚大な自然災害がひっきりなしにやってくる現代においては、悠紀、主基の斉田のみならず、稲作や農業全般に関わる方々の労苦に想いを致さなければならない。天皇は我々民に代わって毎年毎年、新嘗祭という形で行って祈りを捧げておられるのである。

天皇は大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧と五穀豊穣を皇祖天照大御神及び天神地祇に感謝し、また祈念する。大嘗祭のはじまりは弥生時代末との説もあり、狩猟から農耕へ転換し、ようやく各地に田畑が広がり始めた時期に重なる。まさしく日本人の祈りの原点を示しているわけで、大嘗祭新嘗祭は日本人が生き存えてきた歴史そのものであると云えよう。さらに伊勢をはじめとした畿内各地では古墳時代にまで遡って、その頃から祭祀が行われてきたらしいから、大嘗祭の本当の起源はさらに古いかもしれない。上古の人々は現代人より遥かに自然への畏怖と感謝が強かったはずであり、それに伴う壮大なアニミズムもごく自然なことであった。

 大嘗祭新嘗祭においての天皇の祭服は純白生織(すずし)の絹地で奉製されており、これは最も清浄な服である。天皇は大嘗宮に入られるとまず悠紀殿の内陣の御座にお座りになる。御座は伊勢神宮の方角に向いている。ここで侍従や女官の介添えのもと米や粟などの五穀、海産物、果物を柏葉に乗せてお供えし、一時間半をかけて奉仕する。大嘗宮には菜種油の灯りのみが灯され、まことに幻想的な雰囲気が漂う。 そして伊勢神宮の方角に拝礼し、お告げ文を奉じる。そのあと天皇は神々と同じものを召し上がる。これを直会(なおらい)と云う。これと同じことを次いで主基殿においても行うのである。大嘗宮の儀はあまりに荘厳かつ壮大なので、私などが述べられるのはこのくらいである。そもそも専門家でもない私が知ったかぶりをしていろいろ述べる必要もない。今ではその内容はいろいろと報じられているし、考証も専門家に任せればよい。

それにしてもまことに神道に基づいた皇室の宗教的行事であり、神秘に満ちたいかにも儀式といった大嘗祭が、連綿と受け継がれていることに私は感動する。おそらくはっきりと大嘗祭が成立したのは天武天皇の頃だろう。この頃に現代まで連なる宮中祭祀が始まっている。元皇学館大学教授の田中卓氏や、元国学院大学教授の上田賢治氏も同様の見解を示されている。大嘗祭は千年以上前から十一月の中の卯の日と決まっていたが、明治以降は十一月の然るべき日となった。 大嘗祭新嘗祭の儀式の形が定まったのは、七世紀の皇極天皇の頃とされるが、この頃はまだ通例の大嘗祭と即位後に新天皇が行う「践祚大嘗祭」の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時だと云う。ただし当時は一世一代のものではなく、在位中に何度か挙行された。 律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と称されるようになり、大祭祀として整っていった。大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には三日間にわたる節会が行われていたことに由来しているとかで、現在も大嘗祭のあとに行われている祝宴「大饗の儀」に伝承されている。 連綿と書いたが、大嘗祭は消滅の危機、というより完全に消滅した時代もあった。室町時代中期に応仁の乱が勃発し、そのあと世は戦国時代に突入する。朝廷も窮乏した。大嘗祭後土御門天皇の即位以降、江戸中期の東山天皇即位による再興まで二百二十一年間も行われなかったのである。東山天皇の父霊元天皇院政を敷いて内裏を支配した。朝廷の失地回復を狙い、大嘗祭を復活させたのである。

去る令和元年十月二十二日、今上陛下の即位礼正殿の儀が滞りなく終わった。夜来から降り頻る雨、午前中に行われた「賢所大前の儀」の時にはさらに風雨が強まり、東京は冷え込んだ。ところが、正殿の儀が始まると宮殿上空には青空が見えつ隠れつし、薄日も挿してきた。天皇陛下は高御座に昇られ、内外に御即位を宣明された。安倍総理大臣が寿詞を述べ、天皇陛下萬歳を三唱。同時に北の丸公園から陸上自衛隊による礼砲が二十一発放たれた。その時、東京上空にはうっすらと虹が架かったのである。なんとも不可思議であったが、ヒツギノミコの成せる業としか言いようがない。台風の影響で祝賀御列の儀は来月十日に延期となったのは当然であるが、ヨーロッパやアジアの王侯貴族、各国の代表が平成を上回る数参列した。平成の即位礼も十一月であった。つぎはいよいよ大嘗祭が行われる。即位礼正殿の儀や饗宴の儀、祝賀御列の儀は天皇の国事行為であり、政府が取り仕切るが、大嘗祭は皇室の祭祀であり、天皇が祭主で、宮内庁が取り仕切り、政府は経済的側面や警備、その他でサポートする。大嘗祭は、新天皇が即位後初めて行う一世一代の盛大なる祭祀である。数ある宮中祭祀で、もっとも重要な儀式と云えるかもしれない。神々に五穀豊穣を祈願し、豊作に感謝の誠を捧げる大嘗祭、そして毎年の新嘗祭天皇の務めと役割をもっとも具現している。象徴天皇としてではなく、世界平和と日本国民の安寧を祈念する祭主としての天皇である。