弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一践祚一

明日、令和に改元される。新元号漢籍ではなく、万葉集を典拠としたのは個人的にはまことに好ましい。天皇陛下上皇陛下となられ、皇太子殿下が新天皇陛下となられる。上皇とは太上天皇の略称で、天皇の位を譲られると、先帝は上皇となられた。上皇の御座所は仙洞御所と呼ばれる。仙洞御所については前に書いた(2017/6/24)ので詳しくは省くが、仙洞とはすなわち仙人の住む洞穴のことで、統治者として君臨した者は、その地位を退いた後、仙人の如く隠棲するのが理想とされた中国の故事に因む。仙人に見立てられたのは、新帝の相談役として、時に智慧や経験を授ける事を求められたからであろうが、周知のとおり、昔の上皇たちは、隠然たる力を如何なく発揮され、譲位後は院政を敷かれた。寧ろ上皇となられると、玉体としての大きな枷が外れて、何事につけて自由に振る舞われた。上皇は出家なさると法皇と称され、日本仏教界においても一定の影響力を誇示された。白河院後白河院が、叡山や興福寺の山法師から、デモを起こされても、直接攻撃を受けなかったのも頷ける。後水尾天皇は、身体を悪くして灸を据えることを望まれたが、廷臣からは玉体を傷つけることは憚られるとして反対されたため、明正天皇に譲位され、治療を受けられた。と、これはあくまでも口実で、本当は朝廷の押し込めを図ろうとする徳川幕府に対する抵抗であったに違いない。

歴代の皇位継承のシーンで、もっとも苛烈を極めたのは大和朝廷南北朝時代であろう。南北朝については後に述べたいと思うので、まずは大和朝廷皇位継承をさらってみる。聖徳太子亡き後、推古天皇もほどなく崩御されたが、崩御直前まで皇嗣は定まっていなかった。廷臣は聖徳太子の子山背大兄王を推す派と、敏達天皇の子で押坂彦人大兄皇子の子田村皇子を推す派に分かれたが、山背大兄王は田村皇子より若年であったため、田村皇子を皇嗣に立てられた。この頃、崇仏派の蘇我氏の台頭が著しく、蘇我蝦夷が意見を取りまとめたが、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘刀自古郎女で、山背大兄王蝦夷の従兄弟に当たり、反蘇我氏との対立を避けるため、蝦夷は敢えて田村皇子を推挙したとも云われる。蘇我蝦夷はその辺りの気遣いができる人物であったし、未だ聖徳太子の威光は強く、和は尊ばれていた。舒明天皇には中大兄皇子大海人皇子がいたが、未だ幼少のため、舒明崩御の後、皇位の空白を埋めるように皇后が践祚し、皇極女帝となる。上古より皇族間の極めて入り組んだ、いや入り乱れた近親相姦の影響で、皇位継承はますます複雑化してゆく。これを尻目に蘇我氏は増長し、邪魔になった斑鳩宮の山背大兄王を滅ぼすという暴挙に出た。蘇我蝦夷、入鹿親子の権勢は揺るぎないものとなりつつあった。いつしか蘇我氏皇位を狙っているとさえ噂され、事実当人たちも満更でなかったに違いない。そして皇極天皇四年(645)七月十日、飛鳥板蓋宮で乙巳の変が起きた。事変の首謀者は中大兄皇子中臣鎌足で、専横の蘇我氏排斥に成功し、同時に豪族の力を削ぎ、朝廷に権力が集中すべく大化改新が始まる。まさに目の前にてこの大事件を目撃した皇極女帝は失意され、自分の後を中大兄皇子にと考えたが、中大兄は辞退し、結局は異母弟の軽皇子へ譲位された。これが史上初の天皇譲位と云われる。こんな血腥い譲位であったため、軽皇子も始めは固辞されて、古人大兄皇子を推挙するが、古人大兄が蘇我氏の血を引くため、中大兄らに拒絶され、やむなく皇位を継承されて孝徳天皇となられた。こうなってくるとまるで押し付けられた感が強く、もはや天皇となること自体が迷惑な事で、誰しもが身の危険を避けた。武闘派の中大兄ですら固辞したのだから、孝徳天皇の心中は如何許りであったか察するに余りある。が、中大兄が固辞したのは、事変の熱りを冷ましたかったからに他ならず、実権は中大兄にあり、これを鎌足が補弼した。

孝徳天皇は飛鳥より人心を一新して難波宮に遷都されたが、折り合いのつかぬ状態となった中大兄は母たる先帝皇極や公卿百官を引き連れて、飛鳥へ戻ってしまい、一人残された孝徳天皇は恨みを飲んで病死された。ここでもワンクッション起きたかったのか、中大兄は母に再登板を乞い願い、先帝皇極は重祚して斉明天皇となられた。中大兄皇子は自らが天皇となるには、盤石の態勢を欲し、緩急織り交ぜた絶妙の政治センスで、したたかに根を張っていったのである。それには命が懸かっていたわけで、これまでの経緯をよく見ていたからだろう。斉明天皇時代に皇太子となり実権を握りながらも、母帝亡き後もすぐに皇位を継承せず、しばらくは皇太子のまま政務を摂った。正式ではないが実質的に摂政である。もう中大兄の前に政敵はいなかったが、大きな理由として白村江の戦いがあったからであろう。重祚された母を或いは神功皇后に重ねて、武運を肖ったのではなかろうか。しかし結局、白村江は敗戦となり、飛鳥から近江大津京に遷都してからようやく、中大兄皇子天智天皇として即位された。天智天皇の御代から文字通り大和朝廷が発足したと言えよう。大和朝廷はその過程から血腥く始まったが、歴代天皇で名実ともにはっきりとした専制君主となられた最初の天皇天智天皇であった。

今ではあまり聞かれなくなったが、新しい天皇皇位を継承することを践祚(せんそ)と云う。践祚とはすなわち即位でもあるが、古くから使われている言葉は践祚であって、正確には践祚が空白なく天皇の位を継承することで、即位はそれを内外に明らかにして、即位の大礼を執行うことによる意と私は解釈する。践祚の意味は、「宝祚を践む」ことで、宝祚とは皇位のことである。歴代天皇は、先帝が崩御されるか、譲位されると、直ちに践祚の式をあげた。践祚の式は即位礼や大嘗祭までの即位の礼の一環の儀式で、新天皇が最初に臨まれる儀式である。践祚の式では賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀践祚朝見の儀を行う。賢所は皇室の祖たる天照大御神を祀る神殿のことで、現在は皇居内の宮中三殿賢所皇霊殿、神殿)の中心に在る。まずは賢所皇位継承を奉告され、次いで皇祖を祀る皇霊殿と、八百万の神々を祀る神殿に奉告する。そして、剣璽渡御の儀により皇位の証たる三種の神器を継受され、践祚朝見の儀で、関白以下の公卿廷臣を召された。

神宮外苑聖徳記念絵画館は、明治天皇の御一代記を絵画にして展示している。ここに展示されている絵画は、日本人ならば誰しも一度は目にしたことがある有名な絵ばかりで、ことに大政奉還、王政復古、五箇条の御誓文西郷隆盛勝海舟江戸開城談判、廃藩置県岩倉使節団の欧米派遣、憲法発布式などはよく知られている。一枚一枚が縦およそ三メートル、横およそ二メートルもあり、明治天皇の前半生四十枚が日本画、後半生四十枚が西洋画の技法で描かれている。合計八十枚の巨大絵画は圧巻で、幕末明治に関心ある人は感激するであろう。これらの絵画の中に、「践祚」という絵があり、明治天皇践祚の式の様子が描かれている。十四歳で皇位を継承された明治天皇は、この時は未だ髪を角髪(みずら)に結い、紅顔の美少年として描かれているが、眼光は鋭く、時代を切り開く君主たるに相応しい凛々しきお姿である。私には践祚という言葉を聴くと、幼い頃から見てきたこの絵を思い出す。若き天皇の前には、侍従が恭しくかしずいている。御前には神器らしき漆箱のような物が置かれているが、剣璽渡御の儀もしくは践祚朝見の儀の様子で、朝見であればかしずいているのは、最後の関白二条斉敬であろうか。余談だが、神宮外苑は旧青山練兵場で、ここで明治天皇大喪の礼が挙行された。聖徳記念絵画館は葬場殿の跡に建っている。外観は花崗岩、内部は化石も見つかる大理石で造られた美しい建物は、外苑のシンボルであり、銀杏並木の先に浮かぶ姿は誰でも知っているだろうが、中に入ったことのある人は意外に少ない。私はここが好きで何度も訪れているが、中には明治天皇の愛馬金華山号の剥製もあり、在りし日の明治大帝と日本史上もっとも激動の時代であった幕末から明治という時をを大いに偲ぶことができる。

さて、昭和から平成にかけての践祚から三種の神器の継承、朝見の儀までを、当時中学一年であった私の見た記憶で、振り返ってみよう。昭和六十四年一月七日の明け方臨時ニュースが放送された。宮内庁の藤森長官が「天皇陛下には、本日午前六時三十三分、吹上御所において、崩御遊ばされました 謹んで哀悼の意を表します」と発表した。ニュースは同時に、「皇太子明仁親王殿下がただちに皇位を継承され、第百二十五代天皇に即位されました」と報じた。その後、竹下首相による内閣総理大臣謹話があって、小渕官房長官による新元号「平成」が発表された。午後からは宮殿松の間で、剣璽等承継の儀が執り行われた。これがかつての剣璽渡御の儀である。あの日、松の間で儀式に参列したのは男子皇族他、周りはすべて男性であった。当時、剣璽等承継の儀は男性しか立ち会いを許されていなかったが、此度は女性閣僚の参列もあると聴く。しかし此度も皇族は男子のみに限られるらしい。三種の神器とは八咫鏡草薙剣八尺瓊勾玉である。天照大御神から天孫瓊瓊杵命に授けられ、孫の神武天皇から代々へ承継されたとされる。八咫鏡は伊勢の内宮に奉安されており、形代と云う複製が宮中三殿賢所に奉安されている。あとの二種のうち草薙剣熱田神宮に奉安されその形代と、八尺瓊勾玉天皇陛下のお側近く御所の剣璽の間に奉安されている。また剣璽等承継の儀では、天皇の印たる御璽と国の印たる国璽も受け継がれる。御璽や国璽は、天皇が国事行為として行う法律や条約の公文書に署名される際や、勲記授与で押印される。天皇にはその存在の証として、代々三種の神器が伝承されてきた。また皇嗣には壺切御剣(ツボキリノミツルギ)と云う太刀が受け継がれている。平成元年一月九日には、即位後朝見の儀が宮殿松の間で行われた。皇族や三権の長が参列したが、これがかつての践祚朝見の儀にあたる。テレビ中継されて、今上陛下は日本国憲法を守り、我が国の国運の進展、世界平和、福祉の増進を希望され、象徴天皇としての務め果たす旨の意のお言葉を述べられた。明日、令和元年五月一日、松の間において、剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀が行われる。私は再びその時に遭遇するが、平成生まれの皆さん、古えより続くこれからの御即位の儀式をとくと御覧あれ。

先ほど、皇居では憲政史上初の退位礼正殿の儀が行われた。今上陛下の最後のお言葉を胸に刻む。本当に平成はあと数時間で終わるのだ。誠に感慨深い。この感覚は年の瀬の様でまったくそうではない。今を生きる二十一世紀の日本人が、初めて経験する気持ち。この言い様のない不可思議な気持ちを当世の人々と共有している。またこの気持ちは当世の人にしかわかるまい。昭和から平成は天皇崩御と云う暗いムードの中であって、粛々と淡々と経過したが、此度はまったく違う。何せ二百二年ぶりの譲位による践祚であり、世は平成が終わる寂しさと、令和が始まる奉祝の高揚感とが混在した、まさに独特の雰囲気である。昭和から平成を覚えていない人や、まったく知らない平成生まれの皆さんは如何に思っているのだろうか。私とて、これから上皇天皇を戴く時代が始まるかと思うと、様々な想いが胸中を去来し、年甲斐もなく興奮している。今夜は眠れそうもない。

青春譜〜ロングトーン〜

基礎と云うものは、人が何事かを成すにおいて、如何なる場合にも重要である。こんな当たり前の事を、この歳になって痛感させられている。茶道の稽古を始めて三年、お薄の点前は何とか出来るようになったが、なかなか水の流れるようにとはいかない。今はしっかりと型を身につけるべく稽古中。いつの間にか始まって、いつの間にか終わる。そんな自然な点前を、さらりと出来る様になるには、到底未熟であり、生涯かかっても、私は到達することはないかもしれない。しかし、世阿弥も花鏡で説いた「離見の見」と云う心持ちで、己が点前を省みることが、今の私には必要だと思っている。師匠にも自分の点前の足の運び、手の位置、道具の持ち方や扱い方など、基となる型を改めて細く教えていただいている。こちらから尋ねたわけではないが、先生がそのつもりで指導されていることは、弟子にはしっかりと伝わっている。

管楽器を演奏する者にとっても基礎が出来ていないと、後々、苦労することになり、結局は回り道になってしまう。繰り返すがこれはどんな事においても同じである。管楽器の基礎とは、個々の楽器の演奏法、肺活量を鍛える体力作り、腹式呼吸の習得、読譜や暗譜など多岐にわたるが、中学生くらいまでならば吸収力は大きく、間違いなく速い。やってる当人はキツイこともあるが、日々の鍛錬は確実に我が物となってゆく。それが自分でも手に取る如く解るようになれば、もうそれは自分の物となっているだろう。が、一にも二にも基礎である。

管楽器の演奏の基礎中の基礎は、やはりロングトーンに尽きる。ロングトーンとはそのままの意で、管楽器を一音のみ一定の音量で長く深く吹くことである。私の行っていた日々の練習では、楽器を組み立てると、まずマウスピースのみで、ロングトーンタンギング(舌で空気の流れを一時的に遮断し出始めの音を明瞭にする吹奏法)をして、リードを湿らせたり、マウスピースとリードの隙間を調整し、マウスピースと本体を接続して、息の入り加減や、まっすぐに音が出ているか確認する。うまく調整できたらロングトーンを開始する。始めは低い音からロングトーンするのが一般的だろう。徐々に高音域へとロングトーンし、自身の出せる最高音域、或いはその楽器の出せる最高音までロングトーンしたら、今度は最低音まで下がりながらロングトーンする。これを二、三度、時間に余裕がある場合は五、六度繰り返す。さらに季節によっては十度ほどロングトーンすることもあるだろう。こうして、少しずつ楽器を温めて、コンディションを上げてゆくのだ。楽器のコンディションが上がると、奏者と意思疎通が出来るようになる。すなわち求める音が出て、理想の演奏ができるわけだ。ロングトーンは眠っている楽器を覚醒し、奏者と一体化するために、極めて重要なのである。

私も現役の頃、まずは何よりロングトーンの重要さを叩き込まれた。どんなに上達しても、コンクール前の全体練習をするのに時間がなくても、当校当部においてはしっかりとロングトーンすることが課せられた。全部員がそれを当たり前の事として日々守っていた。新入生も楽器を初めて吹く時は、先輩から教わる事は まずロングトーンである。それからタンギングや運指を覚えてゆくのだ。ひととおりロングトーンができたら、クラリネットの場合は、ハ音階などで指を慣らしてゆき、正確な運指となれば、その日楽器と自分とが一体化した証である。ロングトーンは長く、開く、温めるの三つの要素を意識する。長くはできるだけ長く音を伸ばす事。開くは喉を開き腹式呼吸には入る事。温めるは楽器を温める事。思えばロングトーンと云う響きや字面からして、如何にも長く太い音が連想される。

天台宗の祖智顗が禅の心得を説き、それを弟子の慧辯が記した「天台小止観」という禅語録がある。たいへん古い本だが、近頃は心身を整えると云う観点からも密かな人気となっている。止観とは坐禅して瞑想することで、天台小止観によれば、坐禅の体勢を作って瞑想に入る時、身体を寛放せよと説く。寛放とはかんぽうと読み、大雑把にわかりやすく言えばリラックスすることだ。私は心身寛ぎ、緊張を解き放つの意だと解釈している。寛放することは東洋医学の呼吸法(例えばヨガなど)にも応用されている。ロングトーンにもこの寛放すると云う表現が一致すると私は思う。喉を開き、ゆっくりと長く深く息を込める。そうすることで楽器は温まり、奏者の心身も余計な緊張が解れて、良き演奏が出来る。ロングトーンはいわば演奏前のストレッチ。ロングトーンをしっかりして、楽器も奏者も寛放せよ。これからの私は茶道においても、緊張と寛放を絶妙に織り交ぜて参りたい。続。

なおすけの平成古寺巡礼 金勝山の残照

私の旅の最強のナビゲーター白洲正子。白洲さんが此の世を去って二十年が経ち、彼女が見た日本の風景はほとんど消え失せ、一部では悍ましき有り様となってしまった。私は二十数年前、初めて白洲正子の代表作「かくれ里」に出逢い、彼女が日本のかくれ里に取り憑かれたように、私は彼女に取り憑かれた。そして少しずつではあるが、白洲正子の旅の足跡を辿っている。白洲正子の道行きに、私も乗っかってみればハズレはない。好きな事、モノ、そして場所の琴線というものは、まったく人それぞれであるが、時に誰かと一致することもある。白洲さんには迷惑かもしれないが、今のところ白洲正子の旅した場所は、私の好みと完全に一致している。そこへ行けば、かろうじてまだ少し、昔の日本があったりする。気持ちが晴れ、心身明瞭となり、その道中から心踊る風景に出逢える。私が死ぬまでこの追体験は続くであろう。白洲正子の紀行文の中で私がもっとも心惹かれているのが近江のことである。愛読する「かくれ里」や「近江山河抄」で、近江に対する不思議な魅力、或いは魔力と言ってよいかもしれないが、とにかく白洲正子が云う、得体の知れない力と白洲正子に導かれて、私も近江を歩き始めた。此度は、予てより願っていた栗東市の金勝山(コンショウともコンゼとも呼ぶ)を訪ねる機会を得た。金勝山は湖南アルプスにある連山の総称で、主峰は竜王山である。その金勝山中に或る金勝寺に参詣し、さらに山へ深く分け入って狛坂磨崖仏を拝しにゆく。ここを訪ねることは長年の夢であった。

先月、友人F君と宇治の丸久小山園の茶工場に見学に行った帰り、車で国道24号を南下して、山城大橋の東詰を左に折れ、国道307号を宇治田原を経て信楽へと入った。途中の宇治田原も、「かくれ里」に登場する。この辺りもじっくり見て回りたいのだが、今日は時間がない。ただ、一帯の眺めは車窓からでも充分に堪能できた。宇治田原は集落が谷あいにあって、その両側の山の斜面に茶畑が高く低く広がっている。こうした谷あいゆえ、霧が発生しやすく茶の栽培にはまことに適しているのだろう。さすがに名高き茶所らしい景色は、普段から茶の湯に親しみ、さらにはさっき宇治茶の茶工場を見学したせいか、とてもありがたいものに思われた。宇治田原は奈良、近江、京都の古都トライアングルのまさに中心にあって、上古より政治的、軍事的にも重要な通過点であった。同時にトライアングルの中心はいかにも真空地帯であって、隠者のかくれ里に相応しい場所であり、都からも実に程良い距離が、彼らに安寧と、事を冷静に見定める落着を与えたに違いない。信楽焼の狸がそこら中に顔を現し始めた。車は信楽に入ったのだ。狸はあまりに大きすぎて気味が悪いものさえあるが、ユーモラスな姿はご愛嬌。実は狸の置物は明治時代に初めて登場し、有名になるのは戦後だと云う。昭和天皇行幸された際、狸の置物に日の丸を持たせて出迎えたことが、新聞に掲載されて、昭和天皇も大変喜ばれたと云う。このあと爆発的に狸の置物は売れた。それまでは古窯として信楽の焼きものは、明るい渋さで健康的な美を湛えていた。同時にまことに実用的であり、近隣の茶所では茶壷に重宝されたのである。宇治田原から信楽に入るとぱぁっと視界が開け急に明るくなる。明るくなるというのは気のせいかもしれない。信楽も宇治田原と同様、確かに山あいの村に違いないのだが、陰から陽になった心地がするのは、地形的なことよりも、信楽の陶土がそう見せるのかもしれない。実際、削られて露わになった山肌に陽光が射している所が見られるが、日本六古窯の一つたる信楽の陶工たちにも、辺境の山奥にいてこの明るさは救いであったと思う。だからこそ自然釉の信楽の焼きものが湛える静謐な明るさが生まれたのだ。

信楽から金勝山を目指すわけだが、ついでに紫香楽宮跡へ立ち寄る。立ち寄るというよりも、金勝山に登る前に、どうしてもここへ来なくてはいけなかった。ゆえに廻り道をしてもらったのだ。天平十五年(743)、聖武天皇は大仏建立の詔を紫香楽宮にて発せられた。その前十年ほどの間、聖武天皇平城京から恭仁京恭仁京から難波宮難波宮から紫香楽宮へと遷都され、そして再び平城京へ還都された。紫香楽宮に行在されたのは天平十四年(742)からわずか二、三年のことだと云う。奈良の既成勢力や南都仏教から逃れるように遷都を繰り返されたが、やはりここは山奥過ぎたのだろうか。天皇は大仏建立を発願し、良弁僧正に命じて、紫香楽宮にて大仏鋳造と大仏殿の建立を試みたがあえなく断念された。内裏野と呼ばれるここには、今や礎石を残すばかりだが、地形的に見てもどん詰まりで、これ以上広げようもない場所である。一説によれば、ここは内裏ではなく寺のみを建立するつもりではなかったかとも云われる。いずれにしろ都還りしたのは、紫香楽宮が、内裏や大仏殿建立には物理的にも困難であったための止む無い選択であろう。ここは王都を築く地ではなく、隠居して俗世を離れて隠れ棲む場所にはいかにも相応しい。が、聖武天皇は隠棲したい心とは裏腹に、どうしても王権を手放すことが出来なかった。紫香楽宮に残る礎石たちは黙して語らないが、聖武天皇の忸怩たる想いを宿している。それは紫香楽宮全体に漂っている。

紫香楽宮をあとにして車は北東へ。新名神高速を潜り、いよいよ金勝山を登る。ヘアピンカーブを幾度も曲がり登ってゆくと、やがて金勝寺の石碑が現れた。寺は金勝山の中腹にある。拝観料を納めて、参道に立った。苔むした低い石垣が両側にあって、その真ん中を、柔らかくゆったりとした絶妙の傾斜の石段が、まっすぐ本堂まで続いている。あたりには杉の大木が亭々と聳え、風の音と鳥の囀りが時々聴こえる他は、静寂である。想像どおりのいかにも古寺と云った寂びた佇まいにすっかり魅了された私は、しばし足を止めて、ついにこの寺へ来られたとの感慨に浸った。金勝寺は私を心中より充たしてくれた。金勝寺の歴史は古く、天平五年(733)聖武天皇の勅願により、東大寺初代別当の良弁僧正が開基した。金勝山は平城京紫香楽宮の東北鬼門にあたり、その鎮護の寺とされたのである。良弁は伝説的な人で実在を怪しむ声もあると云うが、近江や東大寺にあれだけ足跡が残っているのをみれば、実在であると考えるのが自然ではないか。一説によれば、良弁は百済帰化人の子孫とも云われ、帰化人を統率し、建築や石工など、その技術力を存分に活かして、東大寺と大仏鋳造を請け負ったと云う。良弁はまず土木事務所として石山寺を建立し、そこから程近い、金勝山一帯に目をつけた。良質な材木、石材、土、銅や錫にも恵まれた場所として、金にも勝る山と思ったのは、或いは良弁であったかもしれない。その後金勝寺は、興福寺の傘下になり法相宗近江二十五別院を統括し、一時は大菩薩寺と呼ばれた。平安時代になって天台宗に改宗したが、依然として朝廷から崇敬され、国家鎮護の加持祈祷や、勅願寺として重きをなした。金勝寺は往時は大伽藍であったのだろうが、今は慎ましい本堂、二月堂、仁王門、虚空蔵菩薩堂が点々と建っているだけだ。しかしそれらの堂宇はいずれもこの山寺に相応しく思えた。この感じだからゆえに、人麻呂の近江望郷の歌の「いにしえ思ほゆ」という想念に駆られるのである。金勝寺は本尊の釈迦如来虚空蔵菩薩毘沙門天と古い仏像群も素晴らしい。なかで二月堂に安置される軍荼利明王は圧巻である。四メートル近くもある檜の一木造りで、一面八臂で怒髪天を突いている。白洲さんの文章のとおり、物凄い形相で見下ろしていた。さしもの大寺も今は閑散としているが、深山の気、風の音、春を先取りする鳥の声が充満し、寧ろそれが清々しくて、すべてにおいて、忘れがたき寺となった。

金勝寺からさらに登ってゆくと、馬頭観音堂があって、どうやらこの先、車は行き止まりで狭い駐車場になっている。この駐車場から北側が開けており、蒲生野が一望できるが、後にもっと眺めの良い場所があるので、眺望は後ほど述べよう。駐車場の裏手の傍道から尾根伝いに上下しながら狛坂廃寺を目指す。先に述べたとおり、竜王山を主峰としたこの辺りの峰々を総称して金勝山と呼ぶ。渡辺守順氏の「近江の伝説」によれば、竜王の名は、良弁が金勝寺を建立前に七日七晩読経し、祈祷が終わろうとした時、横に一人の女が首を垂れて座っていた。女は良弁に天に住んでいたが、鵬の迫害にあって地上に降りたが、安住の地が欲しいと悩みを打ち明ける。とその時、ザーッと云う轟音ともに紅蓮の火の玉が二つ輝いたかと思うと、大蛇がとぐろを巻いて現れた。良弁は竜王だと直感し、念珠を握って打ちかかった。すると大蛇は再び女の姿になり、自らは八大竜王である。この山に住まわせて欲しいと良弁に願う。良弁は願いを聞き入れて、金勝山西の山頂に祠を建て、竜王を祀った。以来、金勝山の鎮守たる主峰として辺りを睥睨している。今も竜王山の頂にはささやかな祠がある。

金勝山一帯は石の山で、狛坂廃寺への道のりは至る所に巨巌巨石が溢れている。白洲さんがこの巨巌群を見て「素晴らしいというより凄まじい。日本に石が少ないと言われるのは、こういう景色を見たことがない人だろう。」と表現されたことがよくわかる。近江は石の都なのである。金勝山は金勝寺を中心とした山で、往時を偲ぶ仏教遺跡もまた多い。狛坂廃寺も、今は石仏が散在する遺跡であるが、かつては金勝寺の別院であったらしい。かつて金勝山は女人禁制であったが、女人は狛坂寺までは登ることを許されていた。昔はこうした場所があちこちにあり、室生寺高野山の女人堂とも通ずる。また、金とか狛という名があるのも、大陸からの渡来人、帰化人の文化が浸透していたことを語っている。 途中、茶沸かし観音と云う小さな石仏があった。鎌倉頃の作と云うが定かではない。が、茶沸かしと云う名はとても親近感が湧いてくる。昔はここらで一服したのであろうか。金勝寺とは反対側の桐生から登ってくると有名な逆さ観音がある。土砂崩れか廃仏棄釈の嵐に巻き込まれたのか知らないが、金勝山にはこうした石仏が無数にあると云う。今回は時間がなくて桐生の方へは廻れなかったが、いつかまた反対側からも登ってみたい。

茶沸かし観音に手を合わせ、さらに奥へ進もうとした矢先、F君が窪みに躓いた。足を捻った様で苦悶する。断念するか、彼にはここで休んでいてもらい、私一人で先へ行くか迷ったが、彼は立ち上がり同行すると言った。無理はしないでほしかったが、ここまで来たからには私も彼もどうしても、磨崖仏を拝みたい。あの時私たちは、どうも無心になっていた気がする。

私たちは金勝山を彷徨った。入口から一時間歩を進めるが、行けども行けども狛坂廃寺には辿りつかない。山を登って、降って、また登る。巨巌群の中をすり抜け、潜り抜け、沢を越えてゆく。よもや道を誤ったかと心細くなって、引き返そうかと思った時、藪の向こうにとうとう狛坂磨崖仏を見つけた。私は思わず「嗚呼!」と叫び、足を引きずりながら付いてきてくれたF君と握手した。この道程ゆえ、感涙しそうになるほど嬉しかったのだ。磨崖仏はとてつもなく大きいもので、ただただありがたく圧倒される。

白洲正子は狛坂磨崖仏をこう評する。私の稚拙な表現よりもはるかに崇高で的確な文章なので引用する。

「磨崖仏は聴きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のある石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中に、山全体を台座とし、その上にどっしり居座った感じである。」

この文章を読んでから、ずっとお逢いしたかった。お逢いしてみて、ただ言葉を継げぬとはこうした経験をした時であると改めて知った。狛坂磨崖仏はまことに気品に満ちた姿で、千年以上もあの場所に坐している。女人禁制の金勝山で、ここまで来れた昔の女性たちは、私の様に感涙し、伏し拝んだであろう。その心まで宿って、あれほどに洗練された姿に、ごく自然になったのではあるまいか。方々で石仏を拝んできたが、狛坂磨崖仏は、私にとっては石仏の王に見えた。ついに私も、石仏の王に謁見を果たしたのだった。

磨崖仏を拝して、再び元来た道を一時間かけて戻る。行きはよいよい、帰りは怖い。息を切らせながら、また昇り降りをする。幸いF君の足取りはしっかりとしている。途中の国見岩からの眺めは格別であった。北には蒲生野の彼方に三上山、南には信楽鈴鹿の重畳とした山々がどこまでも続き、西には春霞に沈む琵琶湖、その向こうには比叡山が朧気に見えている。国見の名に違わぬ雄大な眺めである。おかげで疲れは吹き飛んだ。春の夕陽が少しずつ西へと落ちてゆく中、後ろ髪を引かれながら、金勝山を降りた。F君はケガをおして私に付き合ってくれたが、夜には腫れてしまい、今もまだ完治せずとか。無理を強いて申し訳ないことをしたと、この場にても謝りたい。が、あの日我々が眺めた金勝山からの景色と残照は生涯忘れまい。それはきっとF君も同意であろうと信じている。私の平成古寺巡礼もここ金勝山に極まれり。

皇位継承一改元一

今上陛下は第百二十五代天皇である。現在の皇室典範には、天皇は男系男子が皇位を継承すると明記されているため、女性が皇位を継承することは出来ないが、秋篠宮悠仁親王様が御誕生になるまでは、天皇家に次の次の代に男子がおられないため、女性天皇即位に向けた議論が活発であった。議論は今や立ち消えとなったが、いずれこの問題は避けては通れまいと思う。確かに天皇家の歴史を重んずれば、男系を絶やすことは望ましくないが、今上陛下と皇族方が、現代の皇室像と云うものを丹念に築かれた上、此度の御退位という御聖断をされた以上、我々国民もその御意志を尊び、今に生きる我等の象徴としての天皇と皇室を支えなくてはならないと思う。

天皇百二十五代のうち十代八人が女性である。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町の十代だが、八人であるのは、皇極天皇孝謙天皇は一度退位し、再び斉明天皇称徳天皇として即位したからである。これを重祚と云う。女性天皇はヒメノミコトとかヒメノスメラミコトと称されたが、女帝と云う言葉が現代人には馴染んでいる。最初の女帝推古天皇は、欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の娘堅塩姫(きたしひめ)。推古天皇は、用明天皇の同母妹であり、敏達天皇の異母妹であり、崇峻天皇の異母姉にあたる。敏達天皇が皇太子時代に妃となり、敏達天皇即位後に前皇后広姫の薨去に伴い、二十三歳で皇后に冊立された。三十二歳の時、敏達天皇崩御され皇太后となる。その後、兄の用明、弟の崇峻が皇位を継承したが、世情不安定で、いずれも短い間に不慮の死をとげられた。皇位を巡る争いはまさしく骨肉の争奪戦となり、まことに熾烈を極めた。この時すぐ様皇位を継承をできる男子がおらず、父が天皇である推古天皇が男系を継げる唯一の方であったため、三十九歳で日本史上初の女帝となられた。推古天皇は聡明で美しき女性であったと云う。無論のこと女帝擁立は急場しのぎの一時的な措置であったはずだが、ブレーンもしっかりしていたのか、推古天皇の御世は三十六年続く。推古天皇は即位すると、甥の厩戸皇子を皇太子にされ、太子は摂政となられ推古朝を支えた。聖徳太子は仏教を重んじ、「厚く三宝を敬え」と説き、十七条の憲法、冠位十二階を定め、遣隋使を派遣、律令国家の礎を築かれた。自らが皇位を継承されることはなかったが、その影響と足跡は推古天皇よりはるかに大きく、後に太子信仰も起きるほど、日本人には特別な偉人として祀り上げられている。聖徳太子が皇族ながらここまで日本人を惹きつけてしまうのは、仏教と深く結びついていたことと、太子がとても人間らしいからである。聖徳太子には数々の伝説があるが、後の日本仏教祖師たちに崇拝され、あたかも釈迦の生まれ変わりの如き存在となった。さらに太子は摂政として実際に政治を司り、具体的に政策を実現していった。律令国家とはすなわち日本と云う国家が形になった第一歩であるが、それを築かれたのは紛れもなく聖徳太子であった。初代摂政は神功皇后ともされるが、明確に文書に顕れるのは聖徳太子からである。推古朝は法隆寺に代表される飛鳥文化の最盛期であり、神代から古代へとバトンタッチされた瞬間であったといえよう。聖徳太子推古天皇より先に亡くなり、その後、崇仏派の蘇我氏が台頭するのも、太子の目指した仏国土が土台となったのである。

まもなく新しい元号が公表される。果たしてどんな元号になるのか。多くの国民の気になるところ。さすがに平成最後の云々にはいささか飽いてしまった。京の都で暮らす冷泉貴美子さんは、日本中が改元に沸き返っても静観しておられる。冷泉さんは「元号が変わるからといって、特別何にも変わりません。」と言う。これが千年培われてきた都人の言葉。泰然自若とした誇りと、何にでも一喜一憂する現代の日本人とは一線を画しますと云う京都人の冷めた見栄が感じられるが、それが私には好印象である。桓武天皇以来、幾たびも皇位継承を近くで見てきたのは京都人だ。ましてや近習廷臣の公家ともなれば宜なるかな冷泉家は俊成や定家に遡る歌人の家である。定家筆の古今和歌集後撰和歌集、明月記を受け継いできた。明治維新天皇が東京へ行幸され、禁裏を取り巻く公家衆もほとんどが付き従ったが、冷泉家は御文庫の保守のために京にとどまった。おかげで幕末に再建された冷泉家屋敷は残り、洛中に残る唯一の公家屋敷として貴重な遺構となっている。その屋敷に冷泉家は今も暮らしており、時雨亭文庫として王朝の歌の家、和歌守としての役割を果たしている。

冷泉さんの様な考え方をされている京都人は多い。洛中洛外の名刹禅刹の坊様方、茶の湯の家元、何百年も続く老舗の主人や職人など、名うての京都人には、もはや一度や二度の改元は、特別なものではないように映る。この一年、平成最後と云う言葉を頻りに聞いた。かく言う私も託けてよく使ったし、このブログでも平成古寺巡礼と題した寺参詣記を書いてきた。しかし、冷泉さんのように京都人にとっては改元も日常の通過点で、新天皇の即位はハレでも、改元はケなのである。

元号は年号とも云う。徳川時代までは年号と呼ばれる方が一般であった。元号の起源は、中国前漢時代、武帝が治めし建元元年(紀元前140)に遡る。隋時代に日本でも元号が知られるようになり、孝徳天皇の御世すなわち大化より元号を用いた。中大兄皇子中臣鎌足乙巳の変蘇我氏を倒し、変後、天皇中心の中央集権国家の樹立を目指した大化の改新が始まる。大化とはいかにも中国的な元号だが、元正倉院事務所長で、「歴代天皇年号事典」の著者米田雄介氏によれば、大化とは「天皇の大きな徳により人民を感化するの意味ではないかと思われる」と云う。大帝国隋の脅威に備えるには、一日も早い中央集権国家の完成を目指し、遣隋使と交流した隋人に、日本と云う国が高度な文明を育んでいることを示すことが必要であった。また、隋の見習うべきところは積極的に見習う姿勢は、恭順の意を示しながらも、まことにしたたかであったと思う。日本では公式な元号としては大化にはじまり、白雉や朱鳥を経てしばらくは途絶えたが、律令制が一応の完成をみる大宝より今日の平成に至るまで続いている。時には白鳳など公式ではない私年号が出てくる時代があるが、私年号は、時の反政府勢力などが、公式とは別に編み出した年号である。それでも白鳳文化と呼ばれるように、白雉や朱鳥よりも白鳳の方が今日広く浸透したのは、まさしく文化のなせる業で、日本人が美に覚醒した瞬間である白鳳時代が、日本文化のビッグバンであった所以であろう。結局、政治よりも文化が勝ったのである。

元号は二字が基本だが、定めはないらしい。これまで聖武孝謙淳仁、称徳時代に四字の元号が、天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲まで五度あったのみで、あとはすべて二字である。そもそも型や形式を重んずるわりに、一方で何でも略式を好む日本人は、あまり長い元号を用いるのは避けたはずだ。大化から数えれば平成まで二百三十一。これは明治天皇南朝が正統と定められたゆえの数で、北朝を加うれば、二百四十七である。元号は昭和が六十四年ともっとも長く、次いで四十五年の明治、三十五年の応永、三十一年の平成、二十五年の延暦の順。もっとも短いのは鎌倉中期の暦仁で僅か二ヶ月であった。明治に一世一元の詔が出され、天皇一代につき一元号と定められる。新天皇践祚に合わせて新しい元号となる即日改元とされたが、平成は翌日改元であった。昭和六十三年秋、天皇の御容態は芳しからざる状態となられ、政府は密かに有識者を交え、改元に向けた新元号の検討に入ったと云う。こうした動きはトップシークレットで、当時は一切漏洩することはなかった。明治以前は天皇が代替わりしても必ずしも改元しないこともあった。やはり政治情勢の動きがもっとも影響したと思われる。改元のきっかけとしては時代により異なるが、奈良時代頃までは、美しい雲や珍しい亀が現れるとめでたい事の前触れであるとされ、これがいわゆる瑞祥で、肖って霊亀神亀神護景雲改元した。白雉には白い雉が現れ、朱鳥には朱い鳥が現れたのであろうか。平安時代以降になると、天変地異が多発して、人々はそれを魑魅魍魎や怨霊の仕業であるとし、鎮護国家や怨霊調伏のために改元するようになる。また元寇や黒船来航など外圧に対しても改元している。わかりやすい例で言えば、後醍醐天皇の御世は元応、元亨、正中、嘉暦、元徳、元弘、建武、延元と八度改元され、孝明天皇の御世は嘉永安政、万延、文久、元治、慶応と六度改元している。ややこしいのは南北朝時代である。何せ六十年有余年の間、両統迭立であったこの時代、南朝北朝それぞれに元号があった。王朝が二分したことは、日本史上において極めて特異なことであり、皇位継承はそれこそ命がけであったのである。後醍醐天皇は各地に皇子を派遣したが、北陸では当地に派遣された皇太子恒良親王に譲位することで、北朝方との和睦を試みるのだが、この時北陸では恒良親王を新帝と奉じて白鹿(はくろく)と云う私年号が使われている。この時代の混沌とした様は、戦国時代以上であったかも知れない。南北朝時代についてはいずれまた後述したいと思う。

いずれにしろ明治以前、人には計り知れない出来事や、風雲急を告げる事が起こると度々改元したのである。朝廷や時の為政者にとっては改元がゲン担ぎでもあり、危難避けや気分一新の手段として、かなり重要とされたことは確かである。一方、明治より前の庶民にとっては、元号改元などほとんど知らぬことではなかったか。庶民が気にしたのは元号よりも暦であろう。無論旧暦であるが、生活に直接関わる暦は、徳川時代には広く深く庶民にも浸透していた。辛酉(かのととり)や甲子(きのえね)の年は、世に変革が起こると云う思想から、辛酉革命とか甲子革令といわれ平安時代以降は改元された。辛酉の年は昌泰から延喜に改元されて以来明治まで必ず改元している。甲子の年は応和から康保に改元して以来、永禄七年(1564)を除き、改元している。いかに辛酉と甲子の年が、昔の人々の気に病む年であったのかがよくわかるが、このことも庶民はあまり知らなかったのではないかと思う。

 私は昭和五十年の生まれ。改元は二度目であり、三代の天皇を仰ぐことになる。四代はあるであろうか。いずれにしろ時代の節目として、此度の践祚改元にあたり、やや緊張感を持って、しかし京都人のようにどっしりとその時を迎えるつもりである。ちなみに私の祖母は大正六年の生まれ。御年百一歳。大正、昭和、平成と生きて、此度四代の天皇を仰ぐ。

青春譜〜アンコン〜

吹奏楽連盟が主催する競技会は、夏から始まる吹奏楽コンクール(本戦は秋)、秋から始まるマーチングコンテスト(本戦は晩秋)、そして冬に始まるアンサンブルコンテストで、これが三大大会とされる。此度はアンサンブルコンテストについて。

アンサンブルコンテストは、吹奏楽コンクールやマーチングコンテストが終わり、最上級生が引退をした十二月から予選が始まる。全国大会は三月に毎年会場を変えて全国各地(支部の持ち回り)で行われている。四十二回目となる今年の舞台は札幌コンサートホールKitaraで本日開催される。アンサンブルコンテストは吹奏楽に携わる者にはアンコンと呼ばれたりする。周知のとおりアンサンブルとは重奏のことで、コンテストでは小編成、小合奏にて演奏スキル、ハーモニー、表現力を競い合う。第一回は、昭和五十二年(1977)に開かれた。一編成は三人から八人で、基本的に木管木管のみ、金管金管のみである。木管金管混合と云う編成もあるのか私は知らないが、たとえばクラリネット五重奏など、同楽器同パートのみという場合が最も多い編成ではないかと思う。無論指揮者は立てない。制限時間は五分で、タイムオーバーは失格である。審査は概ね吹奏楽コンクールと似た審査方法で、金賞、銀賞、銅賞で評価される。アンコンを目指す団体、学校は吹コンやマーチングほど多くはないが、各個人やパートの技術力、表現力、そして団結力の向上には、まことに有効な手段である。一月にも書いたが、十二月から新入生が入ってくる四月まで、在部員にとっては己がスキルアップに励む時。オフシーズンにプロ野球選手がキャンプで基礎体力作りから始めて、一年間戦える心技体を培うことと似ている。アンコンはその成果を課題として挑戦できるので、若い人たちはもっと積極的にチャレンジしてほしい。

 私がクラリネットの演奏をライブで聴いたのは、高校生の従兄弟が出場したアンサンブルコンテストであった。朧げな記憶であるが、確か小学一年か、二年であったと思う。クラリネット三重奏か五重奏で、従兄弟は1stであった。余談だが、私の親戚はブラスバンド経験者が多い。妹はマーチングコンテスト常連校のトロンボーン、一つ上の従兄弟はパーカッション、一つ下の従姉妹がクラリネット、そして我らの先駆けが私がアンコンを見に行った歳の離れた従兄弟で、その嫁さんもやはりクラリネットである。私には子供はいないが、吹奏楽経験者の従兄弟の子や、吹奏楽経験のない従姉妹の子供達も今では中高で吹奏楽部に在籍しているらしいので、その気になれば一家で楽団ができるかもしれない。実際、昔、我らがバリバリの現役時代はよく親戚で集まってアンサンブルしたものであった。音楽一家と云うほど大げさなモノではないが、他にもヴァイオリンやピアノに達者な者や、和太鼓を嗜む親戚もいたりする。存外楽器を演奏したり、皆でカラオケ大会をしたりと、歌や音楽が好きな一族ではある。話を戻すが、年長の従兄弟のアンコンは少人数ゆえの、まことに緊張感溢れるステージであったことは鮮明に覚えている。私が見に行ったのは地区大会だろうが、確か金賞であった。演奏スキルとか曲目は知らない。が、あの張り詰めた空気を、切り裂く一音は、どの音と特定できずとも、今も耳に残っているのである。初体験とは大きいものだ。幼い私に強烈な印象を残した。 それが成長した私を吹奏楽の舞台へと誘うきっかけのひとつとなった。

残念ながら私はアンコンに出場出来なかった。クラリネット五重奏で校内予選に挑み、最終予選まで残ったが、我がクラリネットパートは出場見送りとなり、金管五重奏が地区大会へ出場、九州大会まで駒を進めた。私のクラリネットのレベルが知れようが、全日本アンコンに出場するチームなどは、まことにプロ級の演奏する。彼らくらいのレベルならば、中にはいずれプロのオケや吹奏楽団からスカウトもあるだろうし、あるいはソロアーティストとして活躍する人が生まれるであろう。吹奏楽コンクールの話でも書いたが、アマチュアの大会とはいえ、全日本クラスになると、途轍もない演奏をする人や、チーム、団体があって、まさに神懸かりで聴衆を魅了する。少人数で演奏するアンコンは、吹コンやマーチング以上に、奏者の一人ひとりに注視するため、音もブレスもしっかりと聴こえる。演奏前のあのシンと静まり返った会場の雰囲気はなんとも言えない。奏者も聴衆も緊張はピークに達する。そのしじまを切り裂く一音にすべての魂が込められると言って良いだろう。あの感じはあの場に居合わせないとわからないだろうが、フィギュアスケートの演技前に良く似ている。 いずれにしても、こうした舞台での経験ほど、自身のスキルアップに繋がるモノはなく、何事とも同じく、百の練習より一の本番である。が、一の本番を成功とするには、百千万の練習を要する。これも何事とも同じで、吹奏楽もアンコンもまた然りである。

なおすけの平成古寺巡礼 青蓮院門跡

名刹数多の京都東山。そこに在る寺々は季節ごとにその表情を変えるから、何度歩いても飽くことはない。古都が醸成した高貴なる威厳を湛えながらも、楚々とした情趣の寺が多い。その趣きは東山の懐に抱かれ育まれた。東山の寺は京都にしか現出しないだろう。ゆえに古今人々を惹きつけるのだ。 知恩院の巨大な山門を仰ぎつつ北へ歩くと、程なく青蓮院である。門前は立派な石垣と美しい白壁に覆われてい、まるで城塞の様。知恩院と同じく衛は堅固である。知恩院とは地続きであるが、入山せねば中を伺うことは出来ない。表の厳しさに比して、山内は密やかな門跡寺院らしい佇まいで、境内全体に秘めたる御簾の中といった雰囲気が漂う。この雰囲気はかつて粟田御所と呼ばれた頃から、あまり変わってはいないはずで、一朝一夕で成るものではない。

初めて青蓮院を訪ねたのは、数年前の秋の夜間拝観であった。平成の京都では春や秋に寺社の境内でライトアップが盛んである。特に紅葉の秋、東山では東福寺清水寺高台寺知恩院永観堂などが挙ってライトアップを催し、今や秋の京都観光の目玉になった。青蓮院はライトアップの先駆けで、昨年秋で通算四十五回開催しているが、その趣向は一風変わっている。よその寺院は紅葉を中心にライトアップし、暖色系の灯りで堂塔伽藍を照らしたり、プロジェクションマッピングを駆使して華やかに演出して度肝を抜いてくれる。一方青蓮院のライトアップは、LEDの柔らかい小さなブルーライトを庭じゅう無数に配し、蛍の様に明滅する仕掛けである。そして一本だけ、青いサーチライトが天高く伸びている。青を基調としているのも珍しいが、本尊を守護する青不動や、寺名から連想してこういう趣向なのであろう。夜の帳が下りると、青蓮院の境内は紺碧海になる。堂宇は夜舟か浮御堂に見えてくる。仄かな明かりはまことに静かで、よそのライトアップとはまったく一線を画している。ライトアップには賛否あるだろうが、私は現代人が寺社へ参詣する理由のひとつとして悪いとは思わない。寺社の懐も潤い、寺社が存続するには手段を選ぶことも必要であろう。その手段がどういうやり方であるかは、寺社が決めることであり、守りに入るか、攻めに出るかも寺社の自己責任である。私たちがそれをどう受け止めて、賛否するかもまた自由である。少なくとも今現在、寺社のこうした試みについて私自身は賛成である。実はライトアップよりも、普段はなかなか観ることの出来ない夜の寺を訪れる機会に恵まれることが、何よりも嬉しい。初めて青蓮院を訪ねたあの夜があまりに幻想的で、それで満足し、その後しばらく遠ざかったが、いっぺん日中の青蓮院も観たいと思ってはいた。昨年秋、将軍塚青龍殿へ参詣する折、まずは青蓮院を再訪することにした。

 京都にはいくつかの門跡寺院がある。中で天台宗の京都三門跡が、三千院妙法院、そして青蓮院である。周知のとおり門跡寺院は、かつて皇室や摂関家の子弟が門主を務めていた寺である。伝教大師最澄は、比叡山にいくつかの僧坊を営んだが、その一つの東塔南谷にあった青蓮坊が青蓮院の起源と云う。「青蓮」とは仏の目の美しさの形容である。最澄から円仁、安恵、相応と延暦寺の法灯を継いだ者が青蓮坊を伝承した。第十二代行玄の時、鳥羽院の帰依を受けて、十三歳の第七皇子が行玄の弟子になる。皇子は得度し覚快法親王となられた。以来、皇室と縁が出来た。鳥羽院の寵妃美福門院が殿舎を寄進し、青蓮院と名を改めて門跡寺院となったのである。一世門主が行玄、二世が覚快法親王、以後明治になるまで門主は皇族か五摂家、一時期の室町将軍家の子弟に限られ、とても格式の高い寺であった。余談だが室町六代将軍足利義教は、元は天台座主たる義円で、四代義持の四人の弟の一人である。義持の死後、息子の五代義量はすでに亡く、六代将軍の座は義持四人の弟がくじ引きで決めた。当たりを引いたのが義円で、還俗して義宣と名を改め(後に義教に改名)六代将軍となった。話を戻すが、行玄が洛中から参拝容易なこの地に青蓮院を降ろし、青蓮院は粟田御所とも別称された。山上の青蓮坊は山上御本坊と呼ばれ、室町時代までは門主が叡山に登った折の住坊とされた。東山は昔からの景勝地で、平安貴族が競って住んだと云うから、この場所の誘致は比較的容易ではなかったかと思う。青蓮院の北東には、貞観十八年(876)創建の粟田神社が鎮座する。粟田口は京の七口のひとつで、粟田神社は古くから旅立ちの守護神として崇敬されているが、寺がここへ降りてからは、青蓮院すなわち粟田御所の鬼門封じも兼ねたのではあるまいか。先日、粟田神社へ参詣したが、高台にあってまことに気持ちのよい場所であった。眼下には岡崎の町並みが広がり、その向こうには黒谷や吉田山がこちらをわずかに見下ろし、さらに仰げば比叡山。青蓮院との位置関係からもあながち間違いではない気がする。

青蓮院の本尊は熾盛光如来曼荼羅である。熾盛光如来(じしょうこうにょらい)は大日如来仏頂尊で、仏の智恵と光を発するほとけさま。熾盛光如来を本尊として祀る寺は珍しく、私は青蓮院以外には知らない。台蜜では熾盛光大法なる修法があり、嘉祥三年(850)に慈覚大師によって鎮護国家を目的に始められた。熾盛光大法は天台宗にとって最も重要な修法のひとつとされる。その熾盛光如来を守護するのが、不動明王である。青不動が青蓮院の本尊と思われがちで、私もここへ来るまではそう思っていた。熾盛光如来は小高いところ慎ましく建つ本堂に祀られている。以前は国宝青不動の複製が本尊と背中合わせで祀られていた。今、国宝の青不動は将軍塚青龍殿へ安置され、この本堂に祀られていた複製も、青龍殿の御前立となっている。青不動はこの本堂の背後のずっと高みから熾盛光如来と洛中を守護している。青蓮院の青不動は、高野山の赤不動、三井寺の黄不動と併せて日本三大不動画とされる。青蓮院をイメージするとき、まず思い浮かぶのはやっぱり青不動である。密教不動明王は青、黄、赤、白、黒の五色で表されるが、中で青不動はその中心に在って、大日如来の化身ともされ最上位と云う。青蓮院の青不動は藤原中期に描かれた仏画で、不動明王の象徴たる火焔渦巻く中、右手に三鈷剣を持ち、左手には羂策をさげ、岩坐に座し憤怒の形相で見下ろしている。脇待として右に矜伽羅童子、左に制叱加童子を従えている。番茶色の背景、火焔と両脇待が変化のある朱色で良い差し色となり、それにゆえに不動明王の鮮やかな青がまことに映えるのだ。すべてが絶妙な配色。そもそもは不動明王を礼拝する仏画であり、その荘厳さはまったく信仰の対象となったに違いないが、美術品として見ても傑作だと思う。青不動は仏画の枠を超越した美しさで、見る者を物凄い迫力で圧倒するのだ。

青蓮院の門前には二本の巨大な楠木が、あたかも寺を守護する仁王のように大体躯で枝を広げている。山門に入ってすぐに堂宇は見えず、右手の坂を登ってゆくと、宸殿の大玄関に達する。山門の左手奥には植髪堂が建っていて、ここには親鸞聖人の剃髪が祀られている。青蓮院は天台宗門跡寺院だが、浄土真宗の祖親鸞を奉じるのは、親鸞がこの地で得度したからであろう。東山には法然親鸞の足跡が多い。元は叡山で修行した彼らが、叡山では己が仏道を探せないでいて、悶々としていた。彼らが山を下りてまず活動を始めたのが東山であった。ずっと後に蓮如もここで得度したから真宗とは殊の外深い縁がある。親鸞は下級貴族の日野氏に生まれ、九歳で叡山へ登った。叡山での師が当時青蓮院の門主であった慈円である。ここで注目すべきはやはり慈円のことであろう。慈円は「玉葉」を著した関白九条兼実の弟で、幼いときに青蓮院に入寺し、仁安二年(1167)天台座主明雲について受戒した。そして叡山の道の真ん中を歩いてゆく。青蓮院を託されたため吉水僧正とも呼ばれた。慈円摂関家から絶大な庇護を受けて、四度も天台座主になり、青蓮院も隆盛してゆく。青蓮院が以後も門跡寺院としての格式を保ち続けてゆく由縁をつくったのが、他ならぬ慈円なのであった。慈円は、史論書「愚管抄」を著し、歌人としても「拾玉集」をまとめている。教養と詩歌に長けた、当代随一の知の巨人であった。天台座主として叡山、僧兵を率いているにも関わらず、奢り高ぶることはなく、法然親鸞が叡山を下りて、己が仏道に進んでもそれを庇護している。このあたりが摂家出身者の面目躍如で、極端に事を荒立てるのを好まなかった性格と思われる。慈円は吉水にあった青蓮院の一坊を法然に与えた。それが後に知恩院に発展し今や京都屈指の大伽藍になった。また大谷には親鸞の祖廟があるが、ここが本願寺の起こりともされている。江戸期までの本願寺門主は、青蓮院で得度しなければならず、一時本願寺が、門跡とか脇門跡と呼ばれたのも、青蓮院が深く関わっていたからなのである。だが、時代を経ての趨勢は不思議なもので、今や青蓮院は知恩院や東西本願寺に、伽藍も信徒数も遠く及ばない。寧ろそこに慈円の魂が生きている気がする。自分の出自をひけらかさず、天台座主としても力を誇示することをしなかった慈円は、真に己が仏道を知り、極め尽くした人ではなかったか。今の慎ましい青蓮院がそれを語っている。例の門前の二本の大楠と境内に他三本ある大楠は親鸞のお手植えと云われる。寺を守る仁王像のようであると書いたが、思えば太くどっしりとした量感は、雅やかな青蓮院には似つかわしくない。が、そこには親鸞の想念が今も活き活きと宿ってい、格式高い青蓮院と我ら衆生との番いになっている気がした。その想念は慈円法然に対しても向けられたものであったかもしれない。此の地が親鸞が得度した場所なればなおのこと、私にはそう思われてならない。

秋の朝の青蓮院は静かであった。紅葉は始まっていたが、ピークには少し早かったこともあるだろう。夜のライトアップには多くの人々がやってくるが、清々しい朝は人もまばらで、青蓮院を味わうには最高であった。龍心池を中心とした回遊式庭園は、大きくはないが、程よい規模で、はらはらと舞い散るもみじ葉を眺めながらの散策には絶好。堂宇は明治中期の再建でも、さすがに百年以上経過して、今やしっとりとした風情で収まっている。中心伽藍の宸殿は入母屋造りで瓦屋根のせいか、御所の紫宸殿と比して少し重々しい感じはあるが、前庭にはきちんと左近の桜と右近の橘が植わってい、この演出のみによって平安王朝を彷彿とさせる趣きがある。庭園の奥には好文亭と云う茶室があるが、後桜町天皇も使われた創建時の好文亭は、平成五年(1993)新左翼中核派により放火され焼失してしまう。いわゆる京都寺社等同時放火事件である。この時京都の門跡寺院がゲリラの標的とされた。しかし二年後の平成七年(1995)に好文亭は再建されている。この日ちょうど好文亭では釜が懸かり、青蓮会の茶会が開かれていた。着物姿で入山してくる人々は、名うての茶人や京都人と推察した。ここでの月釜は青蓮会と云い、表千家裏千家、方円流、宗偏流、宝山流が輪番で懸けているとか。流派を超えて茶の湯を守り立てているのは、茶の湯を嗜む者としてはありがたい。青蓮院に限らず、日本各地の寺や神社は茶の湯と深い関わりを今日でも絶やすことなく、寧ろ積極的に茶室を開放したり、茶会の座を提供してくれている。茶道界でも献茶式を行い、寺社との縁を大切にしている。この先、寺社と茶の湯はますます強固に結びついていくだろう。双方の発展と守護にはこれほど都合のよいつながりはないと思う。それにしても青蓮院はまことに雅かな佇まいである。往時の堂宇は度重なる火災で悉く焼けてしまい、今あるのは明治期に再建された建築ばかりだが、かつて粟田御所と呼ばれた頃の色香を少しも失ってはいない。寧ろ今からがなお、門跡寺院として格式が放つ真の意味と美を、輝かせる時ではないかと思う。余談だが、私はこの寺の青蓮香という香を愛用している。松栄堂さんが作っている青蓮香は、気高く優しい香。この香を焚くと私はいつのまにか眠ってしまう。秋の柔らかい木漏れ日の中の青蓮院散策は良かったが、この日私は夜になって再び青蓮院へやってきた。どうしてもまた夜の青蓮院を見たかったのである。そこは数年前と同じ趣向で美しい青い海があった。やはり初めの印象が強いせいかもしれないが、私は夜の青蓮院が好きだと思った。

青蓮院の裏手の山上には将軍塚がある。ここは青蓮院の飛び地で、標高二百メートルあまりの高さにあり、青龍殿という御堂が建っている。先に述べたとおり、ここに国宝の青不動と、複製の御前立が安置されている。青龍殿には清水の舞台の四倍も以上ある大舞台が設けられていて、この大舞台や将軍塚の展望台から洛中を見渡せば、東山でもっとも良い眺めであると聞いていたので、ぜひ登ってみたいと思っていた。将軍塚は京都きってのパワースポットとして有名で、桓武天皇和気清麻呂を伴い、ここで平安遷都を決めたと云う。平安京の守護として将軍の甲冑を着せた像を埋めた場所と云われるが、実際は人柱も立てたやもしれない。源平盛衰記太平記には、「世に異変あるときはこの塚が鳴動する」と記されている。東郷平八郎もここを訪れた。兵を率いる将軍として、何かを得たかったのだろうか。青龍殿は平成二十六年(2015)に、青蓮院の堂宇として落慶した。この建築もとは大正天皇の即位を記念して、北野天満宮前に建てられた大日本武徳会京都支部武徳殿と云う武道場であった。戦後、京都府に移管し平安道場と呼ばれ、柔道や剣道の道場として一般開放されたが、老朽化で解体が決定したところ、青蓮院が引き取り、修復して将軍塚に移築した。美しく蘇生した青龍殿は、武人にも崇拝されてきた不動明王を祀る御堂としてまことに相応しいと思う。

果たして青龍殿の大舞台からの眺めは素晴らしかった。晩秋の碧空はどこまでも高くて、北東には比叡山、北西には愛宕山が京の町を見護る様に睥睨している。左大文字などの五山も、鞍馬や貴船の山々も、御所も、鴨川も、京都タワーもよく見える。まるで箱庭を眺めるようで、京都を自らの手中に収めた感じがする。こうして見ると京都盆地は広くて狭い。この場所はまさに洛中の東の中心にあり、四神相応の青龍の地に建っている。凄い場所に私は立っているのだと痛感した。あんな爽快なところはない。東京での仕事、人間関係、日々の暮らし、思う通りに進まぬ夢、そんな憂さも、ここに来て、この景色を眺めたらいっぺんに晴れた。そう、この澄み渡る空の如く。全く青蓮院という寺は青色一色である。青不動、青蓮院と云う寺名、青のライトアップ、青龍殿と青い空。青色の極みだ。あわよくば、青い鳥が飛んで来ないかと思ったが、そう都合よくはいかなかった。

 

 

皇位継承一スメラミコト一

天皇と云う尊称が慣わされたのはいつ頃ことだったのか。どうもはっきりしないらしい。学説も大きくは推古天皇以降とする説と、天智天皇から天武天皇にかけてとする説に二分されていると聞くが、天皇と呼ばれる以前には、大王と呼ばれていたことは間違いないとか。大王と書いてオオキミと呼び、天皇と書いてスメラミコトと呼んだとも云うが、これも意見が分かれている。私には訓読みの方が、いかにも神々から継承されてきたという感じがする。天皇には様々な尊称があり、天孫であることを示すヒノミコがもっとも古そうである。次いでスメミマノミコト、スメロギ、スメラミコトなど、統治に由来する言葉が当てられた。この後、アキツミカミ、アラヒトガミなど神聖さを表すもの、中国的表現に由来する聖、万乗、天子、皇帝、帝王、帝、聖上、至尊も使われるようになる。さらには御所に由来する御門、禁裏、宸儀、乗り物に由来する乗與、或るいは御上、主上、今上、当代、当今なども時代ごとに広く天皇の尊称とされた。中で私が注視したいのが、スメラミコトという尊称で、スメルとはすなわち統べるの意ではないかと思う。だとすれば、天皇の尊称としては日本の統治者たるにもっとも相応しい。天皇と云う尊称は、奈良朝の何事においても漢風の時代の賜物なのである。ちなみに、これまで女帝は十代八人(皇極と斉明、孝謙と称徳は重祚)存在したが、主にはヒメノスメラミコトとか、ヒメノミコトと尊称された。スメラミコトは天皇大和言葉として記紀にも記述されている。

 初代神武天皇から第二十五代武烈天皇あたりまで、神代の天皇はその存在自体がはっきりしないところもあるが、すべてが想像のみでは神話は成り立たない。半信半疑で読むからこそ、神話は面白いのである。神武天皇という尊称は奈良時代に奉じたものとかで、古事記上つ巻の最後に登場する神武天皇の記述では「若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)」とあり、またの名を「豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)」、またの名は「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」とある。カムヤマトイワレビコが今日でもよく知られているが、これは神武東征の意味を多分に含んでいる。「倭」は大和の古い書き方であり、「伊波礼」は大和の桜井に古くからある地名「磐余(いわれ)」であろう。継体天皇や用命天皇が暮らした皇居は磐余のあたりにあったとされる。カムヤマトイワレビコの名は、九州から大和に東征し、大和朝廷が発足していったことを示している。略してイワレビコとも云う。

古事記中つ巻の冒頭にはこのようにある。

神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬の命とニ柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、

いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」

とのりたまひて、すなはち日向より発ちて、筑紫に幸行でましき

ここから神武東征とその道のりが述べられてゆく。神武東征の道程はよく知られているが、ざっと記しておくと、日向から宇佐を経て、筑紫の岡田の宮に一年滞在し、阿岐の多祁里の宮に七年、吉備の高島の宮に八年滞在した。こうして力を蓄えながらさらに東へ。海路瀬戸内を淡路を経て浪速に向かい、河内に入り、紀ノ川を越えて熊野へ至る。この間、河内では生駒の豪族登美の那賀須泥毘古と戦い、熊野へ入る途中も葛城あたりの豪族と交戦し、熊野では大きな熊が現れ、神武天皇と付き従う兵士たちは気を失う。この熊というのも九州の熊襲のような存在であろうか。熊を充てたのは後の熊野信仰に通ずる布石に違いない。意気揚々と日向を発し、宇佐、筑紫、安芸、備後を配下にして勢いよく東征してきた。ここまでもはっきりと神々の居るルートを通っており、宇佐も吉備も従えて東征者の権威を高めてゆく。それにしても足かけ十五年以上かけてゆっくりと進軍するところが、かつては急進的な変化を好まなかったであろう日本人らしい。いつから日本人は事を急くようになったのか。きっかけは仏教伝来か、大化改新だったか。或いは明治維新以降なのか。それはまた別に考えるとしよう。

浪速から熊野で神武軍がやや劣勢になってしまうのは、いかにこの地が強大な力を有する神、すなわち土着の豪族がいたかが知れる。同時にこのあと大和へ昇り、平定する神武軍が、より強き者に立ち向かい、それを降してヒーローに奉る伏線ともいえる。その後、神武軍の元に、熊野の民「高倉下(タカクラジ)」が一横刀を持って現れた。

高倉下の申すに、「おのが夢に云はく、『天照大御神、高皇産霊(タカミムスビ)の神二柱の命をもちて、建御雷タケミカヅチ)の神を召びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平みますらし。その葦原の中つ国は、もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降らさね』とのりたまひき。ここに答へまをさく、『僕(やっこ)降らずとも、もはらその国を平けし横刀あれば、この刀を降さむ。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂に穿ちて、そこより堕し入れむ。かれ朝目吉く汝取り持ちて天つ神の御子に献れ』と、のりたまひき。かれ夢の教のまにま、旦(あした)におのが倉をみしかば、信に横刀ありき。かれこの横刀をもちて献らくのみ」

高倉下は熊野の住人で、夢でアマテラスとタカミムスビタケミカヅチを呼び、葦原の中つ国の平定を命ずるが、タケミカヅチは自らが平定に降らずとも、自らの太刀を地上に堕とし、天孫の子孫、すなわち天の御子たるイワレビコに献上させれば良いと説く。果たして高倉下が夢から覚めると、その通り天より降された太刀が倉に突き刺さっていた。それを神武天皇に献上すると、熊野の山々の樹木が倒れ、敵を蹴散らし、神武軍の兵士らも目覚めた。さらにこの高倉下の神託を受け、タカミムスビ高天原より遣わされた八咫烏の導きで、熊野から宇陀を経て、行き先々で悉く勝利し、破竹の勢いで大和磐余へと入った。葦原の中つ国とは高天原と黄泉の国の間、すなわち地上のことである。ついにイワレビコは天の御子として、葦原の中つ国の平定に成功した。そして磐余より少し西へ行った橿原の地に居を定め、初代天皇として即位されたと云う。

 ちなみに日本書紀には、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)、磐余彦尊(イワレビコノミコト)、磐余彦帝(イワレビコノミカド)、とあり、どうしても大和と強く結びつける必要があったことが、しつこく語られていることからも察せられる。日本書記では他に、彦火火出見(ヒコホホデミ)、狭野尊(サヌノミコト)ともあるが、究極は、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)であろう。ハツクニシラス、すなわち天下を始めて馭したスメラミコトというわけである。いわば始天皇であるが、一方古事記の中つ巻では、崇神天皇の項で「初国知ラシシ御真木ノ天皇」と記載があり、御真木の天皇とは崇神天皇のことで、初めてこの国を統治なされたの意という解釈もある。古事記神武天皇の項では、ハツクニシラスの言葉は出てこない。日本書紀では神武、崇神どちらもハツクニシラススメラミコトとあるのは、何故であろうか。スメラミコトの尊称は今も存在するが、使われることはない。せいぜい奈良朝最後の光仁天皇までで、中国かぶれして、平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安遷都を成した桓武天皇以降、スメラミコトと尊称されることは稀になり、天皇、帝、天子、お上、主上などが主流となってゆく。桓武天皇桓武帝と呼ぶに相応しい。

イワレビコの緩急織り交ぜた東征の成功により、スメラミコトが誕生した。このあと二代綏靖、三代安寧と皇位は継承されて、一度も途切れることなく今上陛下まで続いてゆく。記紀に登場する天皇は、崇神、仁徳、応神あたりから少しずつ輪郭を現し、継体からはその存在が多いに高まり、欽明、敏達、用明、崇峻でかなりはっきりとしてくる。そして次の推古女帝より、いよいよ皇位継承を巡るドラマが、神話ではなく実話としてダイナミックに展開してゆく。皇位継承は日本史の背骨になるのだ 。