弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 青蓮院門跡

名刹数多の京都東山。そこに在る寺々は季節ごとにその表情を変えるから、何度歩いても飽くことはない。古都が醸成した高貴なる威厳を湛えながらも、楚々とした情趣の寺が多い。その趣きは東山の懐に抱かれ育まれた。東山の寺は京都にしか現出しないだろう。ゆえに古今人々を惹きつけるのだ。 知恩院の巨大な山門を仰ぎつつ北へ歩くと、程なく青蓮院である。門前は立派な石垣と美しい白壁に覆われてい、まるで城塞の様。知恩院と同じく衛は堅固である。知恩院とは地続きであるが、入山せねば中を伺うことは出来ない。表の厳しさに比して、山内は密やかな門跡寺院らしい佇まいで、境内全体に秘めたる御簾の中といった雰囲気が漂う。この雰囲気はかつて粟田御所と呼ばれた頃から、あまり変わってはいないはずで、一朝一夕で成るものではない。

初めて青蓮院を訪ねたのは、数年前の秋の夜間拝観であった。平成の京都では春や秋に寺社の境内でライトアップが盛んである。特に紅葉の秋、東山では東福寺清水寺高台寺知恩院永観堂などが挙ってライトアップを催し、今や秋の京都観光の目玉になった。青蓮院はライトアップの先駆けで、昨年秋で通算四十五回開催しているが、その趣向は一風変わっている。よその寺院は紅葉を中心にライトアップし、暖色系の灯りで堂塔伽藍を照らしたり、プロジェクションマッピングを駆使して華やかに演出して度肝を抜いてくれる。一方青蓮院のライトアップは、LEDの柔らかい小さなブルーライトを庭じゅう無数に配し、蛍の様に明滅する仕掛けである。そして一本だけ、青いサーチライトが天高く伸びている。青を基調としているのも珍しいが、本尊を守護する青不動や、寺名から連想してこういう趣向なのであろう。夜の帳が下りると、青蓮院の境内は紺碧海になる。堂宇は夜舟か浮御堂に見えてくる。仄かな明かりはまことに静かで、よそのライトアップとはまったく一線を画している。ライトアップには賛否あるだろうが、私は現代人が寺社へ参詣する理由のひとつとして悪いとは思わない。寺社の懐も潤い、寺社が存続するには手段を選ぶことも必要であろう。その手段がどういうやり方であるかは、寺社が決めることであり、守りに入るか、攻めに出るかも寺社の自己責任である。私たちがそれをどう受け止めて、賛否するかもまた自由である。少なくとも今現在、寺社のこうした試みについて私自身は賛成である。実はライトアップよりも、普段はなかなか観ることの出来ない夜の寺を訪れる機会に恵まれることが、何よりも嬉しい。初めて青蓮院を訪ねたあの夜があまりに幻想的で、それで満足し、その後しばらく遠ざかったが、いっぺん日中の青蓮院も観たいと思ってはいた。昨年秋、将軍塚青龍殿へ参詣する折、まずは青蓮院を再訪することにした。

 京都にはいくつかの門跡寺院がある。中で天台宗の京都三門跡が、三千院妙法院、そして青蓮院である。周知のとおり門跡寺院は、かつて皇室や摂関家の子弟が門主を務めていた寺である。伝教大師最澄は、比叡山にいくつかの僧坊を営んだが、その一つの東塔南谷にあった青蓮坊が青蓮院の起源と云う。「青蓮」とは仏の目の美しさの形容である。最澄から円仁、安恵、相応と延暦寺の法灯を継いだ者が青蓮坊を伝承した。第十二代行玄の時、鳥羽院の帰依を受けて、十三歳の第七皇子が行玄の弟子になる。皇子は得度し覚快法親王となられた。以来、皇室と縁が出来た。鳥羽院の寵妃美福門院が殿舎を寄進し、青蓮院と名を改めて門跡寺院となったのである。一世門主が行玄、二世が覚快法親王、以後明治になるまで門主は皇族か五摂家、一時期の室町将軍家の子弟に限られ、とても格式の高い寺であった。余談だが室町六代将軍足利義教は、元は天台座主たる義円で、四代義持の四人の弟の一人である。義持の死後、息子の五代義量はすでに亡く、六代将軍の座は義持四人の弟がくじ引きで決めた。当たりを引いたのが義円で、還俗して義宣と名を改め(後に義教に改名)六代将軍となった。話を戻すが、行玄が洛中から参拝容易なこの地に青蓮院を降ろし、青蓮院は粟田御所とも別称された。山上の青蓮坊は山上御本坊と呼ばれ、室町時代までは門主が叡山に登った折の住坊とされた。東山は昔からの景勝地で、平安貴族が競って住んだと云うから、この場所の誘致は比較的容易ではなかったかと思う。青蓮院の北東には、貞観十八年(876)創建の粟田神社が鎮座する。粟田口は京の七口のひとつで、粟田神社は古くから旅立ちの守護神として崇敬されているが、寺がここへ降りてからは、青蓮院すなわち粟田御所の鬼門封じも兼ねたのではあるまいか。先日、粟田神社へ参詣したが、高台にあってまことに気持ちのよい場所であった。眼下には岡崎の町並みが広がり、その向こうには黒谷や吉田山がこちらをわずかに見下ろし、さらに仰げば比叡山。青蓮院との位置関係からもあながち間違いではない気がする。

青蓮院の本尊は熾盛光如来曼荼羅である。熾盛光如来(じしょうこうにょらい)は大日如来仏頂尊で、仏の智恵と光を発するほとけさま。熾盛光如来を本尊として祀る寺は珍しく、私は青蓮院以外には知らない。台蜜では熾盛光大法なる修法があり、嘉祥三年(850)に慈覚大師によって鎮護国家を目的に始められた。熾盛光大法は天台宗にとって最も重要な修法のひとつとされる。その熾盛光如来を守護するのが、不動明王である。青不動が青蓮院の本尊と思われがちで、私もここへ来るまではそう思っていた。熾盛光如来は小高いところ慎ましく建つ本堂に祀られている。以前は国宝青不動の複製が本尊と背中合わせで祀られていた。今、国宝の青不動は将軍塚青龍殿へ安置され、この本堂に祀られていた複製も、青龍殿の御前立となっている。青不動はこの本堂の背後のずっと高みから熾盛光如来と洛中を守護している。青蓮院の青不動は、高野山の赤不動、三井寺の黄不動と併せて日本三大不動画とされる。青蓮院をイメージするとき、まず思い浮かぶのはやっぱり青不動である。密教不動明王は青、黄、赤、白、黒の五色で表されるが、中で青不動はその中心に在って、大日如来の化身ともされ最上位と云う。青蓮院の青不動は藤原中期に描かれた仏画で、不動明王の象徴たる火焔渦巻く中、右手に三鈷剣を持ち、左手には羂策をさげ、岩坐に座し憤怒の形相で見下ろしている。脇待として右に矜伽羅童子、左に制叱加童子を従えている。番茶色の背景、火焔と両脇待が変化のある朱色で良い差し色となり、それにゆえに不動明王の鮮やかな青がまことに映えるのだ。すべてが絶妙な配色。そもそもは不動明王を礼拝する仏画であり、その荘厳さはまったく信仰の対象となったに違いないが、美術品として見ても傑作だと思う。青不動は仏画の枠を超越した美しさで、見る者を物凄い迫力で圧倒するのだ。

青蓮院の門前には二本の巨大な楠木が、あたかも寺を守護する仁王のように大体躯で枝を広げている。山門に入ってすぐに堂宇は見えず、右手の坂を登ってゆくと、宸殿の大玄関に達する。山門の左手奥には植髪堂が建っていて、ここには親鸞聖人の剃髪が祀られている。青蓮院は天台宗門跡寺院だが、浄土真宗の祖親鸞を奉じるのは、親鸞がこの地で得度したからであろう。東山には法然親鸞の足跡が多い。元は叡山で修行した彼らが、叡山では己が仏道を探せないでいて、悶々としていた。彼らが山を下りてまず活動を始めたのが東山であった。ずっと後に蓮如もここで得度したから真宗とは殊の外深い縁がある。親鸞は下級貴族の日野氏に生まれ、九歳で叡山へ登った。叡山での師が当時青蓮院の門主であった慈円である。ここで注目すべきはやはり慈円のことであろう。慈円は「玉葉」を著した関白九条兼実の弟で、幼いときに青蓮院に入寺し、仁安二年(1167)天台座主明雲について受戒した。そして叡山の道の真ん中を歩いてゆく。青蓮院を託されたため吉水僧正とも呼ばれた。慈円摂関家から絶大な庇護を受けて、四度も天台座主になり、青蓮院も隆盛してゆく。青蓮院が以後も門跡寺院としての格式を保ち続けてゆく由縁をつくったのが、他ならぬ慈円なのであった。慈円は、史論書「愚管抄」を著し、歌人としても「拾玉集」をまとめている。教養と詩歌に長けた、当代随一の知の巨人であった。天台座主として叡山、僧兵を率いているにも関わらず、奢り高ぶることはなく、法然親鸞が叡山を下りて、己が仏道に進んでもそれを庇護している。このあたりが摂家出身者の面目躍如で、極端に事を荒立てるのを好まなかった性格と思われる。慈円は吉水にあった青蓮院の一坊を法然に与えた。それが後に知恩院に発展し今や京都屈指の大伽藍になった。また大谷には親鸞の祖廟があるが、ここが本願寺の起こりともされている。江戸期までの本願寺門主は、青蓮院で得度しなければならず、一時本願寺が、門跡とか脇門跡と呼ばれたのも、青蓮院が深く関わっていたからなのである。だが、時代を経ての趨勢は不思議なもので、今や青蓮院は知恩院や東西本願寺に、伽藍も信徒数も遠く及ばない。寧ろそこに慈円の魂が生きている気がする。自分の出自をひけらかさず、天台座主としても力を誇示することをしなかった慈円は、真に己が仏道を知り、極め尽くした人ではなかったか。今の慎ましい青蓮院がそれを語っている。例の門前の二本の大楠と境内に他三本ある大楠は親鸞のお手植えと云われる。寺を守る仁王像のようであると書いたが、思えば太くどっしりとした量感は、雅やかな青蓮院には似つかわしくない。が、そこには親鸞の想念が今も活き活きと宿ってい、格式高い青蓮院と我ら衆生との番いになっている気がした。その想念は慈円法然に対しても向けられたものであったかもしれない。此の地が親鸞が得度した場所なればなおのこと、私にはそう思われてならない。

秋の朝の青蓮院は静かであった。紅葉は始まっていたが、ピークには少し早かったこともあるだろう。夜のライトアップには多くの人々がやってくるが、清々しい朝は人もまばらで、青蓮院を味わうには最高であった。龍心池を中心とした回遊式庭園は、大きくはないが、程よい規模で、はらはらと舞い散るもみじ葉を眺めながらの散策には絶好。堂宇は明治中期の再建でも、さすがに百年以上経過して、今やしっとりとした風情で収まっている。中心伽藍の宸殿は入母屋造りで瓦屋根のせいか、御所の紫宸殿と比して少し重々しい感じはあるが、前庭にはきちんと左近の桜と右近の橘が植わってい、この演出のみによって平安王朝を彷彿とさせる趣きがある。庭園の奥には好文亭と云う茶室があるが、後桜町天皇も使われた創建時の好文亭は、平成五年(1993)新左翼中核派により放火され焼失してしまう。いわゆる京都寺社等同時放火事件である。この時京都の門跡寺院がゲリラの標的とされた。しかし二年後の平成七年(1995)に好文亭は再建されている。この日ちょうど好文亭では釜が懸かり、青蓮会の茶会が開かれていた。着物姿で入山してくる人々は、名うての茶人や京都人と推察した。ここでの月釜は青蓮会と云い、表千家裏千家、方円流、宗偏流、宝山流が輪番で懸けているとか。流派を超えて茶の湯を守り立てているのは、茶の湯を嗜む者としてはありがたい。青蓮院に限らず、日本各地の寺や神社は茶の湯と深い関わりを今日でも絶やすことなく、寧ろ積極的に茶室を開放したり、茶会の座を提供してくれている。茶道界でも献茶式を行い、寺社との縁を大切にしている。この先、寺社と茶の湯はますます強固に結びついていくだろう。双方の発展と守護にはこれほど都合のよいつながりはないと思う。それにしても青蓮院はまことに雅かな佇まいである。往時の堂宇は度重なる火災で悉く焼けてしまい、今あるのは明治期に再建された建築ばかりだが、かつて粟田御所と呼ばれた頃の色香を少しも失ってはいない。寧ろ今からがなお、門跡寺院として格式が放つ真の意味と美を、輝かせる時ではないかと思う。余談だが、私はこの寺の青蓮香という香を愛用している。松栄堂さんが作っている青蓮香は、気高く優しい香。この香を焚くと私はいつのまにか眠ってしまう。秋の柔らかい木漏れ日の中の青蓮院散策は良かったが、この日私は夜になって再び青蓮院へやってきた。どうしてもまた夜の青蓮院を見たかったのである。そこは数年前と同じ趣向で美しい青い海があった。やはり初めの印象が強いせいかもしれないが、私は夜の青蓮院が好きだと思った。

青蓮院の裏手の山上には将軍塚がある。ここは青蓮院の飛び地で、標高二百メートルあまりの高さにあり、青龍殿という御堂が建っている。先に述べたとおり、ここに国宝の青不動と、複製の御前立が安置されている。青龍殿には清水の舞台の四倍も以上ある大舞台が設けられていて、この大舞台や将軍塚の展望台から洛中を見渡せば、東山でもっとも良い眺めであると聞いていたので、ぜひ登ってみたいと思っていた。将軍塚は京都きってのパワースポットとして有名で、桓武天皇和気清麻呂を伴い、ここで平安遷都を決めたと云う。平安京の守護として将軍の甲冑を着せた像を埋めた場所と云われるが、実際は人柱も立てたやもしれない。源平盛衰記太平記には、「世に異変あるときはこの塚が鳴動する」と記されている。東郷平八郎もここを訪れた。兵を率いる将軍として、何かを得たかったのだろうか。青龍殿は平成二十六年(2015)に、青蓮院の堂宇として落慶した。この建築もとは大正天皇の即位を記念して、北野天満宮前に建てられた大日本武徳会京都支部武徳殿と云う武道場であった。戦後、京都府に移管し平安道場と呼ばれ、柔道や剣道の道場として一般開放されたが、老朽化で解体が決定したところ、青蓮院が引き取り、修復して将軍塚に移築した。美しく蘇生した青龍殿は、武人にも崇拝されてきた不動明王を祀る御堂としてまことに相応しいと思う。

果たして青龍殿の大舞台からの眺めは素晴らしかった。晩秋の碧空はどこまでも高くて、北東には比叡山、北西には愛宕山が京の町を見護る様に睥睨している。左大文字などの五山も、鞍馬や貴船の山々も、御所も、鴨川も、京都タワーもよく見える。まるで箱庭を眺めるようで、京都を自らの手中に収めた感じがする。こうして見ると京都盆地は広くて狭い。この場所はまさに洛中の東の中心にあり、四神相応の青龍の地に建っている。凄い場所に私は立っているのだと痛感した。あんな爽快なところはない。東京での仕事、人間関係、日々の暮らし、思う通りに進まぬ夢、そんな憂さも、ここに来て、この景色を眺めたらいっぺんに晴れた。そう、この澄み渡る空の如く。全く青蓮院という寺は青色一色である。青不動、青蓮院と云う寺名、青のライトアップ、青龍殿と青い空。青色の極みだ。あわよくば、青い鳥が飛んで来ないかと思ったが、そう都合よくはいかなかった。

 

 

皇位継承一スメラミコト一

天皇と云う尊称が慣わされたのはいつ頃ことだったのか。どうもはっきりしないらしい。学説も大きくは推古天皇以降とする説と、天智天皇から天武天皇にかけてとする説に二分されていると聞くが、天皇と呼ばれる以前には、大王と呼ばれていたことは間違いないとか。大王と書いてオオキミと呼び、天皇と書いてスメラミコトと呼んだとも云うが、これも意見が分かれている。私には訓読みの方が、いかにも神々から継承されてきたという感じがする。天皇には様々な尊称があり、天孫であることを示すヒノミコがもっとも古そうである。次いでスメミマノミコト、スメロギ、スメラミコトなど、統治に由来する言葉が当てられた。この後、アキツミカミ、アラヒトガミなど神聖さを表すもの、中国的表現に由来する聖、万乗、天子、皇帝、帝王、帝、聖上、至尊も使われるようになる。さらには御所に由来する御門、禁裏、宸儀、乗り物に由来する乗與、或るいは御上、主上、今上、当代、当今なども時代ごとに広く天皇の尊称とされた。中で私が注視したいのが、スメラミコトという尊称で、スメルとはすなわち統べるの意ではないかと思う。だとすれば、天皇の尊称としては日本の統治者たるにもっとも相応しい。天皇と云う尊称は、奈良朝の何事においても漢風の時代の賜物なのである。ちなみに、これまで女帝は十代八人(皇極と斉明、孝謙と称徳は重祚)存在したが、主にはヒメノスメラミコトとか、ヒメノミコトと尊称された。スメラミコトは天皇大和言葉として記紀にも記述されている。

 初代神武天皇から第二十五代武烈天皇あたりまで、神代の天皇はその存在自体がはっきりしないところもあるが、すべてが想像のみでは神話は成り立たない。半信半疑で読むからこそ、神話は面白いのである。神武天皇という尊称は奈良時代に奉じたものとかで、古事記上つ巻の最後に登場する神武天皇の記述では「若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)」とあり、またの名を「豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)」、またの名は「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」とある。カムヤマトイワレビコが今日でもよく知られているが、これは神武東征の意味を多分に含んでいる。「倭」は大和の古い書き方であり、「伊波礼」は大和の桜井に古くからある地名「磐余(いわれ)」であろう。継体天皇や用命天皇が暮らした皇居は磐余のあたりにあったとされる。カムヤマトイワレビコの名は、九州から大和に東征し、大和朝廷が発足していったことを示している。略してイワレビコとも云う。

古事記中つ巻の冒頭にはこのようにある。

神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬の命とニ柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、

いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」

とのりたまひて、すなはち日向より発ちて、筑紫に幸行でましき

ここから神武東征とその道のりが述べられてゆく。神武東征の道程はよく知られているが、ざっと記しておくと、日向から宇佐を経て、筑紫の岡田の宮に一年滞在し、阿岐の多祁里の宮に七年、吉備の高島の宮に八年滞在した。こうして力を蓄えながらさらに東へ。海路瀬戸内を淡路を経て浪速に向かい、河内に入り、紀ノ川を越えて熊野へ至る。この間、河内では生駒の豪族登美の那賀須泥毘古と戦い、熊野へ入る途中も葛城あたりの豪族と交戦し、熊野では大きな熊が現れ、神武天皇と付き従う兵士たちは気を失う。この熊というのも九州の熊襲のような存在であろうか。熊を充てたのは後の熊野信仰に通ずる布石に違いない。意気揚々と日向を発し、宇佐、筑紫、安芸、備後を配下にして勢いよく東征してきた。ここまでもはっきりと神々の居るルートを通っており、宇佐も吉備も従えて東征者の権威を高めてゆく。それにしても足かけ十五年以上かけてゆっくりと進軍するところが、かつては急進的な変化を好まなかったであろう日本人らしい。いつから日本人は事を急くようになったのか。きっかけは仏教伝来か、大化改新だったか。或いは明治維新以降なのか。それはまた別に考えるとしよう。

浪速から熊野で神武軍がやや劣勢になってしまうのは、いかにこの地が強大な力を有する神、すなわち土着の豪族がいたかが知れる。同時にこのあと大和へ昇り、平定する神武軍が、より強き者に立ち向かい、それを降してヒーローに奉る伏線ともいえる。その後、神武軍の元に、熊野の民「高倉下(タカクラジ)」が一横刀を持って現れた。

高倉下の申すに、「おのが夢に云はく、『天照大御神、高皇産霊(タカミムスビ)の神二柱の命をもちて、建御雷タケミカヅチ)の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし。その葦原の中つ国は、もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降らさね』とのりたまひき。ここに答へまをさく、『僕(やっこ)降らずとも、もはらその国を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂に穿ちて、そこより堕し入れむ。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に献れ』と、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉をみしかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて献らくのみ」

高倉下は熊野の住人で、夢でアマテラスとタカミムスビタケミカヅチを呼び、葦原の中つ国の平定を命ずるが、タケミカヅチは自らが平定に降らずとも、自らの太刀を地上に堕とし、天孫の子孫、すなわち天の御子たるイワレビコに献上させれば良いと説く。果たして高倉下が夢から覚めると、その通り天より降された太刀が倉に突き刺さっていた。それを神武天皇に献上すると、熊野の山々の樹木が倒れ、敵を蹴散らし、神武軍の兵士らも目覚めた。さらにこの高倉下の神託を受け、タカミムスビ高天原より遣わされた八咫烏の導きで、熊野から宇陀を経て、行き先々で悉く勝利し、破竹の勢いで大和磐余へと入った。葦原の中つ国とは高天原と黄泉の国の間、すなわち地上のことである。ついにイワレビコは天の御子として、葦原の中つ国の平定に成功した。そして磐余より少し西へ行った橿原の地に居を定め、初代天皇として即位されたと云う。

 ちなみに日本書紀には、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)、磐余彦尊(イワレビコノミコト)、磐余彦帝(イワレビコノミカド)、とあり、どうしても大和と強く結びつける必要があったことが、しつこく語られていることからも察せられる。日本書記では他に、彦火火出見(ヒコホホデミ)、狭野尊(サヌノミコト)ともあるが、究極は、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)であろう。ハツクニシラス、すなわち天下を始めて馭したスメラミコトというわけである。いわば始天皇であるが、一方古事記の中つ巻では、崇神天皇の項で「初国知ラシシ御真木ノ天皇」と記載があり、御真木の天皇とは崇神天皇のことで、初めてこの国を統治なされたの意という解釈もある。古事記神武天皇の項では、ハツクニシラスの言葉は出てこない。日本書紀では神武、崇神どちらもハツクニシラススメラミコトとあるのは、何故であろうか。スメラミコトの尊称は今も存在するが、使われることはない。せいぜい奈良朝最後の光仁天皇までで、中国かぶれして、平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安遷都を成した桓武天皇以降、スメラミコトと尊称されることは稀になり、天皇、帝、天子、お上、主上などが主流となってゆく。桓武天皇桓武帝と呼ぶに相応しい。

イワレビコの緩急織り交ぜた東征の成功により、スメラミコトが誕生した。このあと二代綏靖、三代安寧と皇位は継承されて、一度も途切れることなく今上陛下まで続いてゆく。記紀に登場する天皇は、崇神、仁徳、応神あたりから少しずつ輪郭を現し、継体からはその存在が多いに高まり、欽明、敏達、用明、崇峻でかなりはっきりとしてくる。そして次の推古女帝より、いよいよ皇位継承を巡るドラマが、神話ではなく実話としてダイナミックに展開してゆく。皇位継承は日本史の背骨になるのだ 。

 

 

青春譜〜チューニング〜

今でも時々、中高時代の夢を見る。吹奏楽部でクラリネットを吹いていた頃の夢である。もう二十五年以上も前で、初めて楽器を吹いてから三十年は経っているが、あの頃、吹奏楽に明け暮れた日々が、よほど脳裏に焼きついているのだろう。現役の頃より楽器を奏でる夢は繰り返し見てきた。ほとんどがコンクール本番や演奏会の夢だが、たまには練習中の夢もある。だいたいが途中で目覚めてしまうのだが、目覚める度、目には共に励んだあの頃の皆の顔が残像し、耳には奏でし音が残存する。その度にしばし茫然とし、それから無性に楽器を吹きたくなる。いつまでこんな夢を見るのかわからないが、青春の欠片を拾っては落とし、落としては拾っている気がする。そのパズルは永遠に完成することはないだろう。それはわかっているが、もう二度と戻れないあの頃を追憶することが、人が少しずつ老いを受け入れてゆく過程においては必要なことではないかと思う。そんな事を想いながら、この青春譜を書いている。

私は中学でも高校でも三年生になると吹奏楽部でトレーナーという役を務めた。トレーナーは外部から専門の人を招いて、指揮者の補佐的指導を行う場合もある。具体的には音楽表現以外に、全体の演奏技術の向上、個別指導や基礎トレーニング、指揮者不在時は代指揮者となる。部員がトレーナーを担う場合もあり、その場合は主に合奏前の全体のチューニングを行う。合奏前にはまず個々でロングトーンをして、基礎音階を吹奏し楽器を温めてゆく。楽器も自分の心身も温まってゆくと、徐々に楽器と自分がひとつになってゆくのを感じる。合奏前に時間があれば、個人やパート練習で譜面をさらったりもする。楽器は季節により音の幅の広がる速度が微妙に変わる。木管楽器金管楽器も気温の変化で収縮するのだ。ましてクラリネットは木製、或いは合成樹脂製のため、他の楽器に比べて気温や湿度による影響はとても大きい。合奏前のチューニングは非常に重要になってくる。絶対音感の持ち主ならば、相当に緻密にチューニングできるのだろうか?美空ひばりさんは、バンドのたった一人の微妙な音のズレを瞬時に聞き分けて指摘されたと云う。それはさておき、絶対音感など持ち合わせない私は、チューナーやチューナー付きキーボードを駆使して(要するに自分の耳と機械に頼りながら)、バンド全体のチューニングをした。吹奏楽で行うチューニングでは、B♭の音が基本となる。オーケストラではそれより半音低いAの音でチューニングをする。吹奏楽ではクラリネットやトランペットなどB♭管が主流のため、B♭で全体を合わせるのだ。一方弦楽器は開放弦がAであり、管楽器も弦楽器に合わせてAでチューニングをする。オーケストラでは第一ヴァイオリンのコンサートマスターがステージ上で最終チューニングを担当するが、吹奏楽でも基本的にファーストクラリネットの最上級生がコンサートマスターの役割をする。場合によっては、トレーナーがコンサートマスターを兼ねて、合わせてゆくこともあり、私もファーストクラリネットであった三年生の時は、自らトレーナー兼コンサートマスターとなった。合奏前には一人ひとりB♭音をロングトーンし、トレーナーがチューナーを442Hzに設定して、チューナーの針が真ん中を指せばチューニング完了。が、これも一定ではなく、一度合ってもまたズレることしばしばあるし、先に述べたとおり、季節ごとに変わる。私が思うに冬よりも夏の方が比較的チューニングし易い印象がある。冬場は楽器がなかなか温まらないし、温まって冷えるのも早いからだろう。そんな時は個別にロングトーンをしたり、マウスピースやリードを取り替えたり、菅の長さを微妙に調整することもある。ここまでくると奏者もトレーナーも職人の如し。しっかりと音を合わせ、チューニングする事がトレーナーの重要な仕事であり、チューニング万端となって、楽団を指揮者へと渡す。責任があるゆえに緊張もするが、大変やりがいもあって、トレーナーになった時はうれしかった。

皆を誘導して、音をまとめることに苦労したせいか、夢でもっともよく出てくる場面が、演奏前のチューニングのシーン。チューニングがなかなか合わずに、何度も音を合わせるのに四苦八苦し、結局合わずに本番となって、冷や汗をかきながら演奏するなんていう夢もある。実際はそんなことはなかったのだが、思えば余程神経を尖らせていたのだろう。それほど音を合わせて、全体が美しいハーモニーを奏でることに、私のみならず、個々が心を砕いていたのである。それは意識することもあれば、まったくの無意識のうちにということもある。吹奏楽部員はそれを何となくわかっていて、いつの間にかそんな能力が個々の身についているのである。日々の練習や努力によって、ただでは決して得られない大きな力を授かるのだ。楽器や全体の音を敏感に感じるようになる。チューニングの良し悪しがわかるようになる。楽器を奏でるスキルのみならず、音楽を表現する者としての技術や能力を自然と備えてゆくことが、或る意味において吹奏楽に携わりし者の凄さなのである。スポーツでも、茶道でもそうしたモノはある。その道をゆき、極めんと欲すれば、自ずと精進し、その道をゆく者にしか備わらない力が、神より与えられるのだと私は信じている。吹奏楽にもそれはある。彼らをよく見てほしい。そして彼らが得た特別な力は、演奏の時に満開に花開き、私たちを散華の中に誘うであろう。続。

なおすけの平成古寺巡礼 江戸深川

広重の「名所江戸百景」が好きで、複製ではあるがすべて所蔵している。江戸の様子、江戸人の暮らしを垣間見るには、「江戸名所図会」とともに必須である。名所江戸百景のお気に入りの場面は数多あるが、中で一番美しいのが、「深川洲崎十万坪」である。この絵だけは一見すると江戸を描いた感じがしないのだが、よく見ればやっぱり江戸としか思えないところが良い。「名所江戸百景」でもっともダイナミックな作品だ。真冬の雪空を滑空する鷹が画面上に大きく描かれ、荒涼たる開発途上の深川洲崎を見下ろしている。鷹は、餌を探すのか、人を睨んでいるのか知らないが、遠くには筑波の峰が見え、まさしく鳥瞰図である。深川より先の洲崎、今の東陽町や砂町あたりを俯瞰した場面であろうが、あの時代、このあたりが未開地であり、いかにも江戸の果てであったことがはっきりとわかる。

寒中、友人を連れて深川を散歩した。私は江戸情緒が残る深川を歩くのが好きだ。隅田川対岸の日本橋人形町に比べたら敷居が低く、親しみやすい印象を受けるのは、ここに暮らす人も多いからであろう。深川はオフィスよりも商店や住宅が目立つ。江戸という町を大まかに見て、江戸城より東南は下町、西北は山手。今や日本橋や銀座は下町というイメージが薄らいでいるが、本所や深川はいかにも東京の下町の暮らしや文化が残り、その匂いは些かも衰えてはいない。中で深川は江戸の抜け殻が、たくさん見つかる町。現代東京の下町の双璧をなすのが浅草と深川であるが、江戸期、浅草や深川は御府内ではなく、江戸郊外の歓楽地であり、新興住宅地であった。特に本所や深川は城下とは隅田川を隔てており、「川向う」と呼ばれた。現代東京でいえば、ちょっと前のお台場とか、若洲のあたりと想像したらいい。寒村江戸が拡大の一途を辿るのは寛永期からで、江戸庶民が闊歩した深川は、江戸の新興住宅地の先駆けであった。家康は江戸入府以来、この地の埋め立て、干拓、造成を深川八右衛門ら数人の摂津人に託した。彼らは漁師の元締や庄屋である。人が住み始めて、村の名前はすんなりと深川村となった。深川が幕末までさほど幕府の干渉を受けなかったのも頷ける。ここは庶民が一から創造した町なのだ。江戸城下の川向うには、庶民に対しての自由の大地を与えることが、徳川幕府の飴と鞭の撫民政策であったと思われる。深川、本所、向島などの川向うは撫民政策の特区であったと云えよう。

清澄白河から門前仲町まではちょうどいい散歩コース。江戸はベネチアをも凌ぐ水都であった。ことに本所深川は掘割が縦横無尽にあって、まことに交通運搬に至便なところであった。このうち動脈と云えるのが、北十間川、竪川、大横川、横十間川小名木川仙台堀川である。中で小名木川は本所と深川の隔てにあって、川幅、水量ともにもっとも大きい。小松川のあたりで旧中川より分流し、東から西へと流れ、隅田川に注いでいる。河口には広重や北斎も描いた萬年橋がかかってい、橋を渡ると芭蕉ゆかりの地がある。芭蕉は一時このあたりを住まいとし、ここから奥の細道の旅路へと向かった。隅田川沿いには芭蕉銅像あり、芭蕉記念館あり、芭蕉も参禅したと云われる臨川寺がある。芭蕉庵の跡地にはささやかな芭蕉稲荷が建っているが、尾張屋金鱗堂の切絵図では、幕末頃このあたりに紀州家の下屋敷があり、邸内に芭蕉古跡と記されている。このあたりは江戸中期以降に紀州家に与えられ、紀州家が邸内に稲荷を勧請し、維新後に紀州家の土地から町に却った時に、芭蕉稲荷と呼ぶに至ったのであろう。

清澄庭園から清澄通りを挟んで、資料館通りという小路に入る。清澄庭園紀伊国屋文左衛門から大名家、三菱岩崎家へと渡り、後に東京都に寄贈された。資料館通りに入ると左手に大きな甍の霊巌寺がある。霊巌寺には白河楽翁の墓があり、清澄白河の白河とは白河楽翁に因む。白河楽翁こと松平定信は、寛政の改革を行った江戸中期後半の老中で、老中就任前には、宿敵田沼意次と政争を繰り広げた。定信は宝暦八年(1759)、徳川御三卿の一つ田安家に生まれた。十代将軍家治には世子家基がいたが、安永八年(1779)に十八歳で急死、俄かに将軍継嗣問題が浮上する。この期を見逃さなかったのが、同じく御三卿の一橋治済であった。治済は稀代の策謀家である。御三卿は将軍家の家族同様と見做されたため、必然、時期将軍をたてる筆頭と暗黙された。八代吉宗が起し、九代家重の時分に御三卿が整えられてからは、御三家は家格こそ御三卿より上でも、将軍継嗣を出す親藩としては一歩外に出されてしまった感がある。治済はこれを傘に我が子家斉を時期将軍に擁立するために動く。御三卿のうち清水家は当主や家臣団の出入りが激しく、実質は田安家か一橋家から時期将軍が擁立されるのは、この時代の幕閣の周知であった。田安家当主治察は病弱であったが、弟の定信は爽健かつ英邁と評判であった。いずれ将軍に推す声もあり、定信自身もその気であった。これを危惧した治済は、時の権勢者田沼意次に働きかけ、定信を白河藩松平家に養子縁組させることに成功する。定信はこの時より意次を恨んだ。 治済の思惑通り、治察は早逝し、事もあろうに田安家には治済の五男斉匡を送り込み、どう転んでも、治済の子が時期将軍となることが必定となった。果たして十一代家斉が将軍となって、その後見役として治済は凄まじい権勢を誇る。家斉に田沼意次を罷免させ、松平定信を幕閣に迎えて老中首座とした。これは私見であるが、家斉の将軍就任と同時に治済にとって意次は不要の駒となった。寧ろ邪魔者となった。飛ぶ鳥を落とす勢いで、権勢を手にした意次は、田沼時代と呼ばれる一時代を自らの才覚のみで築きあげた。意次は江戸期において、もっとも革新的な改革者であった。米経済から貨幣経済への転換を試み、株仲間を公認し、蘭学をはじめとした学問の自由を推奨した。こうした改革者の下では、治済や家斉とて、いつ引きずり降ろされるかわかったものではない。したたかな策士である治済が、そんな事を考えなかったはずはないのである。紀州家の下級藩士から、家重小姓となり、とんとん拍子で最高権力者となった意次の眩しさは、御三家譜代門閥の保守派からは疎まれいた。意次は極めてしっかりとしたビジョンを持っていたのだが、世が世であって、それは旧態以前へ回帰を願う保守派の力も、今の我々には想像がつかぬほど強大であった。その保守派の急先鋒に育っていたのが、松平定信であった。治済は密かに定信と連携して、田沼意次の追い落としを企てたものと思う。折しも天明の大飢饉が起こり世は荒んでいた。およそ二十年に及ぶ田沼政治にも翳りは見えていたのである。ここで颯爽と現れた定信は、吉宗の享保の改革を参考にして、貨幣経済から米経済への回帰をし、農村復興のために農村に資金援助をして、江戸に流入していた百姓を帰村させた。田畑の再開墾や子供の養育のため幕府の公金を貸付たり、旗本御家人の札差からの借金を帳消しにした。石川島には人足寄せ場を設けて無宿者を収容し、職業訓練と江戸の治安維持を図った。学問も朱子学以外の学問を異学として、基本的には禁止し、幕府の役人も朱子学を学んだ者に限り登用、湯島聖堂学問所を、幕府直轄の昌平坂学問所に改めている。出版も厳しく統制し、山東京伝蔦屋重三郎は風俗を乱すとされ罰せられた。この頃、ロシアのラクスマン蝦夷根室に通商を求め来航、しばしば日本近海に外国船が現れるようになったことから、定信は海防にも力を入れて、自ら相模や伊豆の沿岸警備を視察し、強化に努めた。こうして定信は、田沼政治から政策の大転換を半ば強引に推し進めた。が、これを心から歓迎したのは一部の保守派のみで、自由を謳歌した田沼時代からしたら、粛清ばかりで、人々は窮屈な世となったことを嘆いている。

白河の清きに魚のすみかねて 元の濁りの田沼恋しき

このあまりに有名な落首は、当時の人々の皮肉とか鬱憤とかのみならず、いつの世も為政者が裸の王様であることを如実に示していると私は思っている。もっとも定信政治のすべてがまちがっていたわけではない。天明の大飢饉白河藩は、ただ一人の餓死者も出していない。これはひとえに定信の指導力の賜物である。定信の治世は意次よりずっと短く、わすが六年で改革は頓挫し、失脚した。藩政に戻り、後に隠居して楽翁と号した定信は、度重なる屋敷替えや火災に遭い、流転の日々を送る。深川洲崎の地にも洲崎海荘という隠居屋敷があったことが縁で、死んだあとはここ霊巌寺に埋葬された。霊巌寺寛永元年(1624)、浄土宗の僧霊巌により開かれた。元は日本橋近くの霊岸島にあったが、明暦の大火でこの地へ移転してきた。増上寺を中心とした浄土宗関東十八檀林の一つで、江戸期を通して大寺院であった。また江戸六地蔵の第五番とされ、今も境内には笠をかぶりどっしりとしたお地蔵さんが鎮座している。

霊巌寺門前を資料館通りと称するのは、近くに深川江戸資料館があるからだ。この資料館には、ここらあたりに来たらぜひ立ち寄ってほしい。内部には江戸の町家暮らしの一部が再現されていて、規模はさほではないが、とても忠実に江戸人の暮らしが垣間見られる。私は何度もこの江戸の町を訪れているが、いつ来ても楽しい。ここで江戸人の暮らしにほんの少し触れてみると、いかに我々現代人が無味無臭の寒々しい世を生きているかを痛感させられる。我々は人と人との交わり希薄な寂しい時代を泳がされているのだ。

このあたりは霊巌寺を中心とした寺町で、出世不動尊など大小が点在している。雲光院は慶長十六年(1611)、阿茶の局の発願により建立された。阿茶の局は家康の側室で、甲斐武田氏の家臣の娘である。未亡人で家康との間に子は恵まれなかったが、豪胆かつ才覚に富んでいたことから、家康は常に手元に置いて寵愛し、秘書のような役割を果たしたとされる。正室築山殿を早くに殺めた家康は、その後秀吉に押し付けられた朝日姫を後添とするも死別、その後は生涯妻を娶らず側室を侍らせたが、阿茶の局は半ば正室同然の扱いを受け、周囲も自然にその成り行きに任せていた。それほど阿茶の局とは、家康にも周囲にも、一目置かれて然るべき人物であったのだろう。大坂の陣では徳川軍の和睦行使を命じられており、徳川初期にこれほど政治的に活躍した女性は阿茶の局と春日局をおいて他にはいない。徳川将軍家の大奥の礎を築いたのは春日局だが、阿茶の局はそのはじめの地固めを成したとも云える。家康亡き後、元和六年(1620)、秀忠五女和姫が後水尾天皇に入内するにあたり、阿茶の局は傅役の老女として宮中に近侍し、従一位を賜る。寛永十四年(1620)、八十三歳で亡くなり、深川の雲光院へ葬られた。雲光院は阿茶の局の戒名である。家康の側室となるまでは苦労の多い日々であったが、果ては位人身を極め尽くした彼女は、何を思ってこの地に眠るのであろうか。

資料館前にある深川めしの店に入った。この店は何度めかだが、炊き込みとぶっかけ二種のあさり飯が食べられる。大工が食べた炊き込み、漁師が食べたぶっかけと云うのが店の売り文句である。実際どうであったのかは、営業妨害になるから詮索はしないが、江戸庶民のほとんどが、炊き込みより調理が楽で、ちゃっちゃと掻っ込めるぶっかけを好んだに違いない。味はどちらも確かで、炊き込みはアサリの香がたっていて、ぶっかけは濃いめの味噌との絡みが絶妙。どちらも旨い。選べと云われたら迷う。ゆえにどちらも一膳ずつ楽しめる膳を頼んだ。深川めしは江戸人のソウルフードのひとつだが、江戸人が食したのはあさりよりもアオヤギやハマグリが多かったと云う。アサリが一般的になったのは明治中頃から大正にかけてで、江戸前の良いアオヤギがとれなくなったからではないか。 清澄白河には最近自家焙煎を楽しめるカフェが点在する。美味いらしいが、私はまだいっぺんも飲んでいない。コーヒーは飲んでみたいが、ブルーボトルカフェはいつも人で溢れかえっていて、とても入る気になれない。たぶんこれからも飲む機会はなさそうである。この日もごった返すカフェを素通りして、深川ゑんま堂へ参った。

ゑんま堂から門前仲町はもうそこである。門前仲町は、永代寺の門前町で、深川が賑わい始めてから、今日まで発展を続けている。今、一体は門前仲町と富岡と云う町名だが、古地図によると永代寺の周りは、永代寺門前町、或いは富岡門前町と云い、西側が永代寺門前山本町、通りを挟んで反対側が永代寺門前仲町とある。周囲は掘割に囲われて武家地はない。いずれにしろ永代寺、富岡八幡宮、そして江戸三十三間堂まで加えた広大な寺社域と一体化した大門前町であったことが窺える。ここが深川の中心地であり、深川発展の要であった。深川には江戸最大の岡場所があった。江戸で幕府公認の公娼は新吉原のみで、その他はすべて非公認の私娼であった。岡場所という呼び方には諸説あるが、吉原の原に対して、岡と呼ばれたとも云う。江戸の岡場所は、深川、本所、根津、芝、音羽四ツ谷など寺社門前町には付き物で、精進落としなどと称して、旦那衆や武家の家来たち、時には淫行の僧や神官にまで持て囃された。大名や旗本の子息もお忍びで通い、非公認とはいえ、取り締まりは形ばかりの緩きもので、幕府は暗黙していた。が、松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革の時は、さすがに憂き目に遭うほどの厳しい取締りをしたらしいが、嵐が去れば不死鳥の如く蘇った。寺社の参詣人を当て込み茶店が出来て、いつの間にかそこで働く女たちが遊女となり、水茶屋とか料理茶屋になったのだろう。寺社側も土地を貸して収入を得ていたし、上納金もあったから、堂々と軒先での商売を許していた。深川には岡場所が七箇所あって、仲町がその中心であった。最盛期には遊女五百人あまり、芸者は三百人あまりいて、ことに深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ名を馳せた。辰巳芸者は男勝りの気風の良さを売りとし、薄化粧に黒羽織、素足を晒して、髪もすっきりと結いあげていた。芸者は決して色は売らなかったが、何もかもが豪奢で虚構の吉原とは正反対で、地味で自然なところが江戸人には人気があったと云う。寧ろ、江戸人の好みをよく知り尽くしていたといえる。チャキチャキの江戸っ子たちは、吉原よりも深川を愛し、北国の傾城太夫よりも、深川の辰巳芸者を愛した。辰巳とは江戸城から見て、辰巳の方角にあるゆえだ。

永代橋は元禄十一年(1698)の架橋である。赤穂義士も吉良邸から泉岳寺への途上、永代橋を渡っていった。それまでは深川の渡しを使うことが一般であった。もっとも江戸期を通して付近には渡しがたくさんあっただろうし、昭和の中頃まで、隅田川にはいくつかの渡しが残っていた。門前仲町のあたりはかつて永代島と呼ばれる島であった。だんだんの埋め立てで、掘割に囲われた町となり、掘割も埋められた今は島の面影はない。そういえば豊島も湯島も、昔は島や半島のような土地であったわけで、江戸が水の都であったのは、深い入江や湿原ばかりの不毛地帯であった場所が、うまいこと開拓開発されたからである。日本において江戸ほど大開発が敢行され続けた土地はなく、それが大成功をおさめたところはない。それは今もって継続中であり、未来都市のモデルケースでは世界でも群を抜いている。永代島には鎮守として砂村から八幡神社が勧請された。富岡八幡宮について、詳しくは前にも書いたから省きたいが、一昨年、宮司家の骨肉の争いのせいで一時期は参詣人が離れたと聞いたが、この日は前と同じように盛大な骨董市が立っていて、ようやく元の賑わいを取り戻しつつあるように感じた。

深川には江戸三十三間堂もあった。富岡八幡宮の東に三十三間堂町があり、南北に細長いお堂に千手観音を祀っていたが、京都の三十三間堂のように千体の観音像があったわけでない。江戸三十三間堂徳川家光の命より、浅草に建立され、元禄期に深川へ移転した。専ら武芸奨励のため、通し矢を行う競技場として、建立された感が強い。「名所江戸百景」にも「深川三十三間堂」とあり、細長いお堂は画面いっぱいに入り切れていない、広重お得意の手法で描かれている。おかげでその規模が察する。天下の総城下町江戸では京都以上に通し矢が盛んであった。江戸三十三間堂も、廃仏棄釈の煽りを受けて明治五年(1872)に取り壊された。ここに今、三十三間堂があったなら。私はいつも想像する。本当に廃仏棄釈とは惨たらしい。たぶん後の震災や空襲で焼けたかもしれないが、いかにも残念の極みである。跡地には碑が建っているが気づく人も稀で、今では八幡宮裏の数矢小学校の名にのみ、その残像をとどめるにすぎない。

富岡八幡宮別当寺として寛永元年(1624)に永代寺は創建された。富岡八幡宮徳川幕府から厚い崇敬を受け、庶民にも慕われて江戸最大の八幡宮になると、門前町は大きく成長していった。同時に永代寺も隆盛し、最盛期には富岡八幡宮を凌ぐほどの力を持ち、深川を代表する寺、いや江戸でも指折りの巨刹になった。今の深川公園はすべて永代寺境内であった。多くの塔頭が立ち並ぶ姿はさぞや壮観であったろう。大栄山金剛神院永代寺と云う名前からして、いかにも大寺院であったことを彷彿とさせる。永代寺では成田山不動明王の出開帳が、元禄十六年(1703)から安政三年(1856)にかけて十一度も開かれた。成田不動の江戸出開帳は、江戸期に通算十二度開かれたが、このうち十一度が永代寺であった。成田不動は初代市川團十郎が、子宝祈願をして二代目團十郎が授かった縁で、市川宗家から崇拝され成田屋という屋号にもなっている。團十郎不動明王に扮した芝居も大当たりして、江戸庶民の間でも成田山詣が盛んになり、目黒不動などの五色不動も賑わった。それ以降不動信仰はピークに達し、永代寺は不動信仰の中心地となる。出開帳の時はいつにも増して大変な人出で、門前町も大いに栄えたのである。爛熟期の江戸を象徴するような寺と門前町を抱えた永代寺も、明治の神仏分離令で大打撃を受け、ついには廃寺となってしまった。明治政府は東京に在ったいかにも江戸らしい遺産を、悉く容赦なく潰している。が、庶民の信仰の力とはそう簡単に廃れない。不動信仰の花は種を落としていたのである。明治十一年(1878)、不動堂が再建されて成田山東京別院となった。今の門前仲町はこの深川不動堂富岡八幡宮門前町として、全国に知られている。

現在の深川不動堂は、実に「今の日本仏教」を体感できる。旧本堂を遺しながら、前衛的な新本堂が平成二十三年(2011)に完成した。外観には不動明王梵字が無数に埋め込まれ、およそ寺の本堂には見えないが、それが参詣者の関心を惹く。内陣は掘り下げてあり、そこでは定時に護摩焚き供養が行われている。堂内は何処もかしこも不動明王像ばかりで、ただただ圧倒されるが、不思議と威圧とか押し付けとかは感じない。面白いのがクリスタル回廊。ここは本堂左手から入り、大きな数珠を繰りながら、本尊の真下を通り抜ける回廊で、壁には一万体ものクリスタルの宝塔が埋め込まれ輝いている。よく見れば宝塔の中には一つ一つに小さな不動明王が座しており、信者でなくともここを歩く者は心身清まる思いがし、ありがたい気持ちに駆られるであろう。寺も時代ごとに変わってゆかねばならぬ。いや変わらぬところと、変わるところが混在してこそ、現代から未来へと寺が生き残る最大の術であろう。同時に我々が寺を訪れて何かを見て、何かを感じて、何かを考えて、何かを得るには、時代にマッチした姿勢や佇まいが、ことに現代人には求められている。深川不動堂はそれを存分に叶えてくれるし、仏教に触れ、思いをめぐらすきっかけを与えてくれる。永代寺も唯一残っていた吉祥院と云う塔頭を、明治二十九年(1896)に再興して現在に至るが、今では深川不動堂塔頭の様に、参道の傍に慎ましい佇まいである。しかしかえって、でしゃばらない楚々とした今の永代寺が私には好ましい。この深川の地にも相応しいと思う。深川はずっと神仏混淆の聖地である。きっとこの後もそれは揺るがぬであろう。

 

皇位継承一天孫降臨一

日本の歴史の中には、常に天皇の存在があった。神の国とは言わないが、国家の中心には天皇がおわし、時には親しく政を行い、時には精神的支柱、或いは文化的支柱とされた。明治以降は一世一元となり、まさしく天皇の代替わりが時代の節目となっている。明治維新後、天皇は現人神と奉られ、国家元首であり、日本軍の大元帥であった。うまく利用されたとも云えるが、そんな簡単な事でもないことも事実である。戦後、天皇は日本国と日本国民統合の象徴と憲法に明記された。この四月に退位される今上陛下は、これまでのどの天皇よりも民衆の傍に寄り添われてきた。五月に皇太子さまが即位されたら、百二十六代天皇となられる。これから退位礼、即位礼、大嘗祭など、皇室にとって重要なる儀式が数多行われる。私は昭和から平成にかけての皇位継承をよく覚えている。中学生であったが、昭和天皇崩御から、今上陛下の即位礼、大嘗祭までを好奇心旺盛に追った。それが日本史を紐解きたいと云うきっかけのひとつともなった。三十年前の代替わりは、昭和天皇崩御と云う暗い雰囲気の中で厳粛に行なわれた。今上陛下や皇族方は一年間喪に服される。こうした状況で新時代が幕を開けたが、決して華々しく平成が始まったわけではなかった。これは明治から大正、大正から昭和も同じであった。譲位による代替わりを除けば、いつも新しい御代を迎えるのは似た雰囲気であったと思う。

言うまでもなく神代の天皇は、日本神話の延長線上に在って、在位期間や没年齢を見ても、現在はっきりと記録が確認できるのが、第二十六代継体天皇からであると云うのが定説である。が、八幡神たる応神天皇や、世界最大の墳墓に眠る仁徳天皇とて、私は伝説をまったく信じないわけではない。何らかの足跡があるが故に、伝説や伝承は生まれたはずであり、ましてや天皇の事である。良きも悪しきも様々な事が語り継がられて当然であろう。しかしここでは神代についてはあまり深く掘り下げることはしない。私自身の智識など浅薄であって、ここに時間を割くと一生かかってもわからないことばかりだからだ。神代についてはあくまで知られている範囲でのみとしたいが、賢しら口に申すわけではなく、いずれ皇位継承のきっかけとなりし入り口を、ほんの少しだけ覗いてみたい。

天之御中主神(アメノミナカヌシ)ら創造神に始まって、神代七代の最後の二神である伊耶那岐(イザナギ)、伊耶那美(イザナミ)の国産みと神産み、そして死んだイザナミを追い黄泉の国へゆき、その黄泉の国から逃げ戻ったイザナギが、穢れを落として洗い清めたところで、天照(アマテラス)、月読(ツクヨミ)、素戔嗚(スサノオ)が生まれ、アマテラスは高天原を治めて最高神となるが、日本の天皇はその子孫であるとされる日本神話の王道を基にして、話を紐解くことにする。そうでないと、諸説の検証となってしまうし、終わらぬ検証は、門外漢の私には不可能であるからだ。余談であるが、このイザナギイザナミの国産みから神産み、黄泉の国の話は大変可笑しくもあり、或る意味では恐ろしく気味が悪い。そして女性は不浄の存在であると単刀直入に表し、長い間の女性蔑視につながる話になっているとも云えよう。これが現代まで続く日本人特有の陰湿極まる様々な差別や、虐めに連なっていったのだとすれば古事記とは哀れである。が、何も悪気のみで書かれたわけでもあるまい。

深田久弥は「日本百名山」の「白山」の項で、日本人と山についてこう書いている。日本人のふるさとの山への憧憬と望郷の念を、これほど的確に著した文章はないので引用したい。

「日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。そしてその山を眺めながら育ち、成人してふるさとを離れても、その山の姿は心に残っている。どんなに世相が変わっても、その山だけは昔のままで、あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。」

深田久弥のふるさとの山は白山であったが、私にとってふるさとの山は霧島山である。私の生まれ育った日向国は、神話と伝説の宝庫で、寺よりも社の数が圧倒する。高千穂、霧島、西都、青島、鵜戸など神話や古代史の舞台が数多あって、幼少より歴史好きの祖父に連れられて歩き、祖父からよく耳にしたのが、ニニギノミコトの話であった。紙芝居や絵本でも神話を見聞きし、天孫降臨の話は幼いころから何度も何度も聞かされてきた。私の家からは、遥か西北に霧島山が望まれた。霧島山の山容は、正しく「山」という漢字そのままである。確かに神山の風格を備えてい、私は朝に夕に無意識のうちに心中で遥拝した。霧島山とは宮崎県と鹿児島県に跨る霧島連山の総称で、主峰は韓国岳である。二番目に高いのが高千穂峰だが、山容の美しさは霧島山随一で、都城盆地を真っ直ぐに見下ろしている。その崇高なる姿に、あの山には神様がいて守られていると思った。火山の岩盤が育くんだ霧島烈火水という水は美味い。私は霧島烈火水を飲んで育った。全国的に有名になった焼酎も、霧島烈火水で造られている。霧島烈火水は畜産、米、野菜、そして茶の栽培に恩恵を与えている。高千穂峰には天孫降臨の神話が伝承されている。私の想像する天孫降臨の想像図は、狩野探道の描いた天孫降臨そのままである。金銀の八重棚引く雲に乗って天降る神々の姿は、単に神々しいとかいう言葉で表せない。ニニギノミコト以下、付き従う神々は、髪を鬟に結い、服装は我々が想像する古代人のような白衣を着ている。その姿はおよそ武神のイメージとはまったく違う。が、手には剣や槍を携えていて、やはり一丁事あれば迎え撃つ、というよりも圧倒的軍事力を誇示し、地上の抵抗は許さぬという無言の威圧を感じる。この絵が描かれた時代背景が多分に影響したことは想像に難くはないが、実際に古代人の最強勢力が他勢力を屈伏させ、古代国家を統一する姿とはこうであったかもしれないとも思わせる。天降りの決定的瞬間が、或る意味あれ程写実的に描かれた絵はあるまい。神々はまさにこの絵に影向している。

古事記上つ巻の天孫降臨の章には、この場面が古事記らしくまことにさらりと記されている。

筑紫之日向之高千穂之霊じふる峰に天降りましき(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけにあもりましき)

この場面はまさしく古事記全体の核心となるシーンであって、私はこの一説を正当化するために、古事記は書かれたと言って過言とは思わない。天孫降臨古事記のハイライト。ここまではあくまで序章であり、この後は天孫降臨の後日談を語りつつ、本質は天皇家の権威固めの章とも云える。天照大御神アマテラスオオミカミ)は、子の天之忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)の子、つまりは孫の瓊々杵尊ニニギノミコト)を、高天原から遣わされた。降臨の場所が高千穂峰である。高千穂とは、途轍もなく高い場所の意で、遥か高天原から天孫が降りたつ場所に相応しいとされた。日本には富士山をはじめ、標高千七百メートルほどの高千穂峰より遥かに高い山があるのに、何故ここであったのか。大陸から近く、温暖な南九州は暮らしやすく、水も豊かで、山海の滋味が溢れ、作物もよく実った。古代遺跡からして、畿内より早くから拓けていたのだとも思う。邪馬台国は何処かという話は尽きないが、私は九州説に賛同している。そんなところに、神韻縹渺たる美しい山容で立つ霧島山に、人々が神を拝んだことは当然のことである。天孫ニニギノミコトは、アマテラスの神勅を受けて、三種の神器を携え、天児屋命(アマノコヤネノミコト)をはじめとした八百万の神々を従えて、猿田彦(サルタヒコ)の先導で高千穂峰に降臨してきた。天児屋命は中臣連の祖神、つまりは藤原氏の祖神で、春日大社大原野神社にも祀られているが、記紀成立時の天皇と臣下の勢力図がここにも透けて見えてくる。天孫降臨の地は諸説あり、ここからずっと北の西臼杵郡高千穂町にも天孫降臨の伝説があるが、私の浅はかな想像をさらにたくましゅうすれば、雲海のベールが町を包み、天の岩屋もあり、神々を生き写しつつ奉納される夜神楽が盛んな高千穂町こそが、本当の高天原でありはしないかとの思いに駆られる。少なくとも私には「日向之高千穂之霊じふる峰」は、霧島山以外に考えられない。そのルートは高千穂町から高千穂峰へと南下したのではないかと私は思う。

高千穂峰のてっぺんには、天の逆鉾が突き刺さっているが、今あるのはレプリカで、明治時代に落雷か何かで失ったと云う。天の逆鉾イザナギイザナミが国産みの時に、渾沌とした大地を搔きまわした鉾で、引き上げた時の最初の雫が高千穂峰になったとも云われる。その鉾がそのまま突き刺さっているのが、天の逆鉾である。本物は地中深く埋もれているとも聞くが、真相はどうあれ、一説では奈良時代にはすでにあったらしい。幕末、寺田屋事件のあと、西郷隆盛の勧めで、霧島温泉に湯治に来ていた坂本龍馬は、高千穂峰に登って、かつてあった天の逆鉾を引抜いたと、姉の乙女に手紙を送っている。戦前には霧島山聖蹟として尊崇され、容易に登山することは叶わなかったらしいが、今はそんなことはない。私も登山遠足で数度登った。霧島山の中ほどには、高千穂河原と呼ばれる場所があり、霧島神宮の古宮址がある。ここでは毎年十一月十日、天孫降臨御神火祭が厳かに行われており、天孫降臨の聖地としての面影を多分にとどめている。

 ニニギノミコトは地上にて木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)と結ばれた。そして第二子の火折尊(ホオリノミコト=山幸彦)から、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)が世継ぎとなり、そのウガヤフキアエズから初代神武が誕生する。記紀にはそう記されている。以来、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭…今上陛下まで百二十五代続いてきた。仏教伝来があり、大化改新があり、壬申の乱があり、大仏開眼、平安遷都、摂関院政時代、武家の台頭、南北朝の動乱、室町、戦国、織豊、そして徳川時代まで、時に存続の危機に瀕したこともあったが、日本史の節目節目で天皇はその存在感を示した。スメラミコト、大王、大君、天子、帝と敬称され、天皇と云う敬称が定着したのは、明治維新後で、戦前までは聖上、御上とも敬称された。

新井白石は「古史通」で、神は人なりと言ったが、天孫降臨の瞬間こそが、皇位継承の第一歩であり、皇統の原型とも云えるのではないかと私は思う。譲位による代替わりは、徳川時代後期の光格天皇以来二百二年ぶりのことである。そもそも当世において、天皇代替わりを拝見できることはそうそうない。二度目の私も、三度目はわからないから、やはりこの歴史的な出来事を、前回から三十年を経た今の私の目で、十一月の大嘗祭までをつぶさに拝見し、折角なのでここに書いてみたいと思う。皇位継承を見つめることで、日本や日本人にとって皇位継承とは何なのかを考えてみたい。

青春譜〜新人演奏会〜

年が改まり吹奏楽部も、次のコンクールへ向けて始動する。前年暮れまでに三年生は引退し、部長以下仕切るのは二年生である。が、演奏はまだまだ心許ない。やはり三年生の力は絶大なるもので、三年生が抜けると急に乏しい演奏となる。中には二年生、一年生だけでもとてつもない演奏をやってのける学校もある。それこそ文字通りの余力であるが、そうした学校は全国大会常連校などの一握りである。無論、彼らもそれを承知しているから、本格的にコンクールへの練習が始まる四月頃までは、個々のスキルアップに精進する。まさにここが吹奏楽部の寒稽古と言えよう。その成果は三月に全国大会が開催されるアンサンブルコンテストなどで試される。吹奏楽部は団体であるが、結局は各々の演奏技術の向上に因るところがある。新入生が入ってくると、後輩の指導にもあたらねばならないから、今この時に、自分のため、有効に練習ができるわけである。

この頃、各地で開かれるのが新人演奏会。二年生と一年生だけで立つ初めての舞台であり、この先を占う意味でもなかなか重要な演奏会である。各校ともまずは腕試しといったところか。他校を聴く場合はお手並み拝見なのだが、先に述べたように衝撃的な演奏を聴いて、早くも焦ることもある。新人演奏会はその未完成がゆえの聴き応えがあり、荒削りであっても、キラリと光るモノがあれば、その学校が吹奏楽コンクールまでどうのように成長してゆくのか、ファンとしてもう一つ楽しみもできよう。私も中学で二度、高校では一度新人演奏会に出演した。高校では一度しか出演しなかったのは、エントリーはしたものの、あまりに演奏が酷かったため、直前に顧問の決断で出演辞退したためである。それほど頼りない拙い演奏であった。部員にとって新人演奏会を辞退することは屈辱的なことであったが、その悔しい気持ちをコンクールへ向けての糧としようと決意したことは覚えている。

一年生の三学期、三年生のいない吹奏楽部は、三年生の影に隠れていた二年生が、急に威勢よく取り仕切り、中には人が変わったように横柄な態度をとる輩もいた。そんな連中を私は心の中で馬鹿にしていた。部活においての縦社会というのは、吹奏楽部にも存在する。いや、むしろ体育系のクラブ以上に、先輩後輩の上下関係が根付いている場合もあるかもしれない。私とて嫌々ながらも、当時はそんな先輩達でも従わなければならない時もあり、自分を押し殺すこともあった。決して偏見などではないが、そうした輩は、特に女子に多かった気がする。三年生がいる時は、あんなに優しく挨拶してくれた先輩が、最上級生になったとたんに下級生を顎で使うようになり、挨拶すらおざなりになる。中にはパワハラめいた言動をする輩もいて、呆然としたこともあった。ことに私が所属していたクラリネットは大所帯であり、まるで大奥。パートリーダー木管楽器全体を率いることもあった。人間は目の上のたんこぶが無くなると、こうなるのかということを学んだものだ。とはいえ、そうした輩はほんの一部の人だけであったし、思うにそれは大抵中学生であって、三年生になるという責任感とか、プレッシャーを撥ね付けられないで、向かう矛先を見失ったからに違いない。さすがに高校生ともなれば、そんな子供じみた輩は私の学校にはいなかった。それにあくまでこれは私の中学時代の話であり、今から三十年近くも前のこと。現在ではそうした輩も状況も生まれないのではなかろうか。私自身は以前書いたように、確かに三年生がいなくなったら、その解放感から大いに羽を伸ばしたものだが、後輩を統率し、ぐんぐん引っ張ろうと、我ながらにがんばったと思う。決して虐めたり、威張り散らかすようなことはなかった。と思ってはいるが、果たしてあの頃、後輩達は私をどんな風に見ていたのであろう。今更ながら気になるが、もはや知る由もない。続く。

追悼・兼高かおるさん

兼高かおるさんが逝去された。生涯にわたり百五十箇国以上もの国々を訪ねられ、その距離は地球百八十周にも及ぶとか。その記録は昭和三十四年(1959)から平成二年(1990)まで、「兼高かおる世界の旅」でテレビ放送され、まだ海外旅行が盛んではなかった時代の日本人の憧れの的となった。兼高さんは世界旅行への扉をこじ開けた先駆者である。手探りで目的地を探し、体当たりで取材した。兼高かおるさんは、旅人にとって最良の水先案内人であった。

 兼高かおるさんは、容姿端麗でいつも気品に満ち溢れていた。外国人とも実に堂々と渡り合う姿は格好良く、まるで某国の女王の様であった。ご自身を「わたくし」と呼称し、独特の語り口は優しく淑やかだが、芯の強さがにじみ出ていた。あの頃の日本人は、誰もが兼高かおるに憧れたであろう。戦後の混乱や貧困から、ようやく抜け出そうかというときに、颯爽と登場した彼女は、肩身の狭いを思いをしていた日本人に勇気と元気を与えた。また、世界における彼女の日本人としての振る舞いをみて、日本人たる誇りと自信を取り戻すきっかけとなったに違いない。果たして兼高さん自身がそんなことを意識していたかはわからないが、少なくとも彼女の立ち居振る舞いや言動からは、気高い自信と謙虚さとが同居しているように私には思える。

 兼高かおるさんはトラベルライターのパイオニアであり、多くの紀行文を残した。ここにはいちいち挙げないが、彼女の生き生きとした文章からは、旅の醍醐味が語られ、何よりもご本人が、旅を一番楽しんでおられることが直に伝わってくる。心から旅することを楽しむことで、先に述べた日本人たる誇りとか立ち居振る舞いは、彼女の中に自然と醸成されていったと思う。欧米、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、アマゾン、方々訪ね歩き、その国の風土、景色、気候、人、暮らし、食べ物を、見て、聴いて、触れて、食してきたことで、地球は様々なるカラーで染められていることを実感し、それを日本人にわかりやすく、丁寧な伝え続けてきた。時には見たくないもの、見て見ぬふりをするしかない出来事もあったであろう。旅の達人だからこそ、その思考は揺るぎ無くもフレキシブルでなくてはならない。兼高さんの言葉にはそういう思いが込められている。晩年もゆっくりと旅を続けているが、最近はだんだんおもしろくなくなってきたと仰っていた。街並がどこも同じ様になり、地域性、国民性が薄れて、お国柄がなくなりつつあるゆえにか。また、昔の日本のマナーは世界最高水準だが、そもそもが日本においてもそれを使う場所が無くなってしまったと嘆息された。

思えば、グローバル化がもたらしたものとは、いったい何なのであろうか。確かに世界は近くなった。インターネットが普及して便利になった。が、人類はますます空虚な産物になってゆく。争いをやめず、環境を破壊し、動植物を虐げる。このままゆけば、漱石三四郎の先生に語らせた如く、真の滅びがやってくるであろう。しかも今度ばかりは再起不能の滅びであり、日本人に限ったことではなく、世界規模の滅びである。兼高かおるさんは、誰よりも早く自らグローバリゼーションを体現されたことで、今グローバリゼーションの只中を彷徨う我々に、楽しみや夢だけではなく、重大なる警告を遺されたと私は思っている。