弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜チューニング〜

今でも時々、中高時代の夢を見る。吹奏楽部でクラリネットを吹いていた頃の夢である。もう二十五年以上も前で、初めて楽器を吹いてから三十年は経っているが、あの頃、吹奏楽に明け暮れた日々が、よほど脳裏に焼きついているのだろう。現役の頃より楽器を奏でる夢は繰り返し見てきた。ほとんどがコンクール本番や演奏会の夢だが、たまには練習中の夢もある。だいたいが途中で目覚めてしまうのだが、目覚める度、目には共に励んだあの頃の皆の顔が残像し、耳には奏でし音が残存する。その度にしばし茫然とし、それから無性に楽器を吹きたくなる。いつまでこんな夢を見るのかわからないが、青春の欠片を拾っては落とし、落としては拾っている気がする。そのパズルは永遠に完成することはないだろう。それはわかっているが、もう二度と戻れないあの頃を追憶することが、人が少しずつ老いを受け入れてゆく過程においては必要なことではないかと思う。そんな事を想いながら、この青春譜を書いている。

私は中学でも高校でも三年生になると吹奏楽部でトレーナーという役を務めた。トレーナーは外部から専門の人を招いて、指揮者の補佐的指導を行う場合もある。具体的には音楽表現以外に、全体の演奏技術の向上、個別指導や基礎トレーニング、指揮者不在時は代指揮者となる。部員がトレーナーを担う場合もあり、その場合は主に合奏前の全体のチューニングを行う。合奏前にはまず個々でロングトーンをして、基礎音階を吹奏し楽器を温めてゆく。楽器も自分の心身も温まってゆくと、徐々に楽器と自分がひとつになってゆくのを感じる。合奏前に時間があれば、個人やパート練習で譜面をさらったりもする。楽器は季節により音の幅の広がる速度が微妙に変わる。木管楽器金管楽器も気温の変化で収縮するのだ。ましてクラリネットは木製、或いは合成樹脂製のため、他の楽器に比べて気温や湿度による影響はとても大きい。合奏前のチューニングは非常に重要になってくる。絶対音感の持ち主ならば、相当に緻密にチューニングできるのだろうか?美空ひばりさんは、バンドのたった一人の微妙な音のズレを瞬時に聞き分けて指摘されたと云う。それはさておき、絶対音感など持ち合わせない私は、チューナーやチューナー付きキーボードを駆使して(要するに自分の耳と機械に頼りながら)、バンド全体のチューニングをした。吹奏楽で行うチューニングでは、B♭の音が基本となる。オーケストラではそれより半音低いAの音でチューニングをする。吹奏楽ではクラリネットやトランペットなどB♭管が主流のため、B♭で全体を合わせるのだ。一方弦楽器は開放弦がAであり、管楽器も弦楽器に合わせてAでチューニングをする。オーケストラでは第一ヴァイオリンのコンサートマスターがステージ上で最終チューニングを担当するが、吹奏楽でも基本的にファーストクラリネットの最上級生がコンサートマスターの役割をする。場合によっては、トレーナーがコンサートマスターを兼ねて、合わせてゆくこともあり、私もファーストクラリネットであった三年生の時は、自らトレーナー兼コンサートマスターとなった。合奏前には一人ひとりB♭音をロングトーンし、トレーナーがチューナーを442Hzに設定して、チューナーの針が真ん中を指せばチューニング完了。が、これも一定ではなく、一度合ってもまたズレることしばしばあるし、先に述べたとおり、季節ごとに変わる。私が思うに冬よりも夏の方が比較的チューニングし易い印象がある。冬場は楽器がなかなか温まらないし、温まって冷えるのも早いからだろう。そんな時は個別にロングトーンをしたり、マウスピースやリードを取り替えたり、菅の長さを微妙に調整することもある。ここまでくると奏者もトレーナーも職人の如し。しっかりと音を合わせ、チューニングする事がトレーナーの重要な仕事であり、チューニング万端となって、楽団を指揮者へと渡す。責任があるゆえに緊張もするが、大変やりがいもあって、トレーナーになった時はうれしかった。

皆を誘導して、音をまとめることに苦労したせいか、夢でもっともよく出てくる場面が、演奏前のチューニングのシーン。チューニングがなかなか合わずに、何度も音を合わせるのに四苦八苦し、結局合わずに本番となって、冷や汗をかきながら演奏するなんていう夢もある。実際はそんなことはなかったのだが、思えば余程神経を尖らせていたのだろう。それほど音を合わせて、全体が美しいハーモニーを奏でることに、私のみならず、個々が心を砕いていたのである。それは意識することもあれば、まったくの無意識のうちにということもある。吹奏楽部員はそれを何となくわかっていて、いつの間にかそんな能力が個々の身についているのである。日々の練習や努力によって、ただでは決して得られない大きな力を授かるのだ。楽器や全体の音を敏感に感じるようになる。チューニングの良し悪しがわかるようになる。楽器を奏でるスキルのみならず、音楽を表現する者としての技術や能力を自然と備えてゆくことが、或る意味において吹奏楽に携わりし者の凄さなのである。スポーツでも、茶道でもそうしたモノはある。その道をゆき、極めんと欲すれば、自ずと精進し、その道をゆく者にしか備わらない力が、神より与えられるのだと私は信じている。吹奏楽にもそれはある。彼らをよく見てほしい。そして彼らが得た特別な力は、演奏の時に満開に花開き、私たちを散華の中に誘うであろう。続。

なおすけの平成古寺巡礼 江戸深川

広重の「名所江戸百景」が好きで、複製ではあるがすべて所蔵している。江戸の様子、江戸人の暮らしを垣間見るには、「江戸名所図会」とともに必須である。名所江戸百景のお気に入りの場面は数多あるが、中で一番美しいのが、「深川洲崎十万坪」である。この絵だけは一見すると江戸を描いた感じがしないのだが、よく見ればやっぱり江戸としか思えないところが良い。「名所江戸百景」でもっともダイナミックな作品だ。真冬の雪空を滑空する鷹が画面上に大きく描かれ、荒涼たる開発途上の深川洲崎を見下ろしている。鷹は、餌を探すのか、人を睨んでいるのか知らないが、遠くには筑波の峰が見え、まさしく鳥瞰図である。深川より先の洲崎、今の東陽町や砂町あたりを俯瞰した場面であろうが、あの時代、このあたりが未開地であり、いかにも江戸の果てであったことがはっきりとわかる。

寒中、友人を連れて深川を散歩した。私は江戸情緒が残る深川を歩くのが好きだ。隅田川対岸の日本橋人形町に比べたら敷居が低く、親しみやすい印象を受けるのは、ここに暮らす人も多いからであろう。深川はオフィスよりも商店や住宅が目立つ。江戸という町を大まかに見て、江戸城より東南は下町、西北は山手。今や日本橋や銀座は下町というイメージが薄らいでいるが、本所や深川はいかにも東京の下町の暮らしや文化が残り、その匂いは些かも衰えてはいない。中で深川は江戸の抜け殻が、たくさん見つかる町。現代東京の下町の双璧をなすのが浅草と深川であるが、江戸期、浅草や深川は御府内ではなく、江戸郊外の歓楽地であり、新興住宅地であった。特に本所や深川は城下とは隅田川を隔てており、「川向う」と呼ばれた。現代東京でいえば、ちょっと前のお台場とか、若洲のあたりと想像したらいい。寒村江戸が拡大の一途を辿るのは寛永期からで、江戸庶民が闊歩した深川は、江戸の新興住宅地の先駆けであった。家康は江戸入府以来、この地の埋め立て、干拓、造成を深川八右衛門ら数人の摂津人に託した。彼らは漁師の元締や庄屋である。人が住み始めて、村の名前はすんなりと深川村となった。深川が幕末までさほど幕府の干渉を受けなかったのも頷ける。ここは庶民が一から創造した町なのだ。江戸城下の川向うには、庶民に対しての自由の大地を与えることが、徳川幕府の飴と鞭の撫民政策であったと思われる。深川、本所、向島などの川向うは撫民政策の特区であったと云えよう。

清澄白河から門前仲町まではちょうどいい散歩コース。江戸はベネチアをも凌ぐ水都であった。ことに本所深川は掘割が縦横無尽にあって、まことに交通運搬に至便なところであった。このうち動脈と云えるのが、北十間川、竪川、大横川、横十間川小名木川仙台堀川である。中で小名木川は本所と深川の隔てにあって、川幅、水量ともにもっとも大きい。小松川のあたりで旧中川より分流し、東から西へと流れ、隅田川に注いでいる。河口には広重や北斎も描いた萬年橋がかかってい、橋を渡ると芭蕉ゆかりの地がある。芭蕉は一時このあたりを住まいとし、ここから奥の細道の旅路へと向かった。隅田川沿いには芭蕉銅像あり、芭蕉記念館あり、芭蕉も参禅したと云われる臨川寺がある。芭蕉庵の跡地にはささやかな芭蕉稲荷が建っているが、尾張屋金鱗堂の切絵図では、幕末頃このあたりに紀州家の下屋敷があり、邸内に芭蕉古跡と記されている。このあたりは江戸中期以降に紀州家に与えられ、紀州家が邸内に稲荷を勧請し、維新後に紀州家の土地から町に却った時に、芭蕉稲荷と呼ぶに至ったのであろう。

清澄庭園から清澄通りを挟んで、資料館通りという小路に入る。清澄庭園紀伊国屋文左衛門から大名家、三菱岩崎家へと渡り、後に東京都に寄贈された。資料館通りに入ると左手に大きな甍の霊巌寺がある。霊巌寺には白河楽翁の墓があり、清澄白河の白河とは白河楽翁に因む。白河楽翁こと松平定信は、寛政の改革を行った江戸中期後半の老中で、老中就任前には、宿敵田沼意次と政争を繰り広げた。定信は宝暦八年(1759)、徳川御三卿の一つ田安家に生まれた。十代将軍家治には世子家基がいたが、安永八年(1779)に十八歳で急死、俄かに将軍継嗣問題が浮上する。この期を見逃さなかったのが、同じく御三卿の一橋治済であった。治済は稀代の策謀家である。御三卿は将軍家の家族同様と見做されたため、必然、時期将軍をたてる筆頭と暗黙された。八代吉宗が起し、九代家重の時分に御三卿が整えられてからは、御三家は家格こそ御三卿より上でも、将軍継嗣を出す親藩としては一歩外に出されてしまった感がある。治済はこれを傘に我が子家斉を時期将軍に擁立するために動く。御三卿のうち清水家は当主や家臣団の出入りが激しく、実質は田安家か一橋家から時期将軍が擁立されるのは、この時代の幕閣の周知であった。田安家当主治察は病弱であったが、弟の定信は爽健かつ英邁と評判であった。いずれ将軍に推す声もあり、定信自身もその気であった。これを危惧した治済は、時の権勢者田沼意次に働きかけ、定信を白河藩松平家に養子縁組させることに成功する。定信はこの時より意次を恨んだ。 治済の思惑通り、治察は早逝し、事もあろうに田安家には治済の五男斉匡を送り込み、どう転んでも、治済の子が時期将軍となることが必定となった。果たして十一代家斉が将軍となって、その後見役として治済は凄まじい権勢を誇る。家斉に田沼意次を罷免させ、松平定信を幕閣に迎えて老中首座とした。これは私見であるが、家斉の将軍就任と同時に治済にとって意次は不要の駒となった。寧ろ邪魔者となった。飛ぶ鳥を落とす勢いで、権勢を手にした意次は、田沼時代と呼ばれる一時代を自らの才覚のみで築きあげた。意次は江戸期において、もっとも革新的な改革者であった。米経済から貨幣経済への転換を試み、株仲間を公認し、蘭学をはじめとした学問の自由を推奨した。こうした改革者の下では、治済や家斉とて、いつ引きずり降ろされるかわかったものではない。したたかな策士である治済が、そんな事を考えなかったはずはないのである。紀州家の下級藩士から、家重小姓となり、とんとん拍子で最高権力者となった意次の眩しさは、御三家譜代門閥の保守派からは疎まれいた。意次は極めてしっかりとしたビジョンを持っていたのだが、世が世であって、それは旧態以前へ回帰を願う保守派の力も、今の我々には想像がつかぬほど強大であった。その保守派の急先鋒に育っていたのが、松平定信であった。治済は密かに定信と連携して、田沼意次の追い落としを企てたものと思う。折しも天明の大飢饉が起こり世は荒んでいた。およそ二十年に及ぶ田沼政治にも翳りは見えていたのである。ここで颯爽と現れた定信は、吉宗の享保の改革を参考にして、貨幣経済から米経済への回帰をし、農村復興のために農村に資金援助をして、江戸に流入していた百姓を帰村させた。田畑の再開墾や子供の養育のため幕府の公金を貸付たり、旗本御家人の札差からの借金を帳消しにした。石川島には人足寄せ場を設けて無宿者を収容し、職業訓練と江戸の治安維持を図った。学問も朱子学以外の学問を異学として、基本的には禁止し、幕府の役人も朱子学を学んだ者に限り登用、湯島聖堂学問所を、幕府直轄の昌平坂学問所に改めている。出版も厳しく統制し、山東京伝蔦屋重三郎は風俗を乱すとされ罰せられた。この頃、ロシアのラクスマン蝦夷根室に通商を求め来航、しばしば日本近海に外国船が現れるようになったことから、定信は海防にも力を入れて、自ら相模や伊豆の沿岸警備を視察し、強化に努めた。こうして定信は、田沼政治から政策の大転換を半ば強引に推し進めた。が、これを心から歓迎したのは一部の保守派のみで、自由を謳歌した田沼時代からしたら、粛清ばかりで、人々は窮屈な世となったことを嘆いている。

白河の清きに魚のすみかねて 元の濁りの田沼恋しき

このあまりに有名な落首は、当時の人々の皮肉とか鬱憤とかのみならず、いつの世も為政者が裸の王様であることを如実に示していると私は思っている。もっとも定信政治のすべてがまちがっていたわけではない。天明の大飢饉白河藩は、ただ一人の餓死者も出していない。これはひとえに定信の指導力の賜物である。定信の治世は意次よりずっと短く、わすが六年で改革は頓挫し、失脚した。藩政に戻り、後に隠居して楽翁と号した定信は、度重なる屋敷替えや火災に遭い、流転の日々を送る。深川洲崎の地にも洲崎海荘という隠居屋敷があったことが縁で、死んだあとはここ霊巌寺に埋葬された。霊巌寺寛永元年(1624)、浄土宗の僧霊巌により開かれた。元は日本橋近くの霊岸島にあったが、明暦の大火でこの地へ移転してきた。増上寺を中心とした浄土宗関東十八檀林の一つで、江戸期を通して大寺院であった。また江戸六地蔵の第五番とされ、今も境内には笠をかぶりどっしりとしたお地蔵さんが鎮座している。

霊巌寺門前を資料館通りと称するのは、近くに深川江戸資料館があるからだ。この資料館には、ここらあたりに来たらぜひ立ち寄ってほしい。内部には江戸の町家暮らしの一部が再現されていて、規模はさほではないが、とても忠実に江戸人の暮らしが垣間見られる。私は何度もこの江戸の町を訪れているが、いつ来ても楽しい。ここで江戸人の暮らしにほんの少し触れてみると、いかに我々現代人が無味無臭の寒々しい世を生きているかを痛感させられる。我々は人と人との交わり希薄な寂しい時代を泳がされているのだ。

このあたりは霊巌寺を中心とした寺町で、出世不動尊など大小が点在している。雲光院は慶長十六年(1611)、阿茶の局の発願により建立された。阿茶の局は家康の側室で、甲斐武田氏の家臣の娘である。未亡人で家康との間に子は恵まれなかったが、豪胆かつ才覚に富んでいたことから、家康は常に手元に置いて寵愛し、秘書のような役割を果たしたとされる。正室築山殿を早くに殺めた家康は、その後秀吉に押し付けられた朝日姫を後添とするも死別、その後は生涯妻を娶らず側室を侍らせたが、阿茶の局は半ば正室同然の扱いを受け、周囲も自然にその成り行きに任せていた。それほど阿茶の局とは、家康にも周囲にも、一目置かれて然るべき人物であったのだろう。大坂の陣では徳川軍の和睦行使を命じられており、徳川初期にこれほど政治的に活躍した女性は阿茶の局と春日局をおいて他にはいない。徳川将軍家の大奥の礎を築いたのは春日局だが、阿茶の局はそのはじめの地固めを成したとも云える。家康亡き後、元和六年(1620)、秀忠五女和姫が後水尾天皇に入内するにあたり、阿茶の局は傅役の老女として宮中に近侍し、従一位を賜る。寛永十四年(1620)、八十三歳で亡くなり、深川の雲光院へ葬られた。雲光院は阿茶の局の戒名である。家康の側室となるまでは苦労の多い日々であったが、果ては位人身を極め尽くした彼女は、何を思ってこの地に眠るのであろうか。

資料館前にある深川めしの店に入った。この店は何度めかだが、炊き込みとぶっかけ二種のあさり飯が食べられる。大工が食べた炊き込み、漁師が食べたぶっかけと云うのが店の売り文句である。実際どうであったのかは、営業妨害になるから詮索はしないが、江戸庶民のほとんどが、炊き込みより調理が楽で、ちゃっちゃと掻っ込めるぶっかけを好んだに違いない。味はどちらも確かで、炊き込みはアサリの香がたっていて、ぶっかけは濃いめの味噌との絡みが絶妙。どちらも旨い。選べと云われたら迷う。ゆえにどちらも一膳ずつ楽しめる膳を頼んだ。深川めしは江戸人のソウルフードのひとつだが、江戸人が食したのはあさりよりもアオヤギやハマグリが多かったと云う。アサリが一般的になったのは明治中頃から大正にかけてで、江戸前の良いアオヤギがとれなくなったからではないか。 清澄白河には最近自家焙煎を楽しめるカフェが点在する。美味いらしいが、私はまだいっぺんも飲んでいない。コーヒーは飲んでみたいが、ブルーボトルカフェはいつも人で溢れかえっていて、とても入る気になれない。たぶんこれからも飲む機会はなさそうである。この日もごった返すカフェを素通りして、深川ゑんま堂へ参った。

ゑんま堂から門前仲町はもうそこである。門前仲町は、永代寺の門前町で、深川が賑わい始めてから、今日まで発展を続けている。今、一体は門前仲町と富岡と云う町名だが、古地図によると永代寺の周りは、永代寺門前町、或いは富岡門前町と云い、西側が永代寺門前山本町、通りを挟んで反対側が永代寺門前仲町とある。周囲は掘割に囲われて武家地はない。いずれにしろ永代寺、富岡八幡宮、そして江戸三十三間堂まで加えた広大な寺社域と一体化した大門前町であったことが窺える。ここが深川の中心地であり、深川発展の要であった。深川には江戸最大の岡場所があった。江戸で幕府公認の公娼は新吉原のみで、その他はすべて非公認の私娼であった。岡場所という呼び方には諸説あるが、吉原の原に対して、岡と呼ばれたとも云う。江戸の岡場所は、深川、本所、根津、芝、音羽四ツ谷など寺社門前町には付き物で、精進落としなどと称して、旦那衆や武家の家来たち、時には淫行の僧や神官にまで持て囃された。大名や旗本の子息もお忍びで通い、非公認とはいえ、取り締まりは形ばかりの緩きもので、幕府は暗黙していた。が、松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革の時は、さすがに憂き目に遭うほどの厳しい取締りをしたらしいが、嵐が去れば不死鳥の如く蘇った。寺社の参詣人を当て込み茶店が出来て、いつの間にかそこで働く女たちが遊女となり、水茶屋とか料理茶屋になったのだろう。寺社側も土地を貸して収入を得ていたし、上納金もあったから、堂々と軒先での商売を許していた。深川には岡場所が七箇所あって、仲町がその中心であった。最盛期には遊女五百人あまり、芸者は三百人あまりいて、ことに深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ名を馳せた。辰巳芸者は男勝りの気風の良さを売りとし、薄化粧に黒羽織、素足を晒して、髪もすっきりと結いあげていた。芸者は決して色は売らなかったが、何もかもが豪奢で虚構の吉原とは正反対で、地味で自然なところが江戸人には人気があったと云う。寧ろ、江戸人の好みをよく知り尽くしていたといえる。チャキチャキの江戸っ子たちは、吉原よりも深川を愛し、北国の傾城太夫よりも、深川の辰巳芸者を愛した。辰巳とは江戸城から見て、辰巳の方角にあるゆえだ。

永代橋は元禄十一年(1698)の架橋である。赤穂義士も吉良邸から泉岳寺への途上、永代橋を渡っていった。それまでは深川の渡しを使うことが一般であった。もっとも江戸期を通して付近には渡しがたくさんあっただろうし、昭和の中頃まで、隅田川にはいくつかの渡しが残っていた。門前仲町のあたりはかつて永代島と呼ばれる島であった。だんだんの埋め立てで、掘割に囲われた町となり、掘割も埋められた今は島の面影はない。そういえば豊島も湯島も、昔は島や半島のような土地であったわけで、江戸が水の都であったのは、深い入江や湿原ばかりの不毛地帯であった場所が、うまいこと開拓開発されたからである。日本において江戸ほど大開発が敢行され続けた土地はなく、それが大成功をおさめたところはない。それは今もって継続中であり、未来都市のモデルケースでは世界でも群を抜いている。永代島には鎮守として砂村から八幡神社が勧請された。富岡八幡宮について、詳しくは前にも書いたから省きたいが、一昨年、宮司家の骨肉の争いのせいで一時期は参詣人が離れたと聞いたが、この日は前と同じように盛大な骨董市が立っていて、ようやく元の賑わいを取り戻しつつあるように感じた。

深川には江戸三十三間堂もあった。富岡八幡宮の東に三十三間堂町があり、南北に細長いお堂に千手観音を祀っていたが、京都の三十三間堂のように千体の観音像があったわけでない。江戸三十三間堂徳川家光の命より、浅草に建立され、元禄期に深川へ移転した。専ら武芸奨励のため、通し矢を行う競技場として、建立された感が強い。「名所江戸百景」にも「深川三十三間堂」とあり、細長いお堂は画面いっぱいに入り切れていない、広重お得意の手法で描かれている。おかげでその規模が察する。天下の総城下町江戸では京都以上に通し矢が盛んであった。江戸三十三間堂も、廃仏棄釈の煽りを受けて明治五年(1872)に取り壊された。ここに今、三十三間堂があったなら。私はいつも想像する。本当に廃仏棄釈とは惨たらしい。たぶん後の震災や空襲で焼けたかもしれないが、いかにも残念の極みである。跡地には碑が建っているが気づく人も稀で、今では八幡宮裏の数矢小学校の名にのみ、その残像をとどめるにすぎない。

富岡八幡宮別当寺として寛永元年(1624)に永代寺は創建された。富岡八幡宮徳川幕府から厚い崇敬を受け、庶民にも慕われて江戸最大の八幡宮になると、門前町は大きく成長していった。同時に永代寺も隆盛し、最盛期には富岡八幡宮を凌ぐほどの力を持ち、深川を代表する寺、いや江戸でも指折りの巨刹になった。今の深川公園はすべて永代寺境内であった。多くの塔頭が立ち並ぶ姿はさぞや壮観であったろう。大栄山金剛神院永代寺と云う名前からして、いかにも大寺院であったことを彷彿とさせる。永代寺では成田山不動明王の出開帳が、元禄十六年(1703)から安政三年(1856)にかけて十一度も開かれた。成田不動の江戸出開帳は、江戸期に通算十二度開かれたが、このうち十一度が永代寺であった。成田不動は初代市川團十郎が、子宝祈願をして二代目團十郎が授かった縁で、市川宗家から崇拝され成田屋という屋号にもなっている。團十郎不動明王に扮した芝居も大当たりして、江戸庶民の間でも成田山詣が盛んになり、目黒不動などの五色不動も賑わった。それ以降不動信仰はピークに達し、永代寺は不動信仰の中心地となる。出開帳の時はいつにも増して大変な人出で、門前町も大いに栄えたのである。爛熟期の江戸を象徴するような寺と門前町を抱えた永代寺も、明治の神仏分離令で大打撃を受け、ついには廃寺となってしまった。明治政府は東京に在ったいかにも江戸らしい遺産を、悉く容赦なく潰している。が、庶民の信仰の力とはそう簡単に廃れない。不動信仰の花は種を落としていたのである。明治十一年(1878)、不動堂が再建されて成田山東京別院となった。今の門前仲町はこの深川不動堂富岡八幡宮門前町として、全国に知られている。

現在の深川不動堂は、実に「今の日本仏教」を体感できる。旧本堂を遺しながら、前衛的な新本堂が平成二十三年(2011)に完成した。外観には不動明王梵字が無数に埋め込まれ、およそ寺の本堂には見えないが、それが参詣者の関心を惹く。内陣は掘り下げてあり、そこでは定時に護摩焚き供養が行われている。堂内は何処もかしこも不動明王像ばかりで、ただただ圧倒されるが、不思議と威圧とか押し付けとかは感じない。面白いのがクリスタル回廊。ここは本堂左手から入り、大きな数珠を繰りながら、本尊の真下を通り抜ける回廊で、壁には一万体ものクリスタルの宝塔が埋め込まれ輝いている。よく見れば宝塔の中には一つ一つに小さな不動明王が座しており、信者でなくともここを歩く者は心身清まる思いがし、ありがたい気持ちに駆られるであろう。寺も時代ごとに変わってゆかねばならぬ。いや変わらぬところと、変わるところが混在してこそ、現代から未来へと寺が生き残る最大の術であろう。同時に我々が寺を訪れて何かを見て、何かを感じて、何かを考えて、何かを得るには、時代にマッチした姿勢や佇まいが、ことに現代人には求められている。深川不動堂はそれを存分に叶えてくれるし、仏教に触れ、思いをめぐらすきっかけを与えてくれる。永代寺も唯一残っていた吉祥院と云う塔頭を、明治二十九年(1896)に再興して現在に至るが、今では深川不動堂塔頭の様に、参道の傍に慎ましい佇まいである。しかしかえって、でしゃばらない楚々とした今の永代寺が私には好ましい。この深川の地にも相応しいと思う。深川はずっと神仏混淆の聖地である。きっとこの後もそれは揺るがぬであろう。

 

皇位継承一天孫降臨一

日本の歴史の中には、常に天皇の存在があった。神の国とは言わないが、国家の中心には天皇がおわし、時には親しく政を行い、時には精神的支柱、或いは文化的支柱とされた。明治以降は一世一元となり、まさしく天皇の代替わりが時代の節目となっている。明治維新後、天皇は現人神と奉られ、国家元首であり、日本軍の大元帥であった。うまく利用されたとも云えるが、そんな簡単な事でもないことも事実である。戦後、天皇は日本国と日本国民統合の象徴と憲法に明記された。この四月に退位される今上陛下は、これまでのどの天皇よりも民衆の傍に寄り添われてきた。五月に皇太子さまが即位されたら、百二十六代天皇となられる。これから退位礼、即位礼、大嘗祭など、皇室にとって重要なる儀式が数多行われる。私は昭和から平成にかけての皇位継承をよく覚えている。中学生であったが、昭和天皇崩御から、今上陛下の即位礼、大嘗祭までを好奇心旺盛に追った。それが日本史を紐解きたいと云うきっかけのひとつともなった。三十年前の代替わりは、昭和天皇崩御と云う暗い雰囲気の中で厳粛に行なわれた。今上陛下や皇族方は一年間喪に服される。こうした状況で新時代が幕を開けたが、決して華々しく平成が始まったわけではなかった。これは明治から大正、大正から昭和も同じであった。譲位による代替わりを除けば、いつも新しい御代を迎えるのは似た雰囲気であったと思う。

言うまでもなく神代の天皇は、日本神話の延長線上に在って、在位期間や没年齢を見ても、現在はっきりと記録が確認できるのが、第二十六代継体天皇からであると云うのが定説である。が、八幡神たる応神天皇や、世界最大の墳墓に眠る仁徳天皇とて、私は伝説をまったく信じないわけではない。何らかの足跡があるが故に、伝説や伝承は生まれたはずであり、ましてや天皇の事である。良きも悪しきも様々な事が語り継がられて当然であろう。しかしここでは神代についてはあまり深く掘り下げることはしない。私自身の智識など浅薄であって、ここに時間を割くと一生かかってもわからないことばかりだからだ。神代についてはあくまで知られている範囲でのみとしたいが、賢しら口に申すわけではなく、いずれ皇位継承のきっかけとなりし入り口を、ほんの少しだけ覗いてみたい。

天之御中主神(アメノミナカヌシ)ら創造神に始まって、神代七代の最後の二神である伊耶那岐(イザナギ)、伊耶那美(イザナミ)の国産みと神産み、そして死んだイザナミを追い黄泉の国へゆき、その黄泉の国から逃げ戻ったイザナギが、穢れを落として洗い清めたところで、天照(アマテラス)、月読(ツクヨミ)、素戔嗚(スサノオ)が生まれ、アマテラスは高天原を治めて最高神となるが、日本の天皇はその子孫であるとされる日本神話の王道を基にして、話を紐解くことにする。そうでないと、諸説の検証となってしまうし、終わらぬ検証は、門外漢の私には不可能であるからだ。余談であるが、このイザナギイザナミの国産みから神産み、黄泉の国の話は大変可笑しくもあり、或る意味では恐ろしく気味が悪い。そして女性は不浄の存在であると単刀直入に表し、長い間の女性蔑視につながる話になっているとも云えよう。これが現代まで続く日本人特有の陰湿極まる様々な差別や、虐めに連なっていったのだとすれば古事記とは哀れである。が、何も悪気のみで書かれたわけでもあるまい。

深田久弥は「日本百名山」の「白山」の項で、日本人と山についてこう書いている。日本人のふるさとの山への憧憬と望郷の念を、これほど的確に著した文章はないので引用したい。

「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。」

深田久弥のふるさとの山は白山であったが、私にとってふるさとの山は霧島山である。私の生まれ育った日向国は、神話と伝説の宝庫で、寺よりも社の数が圧倒する。高千穂、霧島、西都、青島、鵜戸など神話や古代史の舞台が数多あって、幼少より歴史好きの祖父に連れられて歩き、祖父からよく耳にしたのが、ニニギノミコトの話であった。紙芝居や絵本でも神話を見聞きし、天孫降臨の話は幼いころから何度も何度も聞かされてきた。私の家からは、遥か西北に霧島山が望まれた。霧島山の山容は、正しく「山」という漢字そのままである。確かに神山の風格を備えてい、私は朝に夕に無意識のうちに心中で遥拝した。霧島山とは宮崎県と鹿児島県に跨る霧島連山の総称で、主峰は韓国岳である。二番目に高いのが高千穂峰だが、山容の美しさは霧島山随一で、都城盆地を真っ直ぐに見下ろしている。その崇高なる姿に、あの山には神様がいて守られていると思った。火山の岩盤が育くんだ霧島烈火水という水は美味い。私は霧島烈火水を飲んで育った。全国的に有名になった焼酎も、霧島烈火水で造られている。霧島烈火水は畜産、米、野菜、そして茶の栽培に恩恵を与えている。高千穂峰には天孫降臨の神話が伝承されている。私の想像する天孫降臨の想像図は、狩野探道の描いた天孫降臨そのままである。金銀の八重棚引く雲に乗って天降る神々の姿は、単に神々しいとかいう言葉で表せない。ニニギノミコト以下、付き従う神々は、髪を鬟に結い、服装は我々が想像する古代人のような白衣を着ている。その姿はおよそ武神のイメージとはまったく違う。が、手には剣や槍を携えていて、やはり一丁事あれば迎え撃つ、というよりも圧倒的軍事力を誇示し、地上の抵抗は許さぬという無言の威圧を感じる。この絵が描かれた時代背景が多分に影響したことは想像に難くはないが、実際に古代人の最強勢力が他勢力を屈伏させ、古代国家を統一する姿とはこうであったかもしれないとも思わせる。天降りの決定的瞬間が、或る意味あれ程写実的に描かれた絵はあるまい。神々はまさにこの絵に影向している。

古事記上つ巻の天孫降臨の章には、この場面が古事記らしくまことにさらりと記されている。

筑紫之日向之高千穂之霊じふる峰に天降りましき(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけにあもりましき)

この場面はまさしく古事記全体の核心となるシーンであって、私はこの一説を正当化するために、古事記は書かれたと言って過言とは思わない。天孫降臨古事記のハイライト。ここまではあくまで序章であり、この後は天孫降臨の後日談を語りつつ、本質は天皇家の権威固めの章とも云える。天照大御神アマテラスオオミカミ)は、子の天之忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)の子、つまりは孫の瓊々杵尊ニニギノミコト)を、高天原から遣わされた。降臨の場所が高千穂峰である。高千穂とは、途轍もなく高い場所の意で、遥か高天原から天孫が降りたつ場所に相応しいとされた。日本には富士山をはじめ、標高千七百メートルほどの高千穂峰より遥かに高い山があるのに、何故ここであったのか。大陸から近く、温暖な南九州は暮らしやすく、水も豊かで、山海の滋味が溢れ、作物もよく実った。古代遺跡からして、畿内より早くから拓けていたのだとも思う。邪馬台国は何処かという話は尽きないが、私は九州説に賛同している。そんなところに、神韻縹渺たる美しい山容で立つ霧島山に、人々が神を拝んだことは当然のことである。天孫ニニギノミコトは、アマテラスの神勅を受けて、三種の神器を携え、天児屋命(アマノコヤネノミコト)をはじめとした八百万の神々を従えて、猿田彦(サルタヒコ)の先導で高千穂峰に降臨してきた。天児屋命は中臣連の祖神、つまりは藤原氏の祖神で、春日大社大原野神社にも祀られているが、記紀成立時の天皇と臣下の勢力図がここにも透けて見えてくる。天孫降臨の地は諸説あり、ここからずっと北の西臼杵郡高千穂町にも天孫降臨の伝説があるが、私の浅はかな想像をさらにたくましゅうすれば、雲海のベールが町を包み、天の岩屋もあり、神々を生き写しつつ奉納される夜神楽が盛んな高千穂町こそが、本当の高天原でありはしないかとの思いに駆られる。少なくとも私には「日向之高千穂之霊じふる峰」は、霧島山以外に考えられない。そのルートは高千穂町から高千穂峰へと南下したのではないかと私は思う。

高千穂峰のてっぺんには、天の逆鉾が突き刺さっているが、今あるのはレプリカで、明治時代に落雷か何かで失ったと云う。天の逆鉾イザナギイザナミが国産みの時に、渾沌とした大地を搔きまわした鉾で、引き上げた時の最初の雫が高千穂峰になったとも云われる。その鉾がそのまま突き刺さっているのが、天の逆鉾である。本物は地中深く埋もれているとも聞くが、真相はどうあれ、一説では奈良時代にはすでにあったらしい。幕末、寺田屋事件のあと、西郷隆盛の勧めで、霧島温泉に湯治に来ていた坂本龍馬は、高千穂峰に登って、かつてあった天の逆鉾を引抜いたと、姉の乙女に手紙を送っている。戦前には霧島山聖蹟として尊崇され、容易に登山することは叶わなかったらしいが、今はそんなことはない。私も登山遠足で数度登った。霧島山の中ほどには、高千穂河原と呼ばれる場所があり、霧島神宮の古宮址がある。ここでは毎年十一月十日、天孫降臨御神火祭が厳かに行われており、天孫降臨の聖地としての面影を多分にとどめている。

 ニニギノミコトは地上にて木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)と結ばれた。そして第二子の火折尊(ホオリノミコト=山幸彦)から、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)が世継ぎとなり、そのウガヤフキアエズから初代神武が誕生する。記紀にはそう記されている。以来、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭…今上陛下まで百二十五代続いてきた。仏教伝来があり、大化改新があり、壬申の乱があり、大仏開眼、平安遷都、摂関院政時代、武家の台頭、南北朝の動乱、室町、戦国、織豊、そして徳川時代まで、時に存続の危機に瀕したこともあったが、日本史の節目節目で天皇はその存在感を示した。スメラミコト、大王、大君、天子、帝と敬称され、天皇と云う敬称が定着したのは、明治維新後で、戦前までは聖上、御上とも敬称された。

新井白石は「古史通」で、神は人なりと言ったが、天孫降臨の瞬間こそが、皇位継承の第一歩であり、皇統の原型とも云えるのではないかと私は思う。譲位による代替わりは、徳川時代後期の光格天皇以来二百二年ぶりのことである。そもそも当世において、天皇代替わりを拝見できることはそうそうない。二度目の私も、三度目はわからないから、やはりこの歴史的な出来事を、前回から三十年を経た今の私の目で、十一月の大嘗祭までをつぶさに拝見し、折角なのでここに書いてみたいと思う。皇位継承を見つめることで、日本や日本人にとって皇位継承とは何なのかを考えてみたい。

青春譜〜新人演奏会〜

年が改まり吹奏楽部も、次のコンクールへ向けて始動する。前年暮れまでに三年生は引退し、部長以下仕切るのは二年生である。が、演奏はまだまだ心許ない。やはり三年生の力は絶大なるもので、三年生が抜けると急に乏しい演奏となる。中には二年生、一年生だけでもとてつもない演奏をやってのける学校もある。それこそ文字通りの余力であるが、そうした学校は全国大会常連校などの一握りである。無論、彼らもそれを承知しているから、本格的にコンクールへの練習が始まる四月頃までは、個々のスキルアップに精進する。まさにここが吹奏楽部の寒稽古と言えよう。その成果は三月に全国大会が開催されるアンサンブルコンテストなどで試される。吹奏楽部は団体であるが、結局は各々の演奏技術の向上に因るところがある。新入生が入ってくると、後輩の指導にもあたらねばならないから、今この時に、自分のため、有効に練習ができるわけである。

この頃、各地で開かれるのが新人演奏会。二年生と一年生だけで立つ初めての舞台であり、この先を占う意味でもなかなか重要な演奏会である。各校ともまずは腕試しといったところか。他校を聴く場合はお手並み拝見なのだが、先に述べたように衝撃的な演奏を聴いて、早くも焦ることもある。新人演奏会はその未完成がゆえの聴き応えがあり、荒削りであっても、キラリと光るモノがあれば、その学校が吹奏楽コンクールまでどうのように成長してゆくのか、ファンとしてもう一つ楽しみもできよう。私も中学で二度、高校では一度新人演奏会に出演した。高校では一度しか出演しなかったのは、エントリーはしたものの、あまりに演奏が酷かったため、直前に顧問の決断で出演辞退したためである。それほど頼りない拙い演奏であった。部員にとって新人演奏会を辞退することは屈辱的なことであったが、その悔しい気持ちをコンクールへ向けての糧としようと決意したことは覚えている。

一年生の三学期、三年生のいない吹奏楽部は、三年生の影に隠れていた二年生が、急に威勢よく取り仕切り、中には人が変わったように横柄な態度をとる輩もいた。そんな連中を私は心の中で馬鹿にしていた。部活においての縦社会というのは、吹奏楽部にも存在する。いや、むしろ体育系のクラブ以上に、先輩後輩の上下関係が根付いている場合もあるかもしれない。私とて嫌々ながらも、当時はそんな先輩達でも従わなければならない時もあり、自分を押し殺すこともあった。決して偏見などではないが、そうした輩は、特に女子に多かった気がする。三年生がいる時は、あんなに優しく挨拶してくれた先輩が、最上級生になったとたんに下級生を顎で使うようになり、挨拶すらおざなりになる。中にはパワハラめいた言動をする輩もいて、呆然としたこともあった。ことに私が所属していたクラリネットは大所帯であり、まるで大奥。パートリーダー木管楽器全体を率いることもあった。人間は目の上のたんこぶが無くなると、こうなるのかということを学んだものだ。とはいえ、そうした輩はほんの一部の人だけであったし、思うにそれは大抵中学生であって、三年生になるという責任感とか、プレッシャーを撥ね付けられないで、向かう矛先を見失ったからに違いない。さすがに高校生ともなれば、そんな子供じみた輩は私の学校にはいなかった。それにあくまでこれは私の中学時代の話であり、今から三十年近くも前のこと。現在ではそうした輩も状況も生まれないのではなかろうか。私自身は以前書いたように、確かに三年生がいなくなったら、その解放感から大いに羽を伸ばしたものだが、後輩を統率し、ぐんぐん引っ張ろうと、我ながらにがんばったと思う。決して虐めたり、威張り散らかすようなことはなかった。と思ってはいるが、果たしてあの頃、後輩達は私をどんな風に見ていたのであろう。今更ながら気になるが、もはや知る由もない。続く。

追悼・兼高かおるさん

兼高かおるさんが逝去された。生涯にわたり百五十箇国以上もの国々を訪ねられ、その距離は地球百八十周にも及ぶとか。その記録は昭和三十四年(1959)から平成二年(1990)まで、「兼高かおる世界の旅」でテレビ放送され、まだ海外旅行が盛んではなかった時代の日本人の憧れの的となった。兼高さんは世界旅行への扉をこじ開けた先駆者である。手探りで目的地を探し、体当たりで取材した。兼高かおるさんは、旅人にとって最良の水先案内人であった。

 兼高かおるさんは、容姿端麗でいつも気品に満ち溢れていた。外国人とも実に堂々と渡り合う姿は格好良く、まるで某国の女王の様であった。ご自身を「わたくし」と呼称し、独特の語り口は優しく淑やかだが、芯の強さがにじみ出ていた。あの頃の日本人は、誰もが兼高かおるに憧れたであろう。戦後の混乱や貧困から、ようやく抜け出そうかというときに、颯爽と登場した彼女は、肩身の狭いを思いをしていた日本人に勇気と元気を与えた。また、世界における彼女の日本人としての振る舞いをみて、日本人たる誇りと自信を取り戻すきっかけとなったに違いない。果たして兼高さん自身がそんなことを意識していたかはわからないが、少なくとも彼女の立ち居振る舞いや言動からは、気高い自信と謙虚さとが同居しているように私には思える。

 兼高かおるさんはトラベルライターのパイオニアであり、多くの紀行文を残した。ここにはいちいち挙げないが、彼女の生き生きとした文章からは、旅の醍醐味が語られ、何よりもご本人が、旅を一番楽しんでおられることが直に伝わってくる。心から旅することを楽しむことで、先に述べた日本人たる誇りとか立ち居振る舞いは、彼女の中に自然と醸成されていったと思う。欧米、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、アマゾン、方々訪ね歩き、その国の風土、景色、気候、人、暮らし、食べ物を、見て、聴いて、触れて、食してきたことで、地球は様々なるカラーで染められていることを実感し、それを日本人にわかりやすく、丁寧な伝え続けてきた。時には見たくないもの、見て見ぬふりをするしかない出来事もあったであろう。旅の達人だからこそ、その思考は揺るぎ無くもフレキシブルでなくてはならない。兼高さんの言葉にはそういう思いが込められている。晩年もゆっくりと旅を続けているが、最近はだんだんおもしろくなくなってきたと仰っていた。街並がどこも同じ様になり、地域性、国民性が薄れて、お国柄がなくなりつつあるゆえにか。また、昔の日本のマナーは世界最高水準だが、そもそもが日本においてもそれを使う場所が無くなってしまったと嘆息された。

思えば、グローバル化がもたらしたものとは、いったい何なのであろうか。確かに世界は近くなった。インターネットが普及して便利になった。が、人類はますます空虚な産物になってゆく。争いをやめず、環境を破壊し、動植物を虐げる。このままゆけば、漱石三四郎の先生に語らせた如く、真の滅びがやってくるであろう。しかも今度ばかりは再起不能の滅びであり、日本人に限ったことではなく、世界規模の滅びである。兼高かおるさんは、誰よりも早く自らグローバリゼーションを体現されたことで、今グローバリゼーションの只中を彷徨う我々に、楽しみや夢だけではなく、重大なる警告を遺されたと私は思っている。

平成三十年大つごもり

平成三十年が暮れようとしている。今年もあっという間に大晦日。私なりに正月準備も整えたり。煤払いをし、至極簡単ではあるが正月料理も拵えた。年末くらいのんびりしようと思うが、なかなかそうもいかないのが常である。 平成と云う時代も、年が明ければ四ヶ月で終わる。一年が瞬く間に過ぎ去るのだから、四ヶ月なんて目の前。平成の三十年間すら早かった。まことに。

昭和六十四年一月七日。昭和が終わった日、私は中学一年の冬休みであった。あの日の記憶は鮮明に覚えている。何日も前から昭和天皇のご容態が報道され、前夜にはいよいよご危篤である旨伝えられた。そして午前六時三十三分、昭和天皇崩御された。全メディアは一日中天皇崩御と新天皇践祚の報道ばかりで、皇室に関心を持ち始めていた私は、朝から晩までテレビの前から離れなかった。そして一ヶ月後の平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬があった。冷たい雨の降りしきるモノクロ写真のような東京の街。弔砲が鳴り響き、「哀しみの極み」と云う葬送曲が吹奏される中、昭和天皇の葬列が皇居から葬場殿のある新宿御苑まで粛々と進む光景は、脳裏に焼き付いて離れない。

一方、平成二年十一月十二日、今上陛下が即位された。即位の大礼は、晩秋の快晴の下で厳かに行われた。京都御所より運ばれた天皇皇后の玉座たる高御座と御帳台は、宮殿松の間にすえられて、陛下は象徴天皇として、御即位を正式に内外に宣明された。二重橋から赤坂御所まで晴れやかな祝賀パレードや、連日に渡る饗宴が行われたが、両陛下の御成婚パレードを観たことがない私には、あれほど華やかな祝典を目の当たりにしたのは初めてのことで感動した。そして一世一代の大嘗祭が、古式ゆかしく行われ、昭和から平成に変わる時、天皇と云う存在が日本にはいかに大きなものであるか、思春期の私はいろいろと考えさせられた。小学生の頃から歴史に関心を寄せていたが、日本は有史以来、天皇を抜きにして語ることはできず、神代から現代まで、紆余曲折しながらも、いつの世も天皇がおられる事が、私の日本史を学ぶ原動力にのひとつになってもいる。

一口に三十年と言えど、様々な出来事があった。平成になってすぐ、昭和の歌姫美空ひばりさんが亡くなり、平成の終わりには、平成の歌姫安室奈美恵さんが引退した。平成初頭にベルリンの壁ソ連が崩壊し、冷戦が終結するも、すぐに湾岸戦争が始まり、新たなる脅威として世界中でテロが多発、中東戦線は常に泥沼であった。アメリカは同時多発テロにより初めて本国が攻撃を受け、ニューヨークやワシントンD.C.で多くの犠牲者が出た。その後イラク戦争に発展し、戦後も怨嗟の連鎖を招き続けている。ヨーロッパは近年、ギリシャの破綻、ロシアのクリミア併合、イギリスのEU離脱など混迷を深めている。保護主義が台頭し、米欧の関係はかつてないほどに悪化している。思えば、過去二度の世界大戦の火種はヨーロッパであった。中国は天安門事件以来、徹底的に強権国家となった。おかげで、この三十年で世界第二位の経済大国にのし上がるも、民主化は大きく後退してしまった。呼応した北朝鮮は中国の猿真似を試みたが、さすがに国力が違い過ぎて行き詰まった。ゆえに若き独裁者は、脅威と融和を織り交ぜながら、うまく安全地帯へと泳ぎ切ろうと試みている。アフリカや東南アジア、南米はいつまでたっても貧富の差が激しく、貧しい者から病気になり、天災や戦争によって真っ先に命を落とす。日本はこれらの国々とこれからどう向き合ってゆくのか。世界の勢力図はますます変わってゆくだろう。アメリカの一強時代が終わり、中国との二強を取り巻く地図になってゆくと思うが、日本は身の置き所を自らしっかりと見極めて、定めねばならない。

その日本は今どうであろう。昭和は初期に悲しき戦争時代があって、戦後日本人は不戦の誓いを立て今日まできた。平成の三十年間一度として、日本国民は戦争に巻き込まれなかった。これは当たり前の様で、これまでの歴史を鑑みれば奇跡の様である。だが一方で、平成は大災害の多発した時代であった。雲仙普賢岳有珠山新燃岳御嶽山などの火山噴火、阪神淡路、北海道、中越、東日本、熊本などの大震災が相次いだ。東日本大震災では、史上最悪の原発事故まで誘発してしまい。日本史どころか、人類史上に大きな汚点を遺してしまった。あの事故は確かに大震災による事故であり、国や東電には責任はあるが、ひいてはそれを長年許容してきたのも、我々日本人であり、原発に大いに依存してきたのも現代日本人なのである。そこを頭の片隅にすえて、発言し行動せねば、過去の人には叱られて、未来の人には笑われよう。さらに最近は、毎年豪雨による大水害が起きているが、これは一概に温暖化だけの問題とも思えない。私は何か地球全体が今、大きな気候変動の時期にさしかかってきている気がする。もしそうならば、我々人間は成す術などないが、ただ傍観することもできない。であれば、やはりそこは一人ひとりが高い防災意識を持ち、緻密なシュミレーションをし、起こった時にどう行動するか、どこへ避難するのかを常々考え用意しておくのは、もはや必定である。その様な極めて不安定な時を我々は生きている。刃の上を歩いていると心得ねばなるまい。

平成が始まった頃、日本の国家予算はおよそ六十兆円であった。さすがにバブル期絶頂と思ったが、実は今はさらに増え今年度は百兆円となった。バブルが崩壊し、失われた二十年を経た今、巨額の借金があるのに、百兆円だなんて驚きである。その予算をうまく使っているとは到底思えないのである。十数年周期で金融危機がやってくる。リーマンショックから十年、そろそろ突如として何か経済的ショックが起こるやもしれない。格差は広がり続け、日本にも貧困に喘ぐ人々が大勢いる。権力者や富裕層は、ノブレスオブリージュと云う言葉を、今一度噛み締めていただきたい。オリンピックも万博も結構であるが、本当に今の日本で開催する意義、意味はあるのだろうか。走り出している今、何を言っても無駄であり、こうした事は終わってから数年を経て、ほとぼりが冷めた頃に判明するのであろう。

 なんだか平成とは暗い時代であると捉えて書いてしまったが、さにあらず、平和であればこそ、見えてくるものがあるのだ。それは私だけではなく、誰もがちょっと考えたり、アンテナを張り、精神を研ぎ澄ましてみれば、自ずと見えてくるだろう。実は普段から目の当たりにしてるはずだ。それを見過ごし、或いは見て見ぬ振りをしているのだ。が、そうも言ってはいられない時代に我々は生きている。平成はインターネット、SNSが普及し尽くし、おかげで人生を楽しむための幅が広がり、個性を尊重しあえる世の中ができた。それらを活用して大成功をおさめる事も叶う時代。また一方ではその新しい文明の利器が、人を殺めたり、陰湿で閉鎖的な社会を構築している。ちょっと何かを誤ると、一斉攻撃して、完膚なきまでに叩き、追い込む。日本人は昔から排他的で、右向け右が落ち着く民族である。誰か一人異質とみなせば、イジメたり、村八分にする習性がある。この度合いは年々大きくなり、若年化している。なんとくだらぬ事を継承してきたことか。こんな渇いた社会、もういい加減やめねばならぬ。 昭和の終わりに生まれ、我が人生でもっとも多感な時を過ごした平成と云う時代がまもなく終わる。私もすでに人生の白秋に入り、このあとは余生の様なものだが、実はこれからの余生こそを謳歌する気満々でいる。やりたい事、行きたい場所、ささやかな願いであるが、少しずつ叶えてみたい。あと少しで平成三十一年がやって来る。あと少しで平成時代が終わる。

なおすけの平成古寺巡礼 天空の枯山水

東京は23区と多摩では人口だけではなく、街の様子もずいぶんと違う。丹沢、高尾、秩父の峰々がグッと迫り、そのキワから、街はゆるやかに江戸へと下る。真冬の快晴の日には、富士山が目と鼻の先に大きく現れる。昔は、江戸の町の至る所から、富士を眺められたものだが、今は高層ビルに昇らないとなかなか拝めない。でも多摩ならば、今でも武蔵野から望む富士がある。富士見町、富士見ケ丘、ふじみ野、富士見台など、取って付けたように富士を冠する地名が出てくる。かつて三多摩と云われた地域は、いわゆるニュータウンという印象があるかもしれない。しかしそのニュータウンのすくそばには、神社仏閣が点在し、古墳もあったりして、古くからの人の営みも随所に見られる。都心から電車で小一時間の場所に、そういう寺社を見つけた時、私の胸は踊る。近畿地方には然るべき場所に、神社仏閣が在って、関東は到底敵わぬ歴史がある。が、東京の多摩において、神さびた社や、風情漂う寺と出逢った時、その意外性?から、私の感動や喜びは関西で見つけた時よりも大きなものがある。そしてそれらの寺社について調べてみると、意外でも何でもなく、多摩には万葉時代の面影もあれば、古代人の営みまで垣間見られる場所が点在しているのであった。ついつい畿内や江戸にばかり関心が向くが、多摩には裏街道の歴史がつまっている。

江戸が本当に発展したのは、言わずもがな徳川時代になってから。古代から中世までの武蔵国の歴史は、多摩地区にこそ見つかる。武蔵国国府が置かれた府中市国分寺市がその中心で、律令時代、東山道や武蔵路が発展したのも、国分寺を目指していたからだ。畿内とはこの道で結ばれていた。多摩市、町田市、稲城市川崎市麻生区多摩区横浜市青葉区の一部を、かつては南多摩郡と云ったが、奈良とか三輪とか、大和を彷彿とする地名が見られるのが興味深い。いずれ大和から下った人々が、望郷の念から、大和に似た景色を見つけては、そのように呼び習わしたのだろうか。中世、分倍河原では、二度も大合戦が繰り広げられた。このあたりが鎌倉街道東山道など複数の街道の交わる要衝であったからゆえであろう。八王子には小田原北条氏の大きな支城があったのも、小田原を甲州武州、信州などから守るためであった。多摩市の聖蹟桜ヶ丘には、さいたまの大宮にある氷川神社と並び武蔵一宮だとされる小野神社もある。聖蹟桜ヶ丘と云えば、明治天皇の狩場であったところで、天皇はいたくこの地を気に入り、春に鶯の啼くのを聞かれて、皇后とともに歌を詠まれた。

春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鶯の声(明治天皇

春もまだ寒きみやまの鶯はみゆきまちてや鳴きはじめけむ(昭憲皇太后

今では「耳をすませば」の舞台で有名になった聖蹟桜ヶ丘も、明治の頃までは風光明媚な丘陵であった。

他にも、調布の深大寺、府中の大国魂神社、日野の高幡不動高尾山薬王院など本当に見所が多い。これら有名どころ以外にも、風情ある佇まいを魅せる寺社が探せばいくらでもある。京都や奈良の立派な寺社も大変けっこうであるが、負け惜しみでなくとも、多摩地区にはそれに劣らぬ魅力を感じている。私は多摩が大好きである。時間があると、ちょっと散歩がてらに出かけてみる。十年以上ずいぶん方々を歩いてみたが、奥は深く、まだ見ぬ寺社は数多ある。お江戸とも畿内とも違う、素朴で独特な色を持っている多摩を散歩するのは楽しい。何よりもうれしいのは、いつ行っても静かであることだ。これに尽きる。

その多摩の総奥の院ともいえる場所が、西多摩郡檜原村だ。先年師走の半ば、私は初めて檜原村へ足を運んだ。檜原村は奥地である。鉄道は奥多摩町には走ったが、檜原村にはやって来なかった。東京なのになかなか行けない。東京の秘境とも呼ばれる所以である。檜原村には前から気になっている寺があった。玉傳寺と云う禅寺で、本堂から眺める枯山水が見事であると云う。友人T君に同行してもらい、早朝から青梅街道を西へ向かう。途中、五日市界隈の寺社に、ちょっと寄り道する。この界隈、私は度々歩いてきたので、初めてのT君を案内した。横田基地を通り過ぎて、多摩川にかかる多摩橋を渡った瞬間、周囲の丘陵の圧巻に私たちは息を呑んだ。丘陵全体が、この年の終わりの紅葉で明け染まり、まさに今が最後とばかりに眩しかったのである。京都では近年、松喰い虫にやられて、周囲の山の紅葉の色が薄れて、冬枯れも目立つが、五日市周辺の山はまだまだ元気である。今はあきる野市となってずいぶん大きな街になったが、街のすぐそばに野山があり、田畑がある。東京とは思えぬ長閑な風景が広がっている。街を東西に流れる秋川は、古代からこの地を潤してきた。

東京サマーランド近くの秋川を見下ろす小高い丘を明神山と云う。この山に鎮座する雨武主神社の社殿には、見事な彫刻が施されている。このあたりを雨間と云い、雨武主神社は古くから、雨乞いの神様として崇拝されてきた。祭神は天之御中主(アメノミナカヌシ)で、土地では「あまむし大明神」と呼ぶ。天之御中主は、古事記では最初に登場する神で、次に登場する高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)と、その次に登場する神産巣日神(カミムスヒノカミ)と共に「造化の三神」と云うが、天之御中主は天の真ん中を領する神とされる。中心の神と云うことで、後には北極星の化身とされる妙見菩薩や、伊勢の豊受大神を同一のものとする考えが生まれ、妙見信仰や伊勢信仰とつながり、同じ天を司る神として祀られた。ゆえにここでも日照り続きの飢饉では、雨乞いの神として縋ったのだろう。同一視というところを切り取れば、或いは神仏混淆ということにもつながってくる。秋川の対岸には鳥居場と呼ばれる遥拝所があり、川向こうの人々は、わざわざここまで来なくても済んだのである。江戸の頃までは、川の中州にも鳥居場があったとか。ずっと前に対岸の鳥居場にも行ってみたことがあるが、今は住宅地の只中にあって、ささやかな社が建ってい、社の先には、明神山がいかにも神山を思わせる崇高な山容で見えた。明神山の麓からは百九十六段の急な石段が、天に向かって真っ直ぐに伸びている。石段を昇ると、木立の中に社が建っていた。本殿は風雪避けに覆われているのだが、それは本殿に施された彫刻を守るためで、社殿奥の壁面と裏面にその彫刻がある。中国の故事を描いたものらしく、見たところ柴又帝釈天の彫刻に類似している。どこにでもある左甚五郎とか、飛騨の匠説もあるが、江戸の頃の作ならば、帝釈天の彫刻を施した、江戸や安房の彫師集団の誰かの作と思われる。人里離れた神社に、こんな見事な彫刻があることに驚くが、地元の人にだけ親しまれて、大切にされてきたのである。ここにある彫刻からは、権力とは無縁のうぶな光芒を感じる。

秋川の清らかな流れは、古代から人々の営みを支えていた。ゆえに五日市には古社寺がたくさんある。五日市町秋川市が合併し、あきる野と云う地名になったのは近年のことだが、五日ごとに市が立ったことに由来する五日市と云う古い名は、街道や駅に残り、旧家や古い家並は五日市駅周辺に遺されている。西南戦争が終わり、ようやく時勢落ち着き始めた明治十四年(1881)、自由民権運動の高まりを受けて、国会開設と憲法の必要が唱えられ、運動は全国津々浦々まで広がった。この山里でも有志が集まり独自の憲法草案をまとめた。いわゆる五日市憲法と呼ばれる私擬憲法である。私擬憲法は、大日本帝国憲法発布以前に、日本中で議論された民間の憲法私案である。個人では、元田永孚山田顕義、福地源一郎、井上毅、小野梓、西周錚々たる啓蒙思想家が私案を発表している。彼らに共通するのはほとんどが旧士族であり、西南戦争を忸怩たる想いで見つめていた者もいたかもしれない。が、西南戦争の結果が、彼らを余計に奮い立たせ、新たな道を拓いてゆく原動力となったとも言える。五日市憲法は、正確には「日本帝国憲法」と云うタイトル。起草したのが千葉卓三郎で、支援したのがこの地深沢の名主で深沢権八であった。千葉は仙台藩士の子として生まれ、戊辰の役では白河口の戦いにも参戦した。維新後、ロシア正教会の洗礼を受け、各地を転々としながらキリスト教のみならず仏教、儒学国学等をおさめ教師となり、やがて五日市の小学校に派遣されて校長になった。これが縁で名主の深沢権八とも知り合い、これからの日本の行く末を語り、意気投合したのである。五日市憲法は、現日本国憲法に近いとも云われるが、実際は似て非なるモノ。全二百四条のうち百五十条を基本的人権や民権を主張すると云う画期的な部分はあっても、統帥権を含めた天皇大権は絶対であるとしており、国民の権利や保障との間に矛盾をきたしている。結局、五日市憲法は私案のまま眠ってしまったが、昭和四十三年(1968)、多摩の自由民権運動を発掘し研究した色川大吉によって、深沢家の土蔵から発見され、五日市憲法と呼ばれるようになる。明治期、多摩は自由民権運動の盛んなところであった。多摩からは幕末来、新撰組をはじめとした志士勇士が出て、存在感を発揮する。江戸東京の食糧供給源である多摩の庄屋や豪農は、絶大な力を有していた。江戸を支えていた自負心が代々継承されていったのも当然であろう。その気になれば、村人を動かし一揆を煽動もできたし、周辺の名主と結託し、連を造り得た。一方、権力側とも癒着し、たとえば代官とも一蓮托生で治めている場合もある。こうした農村では豪農たる庄屋や名主が、ほぼ全面的に権力側と市民側とのパイプ役であり、庄屋や名主抜きでは何にも決まらず、解決しなかった。江戸期から明治初期まで日本の農村はいずれも似たような形であったと思う。江戸幕府が瓦解し、封建社会は崩壊するも、豪農は四民平等を謳う新政府と庶民をつなぐパイプ役としての力を失わず、むしろ積極的に農村からも自由民権運動を煽動した。東京の庭先である多摩が、その中心地となるのは当然で、人々の意識の高さが窺える。

五日市周辺の寺のいくつかを訪ねてきたが、中で私を強く惹きつけたのが、大悲願寺と広徳寺であった。 武蔵増戸駅から十分ほど歩くと、何処からともなく沢の瀬音が聴こえてくる。やがて武家屋敷を思わせる漆喰の壁と、その先に重厚な大悲願寺の山門が現れた。山内は樹齢五百年もの杉木立が亭々と聳えている。大悲願寺は真言宗豊山派の寺で、かつては三十二の末寺を擁したが、今は花の寺として有名である。梅、牡丹、桜、躑躅、藤、花菖蒲、百日紅、白萩、紅葉とまさしく百花繚乱。伽藍は本堂にあたる講堂、阿弥陀堂観音堂があるだけだが、いずれも落ち着いた佇まいを見せている。無畏閣と呼ばれ重文の阿弥陀三尊を祀る阿弥陀堂には、雨武主神社のように精緻な彫刻が施され、こちらは色彩も鮮やかに蘇っている。私の目をことに惹いた観音堂は、華奢ではあるが気品があり関東でも指折りの優美さである。寺伝では聖徳太子一宇の草堂を建てたことが起こりとされるが、寺の背後の山にその伝説があるとか。土地の人々の聖地には様々な伝承があるもので、太子信仰は西国ばかりではないことを示している。日本の寺院にはだいたい似たような寺伝があって、聖徳太子役行者行基菩薩、弘法大師、慈覚大師が代表される存在だ。伝承は様々だが、正式に記録が残るのは、建久二年(1191)源頼朝の家人で、日野の平山城主平山季重が開基であると云う。平山季重は源平合戦の勇士として活躍し、頼朝の覚えが目出度く武蔵開拓を託されて、この地に縁を得た。開山には京都醍醐寺三宝院の澄秀を迎えている。徳川時代には幕府から朱印状を与えられ、伊達政宗も時の住持と親交があった。ある秋の日、この寺を訪れた政宗は、境内いちめんに咲く白萩に心奪われて、後日一株所望したと云う書簡が残っている。その白萩は現在も九月になると講堂のまわりに花の海を現出させる。

大悲願寺から広徳寺までは歩いて一時間少々。ちょうど良い散歩コースだ。私はこのあたりを何度も歩いた。雲雀囀る麗らかな春、清冽な川飛沫が涼やかな夏、街を包む丘陵が全山燃ゆる秋、張り詰めた山気が里全体を支配する静謐な冬。ここは東京でもっとも四季を堪能できる場所かもしれない。途中、阿岐留神社にも寄る。その名のとおり、あきる野と云う名の由緒とされる。さすがにこのあたりの総鎮守らしい堂々たる社である。阿岐留神社のすぐ真下を秋川が流れてい、川沿いを西へゆくと小和田橋に達する。橋を渡ると左手に秋川丘陵が横たわり、広徳寺は丘陵の入り口を少し登ったところにある。急坂の参道には石仏が並び、両側には石垣が積まれていて、確かに名刹へのアプローチらしい。寺好きはきっと胸が騒ぐであろう。坂を登りきるとそこが広徳寺の総門で、奥には情趣溢れる茅葺の山門と、その先の本堂まで、一直線に配された伽藍は美しい。広徳寺は応安六年(1373)創建の臨済宗建長寺派の寺である。なるほど、それでこの伽藍配置か。茅葺の本堂は質朴でどっしりとした感じが、いかにも鄙びていて私には好ましい。本堂裏手には小さな池があって、唐紅に染まる楓が水面に映えて揺れていた。巨大な多羅葉や栢が本堂を背後から守るようにして立っている。広徳寺は境内全体が禅寺らしい簡素で侘びた佇まいであるが、何と言っても山門内に聳える二本のイチョウは、見る者を圧倒するだろう。推定樹齢三百年とも四百年とも云われる二本の巨木は、山門を潜った先、本堂との間に、あたかももう一つ門が立っている様に見える。このイチョウ高さも二十メートル以上あるが、太い枝が下に向かって垂乳根のようにぶら下がっている姿は、少々薄気味悪い。逆に言えば神々しくて、枝に触れたら吸い込まれそうである。山門や本堂は江戸期の再建と云うから、おそらくはこの二本のイチョウを中心にして、この寺は整備されたに違いない。それほどこの禅寺の一直線の伽藍配置にしっくり収まっている。イチョウを山門に見立て他の堂宇が建立されていったとすれば、自然と一体となされた寺であることがわかる。広徳寺の風景に私は深い感銘を受けた。

 車はあきる野からさらに奥へ。五日市街道は戸倉集落のあたりから檜原街道と名を変える。ここからは私も未開の地。道は山登りである。昼頃、檜原村へ入った。すぐに中山の滝がある。檜原村には多くの滝があって、十三瀑布が名所となっている。中で落差最高六十メートルの払沢(ほっさわ)の滝は「日本の滝百選」にも選ばれている。本宿というところに檜原村役場があり、このあたりが昔から村の中心地らしく、近くの山上には檜原城址や吉祥寺という古刹がある。役場でガイドマップを貰った。役場の人はとても親切に檜原村のことを教えてくれた。都庁や23区の偉そうな小役人とは雲泥の差の優しい応対に、私は檜原村の風景にも人にも惹き込まれた。役場の前や街道筋には茅葺の古民家が点在している。こんな景色は東京はおろか、今の日本ではなかなかお目にかかれない。

檜原街道は役場の先で二手に分かれる。右に折れたら北秋川渓谷で、ずっと先に神戸岩(かのといわ)と呼ばれる高さ百メートルもの巨岩がある。神戸岩は太古から神の磐座と信じられてきた。檜原村は神々の住まう国への入り口。山や巨巌を、樹木や滝を、人々は崇めて御神体とした。この時は時間が足らずに断念したが、神戸岩と払沢の滝は次の楽しみとしたい。役場前の檜原街道を左に折れれば南秋川渓谷で、目指す玉傳寺はこちらである。あきる野も蕎麦が美味いが、檜原村もまた蕎麦所らしい。途中、山の中腹にある一軒に入った。太い十割蕎麦で、コシが強く歯応えがある。蕎麦好きの私は洗練された都会の蕎麦も好きだが、蕎麦の香を堪能するにはこうした蕎麦もまた良い。

 車は山中を西へ、秋川沿いを上流へと遡る。時折視界が開けてもそこは滝や川であったり、ささやかな畑であったりするが人家はない。だいぶ行ったところにようやく集落が現れた。人里と書いてへんぼりと云う集落で、本当の意味でこのあたり唯一の里である。玉傳寺はこの人里の小高い丘の上に在った。が、いったん玉傳寺を通り越して、秋川をさらに遡上し、九頭龍神社へ向かう。人里から三、四キロ行ったところに龍神の滝があった。秋川渓谷に下りて、朽ちかけた木橋を渡った先に白糸のような滝が落ちている。落差はない滝だが、滝口から木漏れ日が射し、水が七色に輝いて見える姿は何とも神秘的で、確かに龍神が現れそうな雰囲気がある。滝壺は浅くて、滝行にも利用されているのではないか。さらに一キロほど遡上すると九頭龍の滝だ。滝はこのあたりの水を集めて秋川へ流れてゆき、やがて多摩川に注いでゆく。九頭龍の滝は二段構えの勇壮な滝で、龍神の滝よりも水量も多い。注連縄が張られており、一帯は神域となっている。龍神の滝がしなやかで女性的な滝ならば、九頭龍の滝は荒々しい男性的な滝である。九頭龍神社は滝から歩いて五分ほど、街道沿いの杉木立の中にひっそりと建っていた。鳥居前の二本の杉の巨木はあたかも昇竜の如く見えて、まことに清浄な空気が境内を支配している。九頭龍神社の正確な創建年は不明と云うが、神社の由緒には、南北朝時代建武三年(1336)に、現宮司の祖である中村数馬守小野氏経が、南朝方に従軍し、南朝の守護神とされた九頭龍をここへ祀ったことが始まりであるとされる。信州戸隠神社から九頭龍社を勧請し、祭神は九頭龍大神手力雄命とされるが、九頭龍の滝が真の御神体なのであろう。滝の多い檜原村には、水を司る龍神信仰は上古からあったはずで、ここも聖地であったに違いない。そこへ九頭龍神社が建立されたのも、偶然ではなく必然であった。

九頭龍神社をあとにして、ようやく玉傳寺へ向かう。人里の集落に戻ってきた頃には、日はだいぶ傾いていた。玉傳寺の石段を登ると鐘楼があり、すぐに石庭が現れた。そこに本堂があって、庫裏も棟続きになっている。堂宇はそれきりのまことにささやかな寺だが、なんといっても景色がすばらしい。これが噂に聴いた絶景の枯山水か。龍安寺の半分もあるかないかの小さな石庭で、禅寺でよく見かける枯山水であるが、玉傳寺の枯山水は見ればみるほどに大きく見える。それは枯山水の背後に重畳と連なる山々を大借景にしているからである。参詣した日は快晴で、青空の下、折り重なる山は彼方まで見渡せ、後方の山は天との間に地平線を作っている。これほど雄大な借景を持った枯山水は他にあるまい。私たちは一頻り歓声をあげると、深呼吸をして、じっくりとその景色を堪能した。この寺は永正元年(1504)の創建で、臨済宗建長寺派であることまではわかったが、開基や由緒についてはよくわからない。そんなことはどうでも良い。住職や奥さんとも顔を合わせたが、寺のことを詳しく伺う事もなく、今はただ、この眺めを飽くまで見ていたいと思った。玉傳寺は、寺カフェ「岫雲」を営んでおり、私たちも薄茶をいただいた。冬の陽だまりが暖かく包む本堂の縁側に座して、美しい静寂の石庭を眺めながらいただいたお茶は格別であった。この石庭は京都の大学で枯山水を研究する方々からアドバイスを得て作庭されたらしい。右手の山にはちょうどこの庭からも眺められる位置に一本の枝垂桜がある。いつか花の頃、月夜の晩にでもそれを観てみたい。玉傳寺は東京で一番の枯山水であり、私には日本でも五指に入る名庭である。玉傳寺には枯山水の庭の他、何にもない。それがいっそ心地よく、真の禅寺であると感心した。

 車は檜原街道から再び五日市街道へ戻ってきた。五日市駅近くに美味い洋食屋があり、そこで少し早い晩御飯。食後、ふと急に夜の広徳寺が見たくなり、T君にお願いした。ここからは車で5分少々。私たちは夜の広徳寺山門を潜った。同じ日に二度も広徳寺に来れるなんて幸せなことだ。しかも夜は初めて。一度夜ここへ来て見たかった。その願いが叶ったのである。夜の広徳寺は、昼にも増して森閑としている。無論、境内にいるのは私たちのみ。時折、森の方からホウホウと聴こえてくるが、梟なのか、みみずくなのか。山門も、本堂も、巨大なイチョウも静かに眠りにつこうとしている。いやイチョウ垂乳根だけは、相変わらず不気味に手招きして見える。まるで触手のように伸ばして、掴まれそうである。しかしそんな気味の悪さも、上を見上げたら吹き飛んだ。空には満天の冬の星座。 本当にここは東京なのか。いや東京とは23区であって、多摩は多摩、別世界なのである。多摩にはまだまだ未開の地がある。私は多摩の魅力の完全なる虜である。その不思議な魅力に誘われて、私はまた多摩へと向かう。