弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

多摩丘陵に棲む〜花だより〜

桜は人を酔わせ、惑わせ、狂わせる。 かくいう私も花の便りが聴こえ始めると、つい浮き足立つ。平静を装うふりをしても無駄で、今年何処の花に逢いに行こうと想いを巡らせる。毎年のことだ。 多摩丘陵はそこかしこ桜が植わっている。実際、私の自宅付近もソメイヨシノはむろん、山桜や八重桜も多く見られる。越したばかりの今年はひとまず、近所の桜を眺めて歩いた。

先日、梅だよりをお伝えした薬師池公園。梅はすっかり終わって、桜のたよりが届いたと思いきや、行った日にはもう満開であった。池の向こうにはぼんやりと花の雲。太鼓橋を渡って私は花の雲中に身を埋めた。この春芽吹き、今を咲き誇る草花たち。多摩丘陵も魔法をかけられたように彩られている。薬師池公園の西園には広い菜の花畑もある。菜の花を眺めていると、身も心もふわふわと浮遊してゆく。

広袴公園へ行った朝はらおりからの雨。公園に着いた時にはどしゃ降りになってしまったが、おかげで私は桜を独占できた。桜は朝日か夕陽に透かしてみると格別だが、雨中でも美しい。雫滴る桜は、より儚げに見える。

せっかくの花の宴。平日の閑散時を狙って、少しだけ足を伸ばすことにした。今年は栃木県下野市の”天平の丘公園”へ出かけた。此処にはかつて下野国国分寺国分尼寺が在って、今は天平時代の史跡公園となっている。園内には多くの木々草花が植えられ、四季を通して楽しめるが、主役はやはり桜。八重桜を中心におよそ五百本あまり植えられている。恒例の”天平花まつり”は昨年に続き中止だが、人影はまばらで、かえって静かに花とご対面できた。こちらには根尾の”淡墨桜”、山高の”神代桜”、三春の”滝桜”の日本三大桜や盛岡の”石割桜”など、名立たる桜の子孫樹が一堂に集まっており、子孫樹たちは坂東のど真ん中で、今、堂々と根を張って、枝を大きく伸ばしている。この春も彼らは一斉に咲き誇っていた。それにしても日本人の桜愛は深い。どこへ行っても桜は在る。この日私は、行きも帰りも”湘南新宿ライン”を利用したが、車窓からの眺めは格別。沿線はどこもかしこも花、華、桜。宇都宮線はこの時季”花見電車”になる。どうせならゆっくりとグリーン車を利用するのがお勧めだ。ことに蓮田駅近くの元荒川沿いは圧巻で、堤の上を延々と続く桜並木はすばらしい。帰りに見た夕陽に透かされた花は、この世ならぬ美しさであった。

陽春払暁。私は寝室の窓を開けると息を呑む光景が現れた。外はすでにうっすらと明るい。西の空へ隠れゆく望月、満開の桜花、そして鶯の目醒めの囀。陶然と眺めていると、心地良き春の風が頬を掠めた。 我にかえり、今度は深呼吸してみる。極楽浄土とはこんな場所なのではないかと思った。

この春は大和和紀さんの源氏物語あさきゆめみし”を拝読した。行く春に私もやはり荘厳華麗な”紫の上”を重ねてしまう。多摩丘陵へ越して来て、最初の春からすでに大満足だが、早くも来年の花が待ち遠しい。